国語教師の“単独性”はどこにあるのか|第6回 「ひたすら実践に励むこと」の陥穽|千田洋幸

 世の大学はそろそろ卒業シーズンを迎えつつあるが、私は教職に就くことになっている勤務校の卒業生たちに、「目の前の授業や校務を懸命にこなしている内に、あっという間に40代、50代になってしまうぞ」とかならず告げる。教師の業務が質・量ともになかなか厳しいものであることは周知の通りだが、同時にこの仕事は感情労働的な側面を多分にふくんでおり、歓びや感情の昂ぶりもさまざまに味わう(過重な業務に疲労していても、「先生の授業面白かったよ」「また来年も先生に担当してほしい!」といった生徒のひと言で救われた気分になったりするのは、わかりやすい卑近な例だ)。仕事の楽しさと辛さの起伏をその都度体験しているうちに、時間は瞬く間に過ぎ去ってゆく。だが、教育実践を日々積み重ねることに充足し、児童・生徒から「良い先生」と慕われ、同僚や保護者からも認められ、教師としての自己肯定感を高めてゆく――一見、実践者としてのあるべき理想像のようではあるが、それだけではむしろ危ういのだ。

 今回のテーマは、目の前の子どものため懸命に教育実践に励むことの陥穽についてであるが、連載第1回で展開した子ども中心主義批判の続編ととらえていただいてもいいかもしれない。私がこの問題について考えてみたくなるのは、つぎのような事例に出会うときである。

 文部省が東南アジアに派遣する日本語教師を公募した時,私は日本語教育の問題点も分からず飛びついた。三十年近く前のことで,私は愛国心にもえるうらわかい乙女(?)だった。その時の試験官の一人の長沼先生は,ダブルのよく似合う瀟洒な紳士として印象に残った。「『まどがあけてある』と『まどがあいている』の違いは?」 と聞かれてマゴマゴしたことは今でも忘れられない。それが先生との最初の出会いで,それがその後の私の進路をきめたと言っても言いすぎではない。6千人の応募者の中から60人選ばれるのだからマサカと思っていたのが実現し,私はフィリピンに赴任することになった。母は大反対だったが,若いころシドニー大学で二年間教え,いわば今の「日本研究講座」のハシリをつとめた父が賛成したのでどうしようもなかった。赴任前受けた特訓では,講師としての長沼先生に接した。「小出さんは鼻濁音が出ませんね,気を付けた方がいいでしょう。」と指摘され,それまで自分の発音は標準だと信じていてた私はびっくりして直そうと努力した。(後年,鼻濁音は東京でも消える傾向があると知って,損したような気がした。)
 フィリピンでは,教えることがただただ楽しくて,こんなにやり甲斐がある仕事は一生したいとまで思った。帰国命令を受けた時は残念だったが,おかげで,大した苦労もせずに終戦前に無事帰国した。

(小出詞子〔こいで ふみこ〕「長沼先生との出会い」『日本語教育』19号 1973.5。
小出詞子著作集編集委員会編『日本語教育とともに――小出詞子著作集』1991 凡人社 に収録。)

 背景の知識なしに文章を読んでいくと、まるでごく最近に書かれた回想文のようであるが、ここで語られているのは戦時下の植民地における日本語教育の記憶である。私はかつて、川村湊『海を渡った日本語』(注1)によってこの文章の存在を知った。

 このエッセイをあえて取りあげるのは、戦時下の植民地に大量の日本語教師が派遣されていた周知の事実にあらためて注目したいからではない。執筆者の小出にとっては恩人にあたる長沼直兄の追悼文だとはいえ(注2)、現地の児童・学生に宗主国の言語を指導した経験が、その三十年後、「教えることがただただ楽しくて,こんなにやり甲斐がある仕事は一生したいとまで思った」とまったく無邪気に回想されていること、さらに十八年後に編集・刊行された著作集にそのエッセイが堂々と収録されている事実に、ある種の実践者の典型を見いだすからである。

 「小出詞子年譜」(注2前掲)によれば、小出は日本語教師としての研修を受講したあと、1943年1月に女性初の判任官としてフィリピンに派遣され、小学校と大学で日本語教育に従事した。その後の戦局悪化にともなって1944年11月に帰国、1945年5月からは文部省教学局嘱託職員として外国人向けの日本語テキストの編集業務を行った。敗戦後は、1946年に父満二が創設した高等農事講習所(後の鯉淵学園)で英語講師、1947年からはGHQ民間情報教育局に勤務し通訳および雑誌の検閲業務を務めている。1948年、長沼直兄が創設した言語文化研究所附属東京日本語学校で宣教師の日本語指導、1950年にはガリオア奨学金(米政府が占領国救済のために供出した奨学金)を得てミシガン大学に留学。1952年4月に国際基督教大学助手に着任、その後講師、助教授、教授と昇任している。みずからがもつ日本語と英語のバイリンガル能力を最大限に利用して(あるいは利用されて)、戦中と戦後のあいだを、宗主国日本と植民地フィリピンのあいだを、そして占領国アメリカと被占領国日本のあいだを往来し、さしたる曲折や挫折もなく、日本語教育実践の開拓者のひとりとして順調にキャリアを積み重ねていった人物であることは、年譜を一瞥してみてもあきらかだ。

 こういう実践者・研究者が激動の時代を生き延びていったことをいまさらあげつらうつもりはないし、また小出の業績を否定・排除の対象にしたいわけでもない。本人にしかわからない労苦や懊悩が年譜記述の裏側に存在していたであろうことも想像できる。だが、アジア・太平洋戦争終戦から二十数年を経て、世界的な植民地主義批判の潮流が生み出されつつあった時期に、かつて植民地で実践された日本語教育の「やり甲斐」を嬉々として語り、さらにその十数年後、その文章をみずからの日本語教育実践の集大成というべき著作集に収録してしまう内面的葛藤の欠如は、すくなくとも私にとってはおよそ理解しがたいことだ。

 小出を取りまく教え子や関係者は、日本語教育実践者としての小出を顕彰するさまざまな回想、エッセイ、論文をのこしている。小出の植民地での教育経験にかかわるふたつの文章をあげてみよう。

 私が大学一年生の時、小出詞子先生が「日本語Ⅰ―B」の授業で話されたことを思い出します。戦時下、フィリピンの小学校へ日本語教師として派遣され、日に三校以上もの小学校を転々としながら日本語教育を行っていたこと。戦局がいよいよ悪化してきたため、軍の命令により帰国したことなど。そうしたことを踏まえた上で、 先生は静かにそして力強くお話くださいました。「私が日本語教育を行っていた頃は、日本の国家が強制的に、その国の人々に対して日本語教育を推進していました。〔そこに住む人々の言語というアイデンティティを奪って。〕そして現在、あなたたちは日本語教師を目指しています。今は、あの当時の日本語教育ではありません。全く違うのです。強制するのではなく、その国の人々から来てくださいと、請われて行くのです。求められれば、どこへでも行きますという姿勢が大切です。また、日本語教育の主体はあくまで学習者にあるのです。この意味を噛みしめてほしい」とおっしゃった。(注3)

 ……小出先生は「日本語を教えるのに一生懸命で大東亜共栄圏云々なんてとても」と語っておられた。また教授内容、教授法等に関して上からはつまり軍政監部からはなんらの指示もなかったそうである。ほとんど教師の自由裁量に任されていたといえる。
 日本の敗戦により、フィリピンでの日本語教育は終止符がうたれたが、当時の教え子たちが戦後10年たって同地での日本語教育の担い手となったという小出先生の言葉を最後に付け加えておく。(引用者注・筆者が小出からフィリピンでの日本語教育について聞き取りを行ったのは1998年10月とのこと)(注4)

 宗主国の日本語教師として戦争責任と植民地責任を感じていたらしい小出は、最晩年にいたって、「当時の教え子たち」が「同地での日本語教育の担い手となった」こと(注5)、すなわち植民地時代の日本語教育の意義を自讃する認識に「転向」したのだろうか。むろんそうではあるまい。みずからすすんで植民地の日本語教師として現地に赴任し、戦後はそれなりの反省を表明して学生に「全く違う」(この言葉におおくの隠蔽や「跨ぎ」がひそんでいることはいうまでもない)日本語教育を講義し、日本の国力が増大して他国の日本語需要が高まれば戦時下の日本語教育の成果をも正当化しながらさらなる実践に励む。小出にしてみれば、日本語教育実践者としてのアイデンティティと欲望にもとづき、自己の立場と環境の変化をその都度受け入れながら、目の前の学習者・学生への熱心な指導を持続していったにすぎまい。植民地での日本語教育の経験を「ただただ楽しくて,こんなにやり甲斐がある仕事は一生したいとまで思った」と語った、“いま・ここでの実践”に精力を傾注する姿勢は、生涯を通じてなんら変節することはなく、完全に一貫している。河路由佳は、「戦前戦中戦後の「国際文化事業」としての日本語教育をたどってくると、そもそも言語教育において、「文化侵略」と「文化交流」が対立するものではあり得ないことに気づかされる。両者は紙一重どころか、表裏一体かもしれないのである」(注6)と指摘しているが、我々が小出の個人史から見いだしうるのは、「かもしれない」どころか、「文化侵略」と「文化交流」があからさまに連続する認識のもとに成りたっていること、しかもそれが、学習者たちからも肯定的に評価されてやまない誠実・実直な意思のもとに遂行されている事態なのだ(注7)

 このような例が日本語教育(学)の領域でどれほど存在しているのか、私は詳細には知らない。だが、自分のせまい「現場」にひたすら閉じ籠もって実践をつづけるかぎり、時勢に流されながら、その時々の言語政策の代弁者をつとめて生涯を終えるほかないことは、小出の一事例を観察するまでもなく、日本の言語教育の歴史をふりかえってみればあきらかだ(注8)

 たとえば小出は、生前の彼女と同時代に書かれ、現在ではポストコロニアル理論の源流として位置づけられているフランツ・ファノン『地に呪われたる者』(原著1961年、日本語訳1968年)やエドワード・サイード『オリエンタリズム』(原著1978年、日本語訳1986年)を読むチャンスはあったはずだが、まったく関心をいだかなかったのだろうか。あるいは、比較的はやい時期に植民地の日本語教育政策の批判を行った小沢有作の論考(注9)や、「国語」論の古典であり植民地の言語問題とも無縁ではない蓮實重彦『反=日本語論』(1977年)、田中克彦『ことばと国家』(1981年)などに触れることはなかったのか。もしこれらを読んでいたら、さきのような内容のエッセイを安直に書いたり著作集に収めたりすることができるはずがない。結局、実践を支えるべき理論や思想を欠いたまま、プラグマティックな教育法の追究に専念すれば、自身の方法を歴史的・社会的に相対化する視点を喪失し、己れの拠ってたつ立場を自明視する頽廃が待ち受けているということなのだ。

 かつて教科書編集の仕事に携わっていたとき、採録教材を検討する編集委員会の席上で物語分析の理論などを語ったりすると、「そういう理屈は現場では使えません」とか、「現実の生徒には通用しません」などと反駁されることがしばしばあった。「この理論が使えないんじゃなくて、アンタが使う能力を持ちあわせていないだけだろ?」という言葉が喉元まで出かかるのをかろうじてこらえ、こちらもしかたなく相手のいう「現場」の実状にあわせて話をすることになる。私が国語教育(学)にかかわりはじめてまず出会ったのは、理論の欠如になんの疑念もいだくことのない反知性的態度の横行だった。文学理論や認知理論の導入が積極的に試行されている現在、さすがにかつてのような状況は改善されつつあるが、さまざまな理論の必要性がおおくの「現場」で常識化されているとはまだいえず、矮小な経験則にもとづいて実践を積み重ねるようなあり方は払拭されなければならないだろう。

*        *        *

 今回の話題はここまでだが、そもそも理論が実践に完全に吸収されることはありえない、という事実も、余計なことではあるが最後につけくわえておくことにしよう。理論は実践を超越することによってはじめて理論と呼ばれうる。それ故、たとえばある種の文学理論を徹底的につきつめると、国語教育の理念そのものが崩壊する、という事態が生じるのだ。理論の価値の中心とは、そういうぎりぎりの懸崖において判断されるべきだろう(この問題については、いずれ機会をあらためて考察したい)。

 逆にいえば、実践に貢献しようがするまいが、理論を学びたいという欲望にしたがって理論を学ぶことになんら問題はないし、むしろそういう姿勢こそ望ましい、ということだ。四六時中子どものことを気にかけている「良い先生」よりも、子どもそっちのけで思想書や哲学書を読みふけることを好むような教師こそ、「現場」に居てほしいと私は思う。少々突飛な例えではあるが、教師同士の会話のなかでフーコーやビースタやウィトゲンシュタインの名が飛び交う学校がもしあるとすれば、それは最良の職場環境だといえるはずである。


(注1)川村湊『海を渡った日本語――植民地の「国語」の時間』(1994 青土社)。

(注2)『日本語教育』19号には「故長沼直兄先生追悼」として小出をふくむ四人の文章が掲載されている。小出がフィリピンに派遣される際に受講した日本語教師養成講座の講師を務めたのが長沼であり、「小出詞子年譜」(『小出記念日本語教育研究会論文集』10号 2002.3)によれば、「先生には、このとき初めてお会いした。その後、大変お世話になる。」とある。

(注3)濱田有紀子「韓国での四年間」(日本語学科20周年記念冊子編集委員会編『姫路獨協大学日本語教育の歩み――日本語学科20周年を記念して――』2008.3)。同誌は、小出が国際基督教大学を退職した後に赴任した姫路獨協大学で発行された記念誌であり、教育者としての小出についておおくの顕彰が語られている。ちなみに筆者の濱田は1991年度入学生。

(注4)神谷道夫「太平洋戦争期フィリピンにおける日本語教育」(『小出記念日本語教育研究会論文集』8号 2000.2)。

(注5)木下昭「占領地日本語教育はなぜ「正当化」されたのか――派遣教員が記憶するフィリピン統治――」(『東南アジア研究』2015.1)は、「元比島日本語教育要員の会」が戦後に編集・刊行した文集『さむぱぎいた』(1967~1995)を取りあげ、小出の存在にも触れながら、占領下フィリピンの学校で勤務していた教員たちが日本語教育の実践を正当化するにいたる記憶の生成過程を考察している。木下は、「「正当化」の取り組みに当たって重視され,自己肯定を可能にさせたのが,彼らと現地人との義務的な関係を超えた交流である」とし、戦後も教育の仕事をつづけた教師たちが、占領地の人々と良好な関係が継続したことを強調することにより、フィリピンでの日本語教育を「戦時職務の成果」と価値づけ、職業的アイデンティティを維持することが可能になったと指摘している。

(注6)河路由佳『日本語教育と戦争――「国際文化事業」の理想と変容』(2011 新曜社)。

(注7)北川知子『日本統治時代・朝鮮の「国語」教科書が教えてくれること』(2022 風響社)につぎの一節がある。

 歴史の教科書では「日本語を強制した」と簡単に説明されてしまいますが、学校でその強制を支えたのは一人ひとりの教員でした。師範学校を出たばかりの若い先生も、ここにもあるように途方に暮れながら手探りで身振り手振り、 直説法教授に取り組んでいました。机上で、日本領内の者が全員日本語を理解すれば意思疎通が容易くなって国家運営しやすくなると考えるのは簡単ですが、その掛け声を実現するためには「日本語を使え」と言うだけで済みません。目標を掲げ、掛け声を高くする中央政府の方針が現場に届くとき、そこで何が起こるか。そこには教員や子どもがいて、朝鮮読本という教材があったわけです。
 子どもにとって楽しい物語や、口の端に上りやすいリズミカルな教材文を工夫した芦田惠之助、直接教授法の開発に腐心した山口喜一郎から、現場で奮闘した教員の一人ひとりに至るまで、朝鮮普通学校の教育は、誠実で子ども思いの、まじめな人たちに支えられていました。暴力的に日本語を強要し、生徒や保護者から嫌われ憎まれた人ばかりなら、「日本語を強制した」罪も明瞭で、ある意味すっきりします。しかし実際には「日本語を習得することがこの子どもたちの幸福だ」と信じ、その信念で学習動機づけや日本語のスキルを伸ばす環境づくりに努力した「良い先生」も少なくないのです。実際にそういう「良い先生」と教え子の心温まる思い出を直接ご本人から聞いたことが私にも何度かあります。
 この歴史から私たちが学べるのは、社会の大きな動きを疑うことなく、ただ目の前の事態に誠実に対応しているだけで大丈夫か? という問いではないでしょうか。

 植民地の言語政策と日本語教育が「同化」の一言で片づくほど単純ではないこと、国や地域によって日本語教育の手法や内実に違いがあったことはしばしば指摘されている。だが、北川がここでのべている教師の「信念」は、おおくの植民地の教室で共通するものであっただろう。本稿で着目するのは、教育者が戦時下での教育行為を戦後にどう語ったか、という問題であり、北川の視点と完全に重なるものではないが、関連をもつ記述として引用しておく。

(注8)本稿のテーマからはやや外れるが、日本の国語教育学の内部で戦争責任の追及がまともになされなかった理由のひとつとして、師―弟の権力関係が世代を越えて連綿と続いてゆくことがあげられるだろう。たとえばドイツの歴史学では、「その後(注・1980年代半ば以後)も、若い歴史家が歴史学界自体の問題に取り組むことには高いハードルがありました。戦後の歴史学を担ったメンバーたちは、戦時中に活躍した歴史家たちのもとで学んでいますから、告発に対してむしろ抑圧するように動くわけです。告発すれば研究者としての将来を断つといった妨害ですね。私も実際にそうした事情を若い研究者から聞かされました」という状況があったことを芝健介が語っている(宇田川幸大・内海愛子・金ヨンロン・芝健介「戦争責任・戦後責任論の課題と可能性(上)」『思想』2024.3)。ここまで露骨ではないにせよ、日本の国語教育学でも、戦時中に翼賛活動をした国語教育者からの無言の抑圧/教え子の側の忖度、という事情はまちがいなく存在したものと思われる。いま国語教育系の学会で戦争責任・植民地責任をテーマとした発表などを試みても、歴史意識の希薄な参加者から「今さらそんなことを追及してなんの意味があるのか」という反応を示されるのが落ちだろう。国語教育者の戦争責任・植民地責任がなかば不問に付されたことは、現在も国語教育研究史の負の遺産としてかかえこまれている。

(注9)小沢有作「日本植民地教育政策論――日本語教育政策を中心にして――」『人文学報.教育学』7号 1971.3)「太平洋戦争下の日本語教育――「東亜語としての日本語」という意識状況の批判――」『教育』1969.7)その他。

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