文部科学省 教科書調査官(体育) 渡辺哲司
1. 7000円は高い?
「7000円はちょっと高いんじゃない?」と最初は思った。それは何も、中身が値せずという意味ではない。昨今の国際情勢や日中関係にかんがみれば、本書を読みたい人や読んで恩恵を受ける人は多くいるだろうに――との意味だ。しかし、再読後にさっそく思い直した。「ちょっと高い」との所感は、もっぱらある一つの(あまり正統的ではない)視点から見たときのものであり、別の(より正統的な)視点から見れば一概に高いとも言えないだろうと。そうした“心変わり”のわけをこの後、本書の内容にふれながら述べていこう。
2. 中国人が書く文章の特徴
中国には、日本の意見文と小論文とを合わせたような「議論文」という文章のジャンルがあり、それを人々は学校で習い、高校や大学の入試で書いて世間に出ていくそうだ(第1章、第2章)。そんな中国式議論文には、日本の意見文や小論文と比べたときに浮かび上がる特徴(全体的な傾向)があるという。具体的に、本書から私が学び取ったのは下記のようなことだ。念のために重ねて言うと、それらはあくまでも「日本の意見文や小論文と比べたとき」の相対的な特徴であって、世界における中国式議論文の絶対的な特徴を捉えたものではない。
- 書き手の意見を文章中の各所で、表現を変えながら繰り返し述べる。つまり、文章の各部分に要素を振り分けた上で全体として論証を成り立たせるような(日本風の)書き方をしない。
- 先に意見を、後から理由や根拠を述べるような“演繹型”のスタイルをとる。つまり、主張が最後までわからぬような(日本風の)書き方をしない。
- 文章中に譲歩の要素を入れない。つまり、多様な観点から考えたことを示すためにあえて異論にふれるような(日本風の)書き方をしない。
- 論拠として社会的な道理(史上の逸話や名言、権威ある人の言葉など)をよく用いる一方、(日本人のように)日常的な事実――書き手自身の見聞や身近な出来事など――を用いることはあまりしない。
それらの特徴は、それぞれの国で模範とされる文章を分析し比較することによって捉えられた。また、全体的な傾向ゆえに、もちろん例外もある。しかし著者によれば、実際、中国人学生が日本語で書く文章には上記①-④のような特徴がよく表れているそうだ(第8章)。
3. 緻密な分析
中国式議論文の特徴を上記のように私がリストアップできるのは、著者による緻密な分析結果(データ)のおかげだ。その緻密さがどれほどのものかは、特に第4章から第7章までのラインナップを見ればわかるだろう。それらの章のタイトルは以下のとおり。ついでに私なりの要約も「:」の後に添えておこう。
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第4章 文の内容の質的相違:この章では、主に「事実を述べた文」「見解を述べた文」のそれぞれの様相と、それらによって構成される文章全体の様相を分析した。
第5章 文章構造:文と段落、段落と文章全体とのつながりや、各段落の性質や配列を分析した。
第6章 論拠―意見を正当化する論拠:過去と現在の事実である「事実論拠」と、すでに正当(正統)性が社会的に確かめられ認められた「道理論拠」(史上の逸話、名言、ことわざ、古典、科学の原理や法則など)の用いられ方を分析した。
第7章 論証―意見の正当性を示す行為:論拠の配列や組み合わせによって意見の正当化をはかるやり方(表現・叙述)を分析した。
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以上4つの章で分析された材料(文章群)はすべて同じ――意見文31点+小論文17点+議論文30点――である(第3章)。その材料に対して、大まかに4つの視角を定め、視角ごとに日中間の違いを探索していったわけだ。「なんだ、4つだけか」とは思うなかれ。実際にやってみたことのある人にはわかるが、ナマの文章は複雑怪奇。たった一つの視角を定めて分析することさえ容易ではない。そんな文章の一つ一つを、4つ(細かく見ればそれ以上)の視角に立つ4通り(同前)のやり方で解きほぐし、見つけ出したことを言葉と数字でまとめ上げるというのは、かなりの注意と根気を要する作業に違いないのだ。
もう少し感想を述べるなら、この第4-7章あたりは、読むほうにとっても正直しんどい。さらに告白すると、私自身もはじめは“飛ばし飛ばし”読まざるを得なかった。しかし、そうだからこそ気付いたことも一つあって、それは、本書がちゃんと(?)飛ばし読み可能なように作られているということだ。すなわち、章内の節や項がよく整理され、それぞれに適切なタイトルが付されている。そうしたタイトルが小括(まとめ)の在り処を教えてくれるから、しんどくなった時は次にどこへ飛んだらよいかがわかる。そのような文章の作りが、緻密な分析の支えとなっている。
4. もう一冊、どうだろう?
と、こう見てくると、本書はまずもって研究書として力いっぱい書かれたものであり、読者はやっぱり専門の研究者、つまり少数の人たちに限られる(となれば高額になるのも仕方ない)ように思える。つまり、ここにおいて頭記の私の所感は“上書き”訂正された。私の本書に対する評価は、いうなれば門外漢あるいはシロウトによる非正統的なものであって、正統的な評価はやっぱり言語学のプロの手でなされるべきだろう。
と同時に、それなら本書の他にもう一冊、応用編として一般向けの書を作ってはどうかと私は思うのだが、どうだろう。そちらのほうでは、本書のエッセンス(わかったこと)を抽出し、それを様々な日中交流のシーンに絡めて解説する。そうすれば、本書の恩恵をより多くの人たちが受けられるのではないかと。
私がそんなお節介なことを言うのは、ずばり、本書がビジネス(政治や外交や通商、その他のシゴト全般)に役立ちそうだと感じるからだ。書くこと(文章)を含む語りのスタイルにはいわゆる“お国柄”があって、そこには各国(社会)の文化に根差す日常の論理――人々によるものごとのわかり方、納得の仕方・され方――が表れているそうだ(注1)。となれば、上掲のような中国式議論文の特徴も、中国で学び育った人たちの言論や行動のそこ、ここに表れているに違いない。著者自身は、本書が日中両国の言語教育(文章教育)に貢献できそうだとしか述べていない(第9章)が、現実にはそれ以外に、いやそれ以上に、日中間のビジネスへの貢献もありそうだと私は感じている。
そうした「感じ」の裏付けとなる見聞を私自身が多くしているわけではないが、例えば“あの事件”はどうだろう。それは、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が中国で猛威を振るいだした2020年2月のこと。日本から中国へ急遽贈られたマスクに漢詩の一節が添えられ、それを見た中国報道官がふだんのコワモテから一転、優しく情緒的な反応を示したという、あの一件だ。それはマスコミによって大きく報じられ、日本の世間ではもっぱら、世界に通じる日本人の思いやり、日中で共有される文化の表れなどと解釈されたようだ。しかし、先掲の特徴④をふまえると別の解釈もできる。すなわち、古典(漢詩)という権威を帯びたものの使用が、そうしたものを論拠として好む中国人の心に“刺さった”のではないかと。
要するに、私はもっぱらビジネスの立場で、つまり研究者コミュニティの外から、研究成果の社会的応用を奨めているのである。そうした奨めに安易に乗ってしまうと研究のほうがスポイルされる(堕落する)――と恐れる向きもあろうが、本書の中身はもともと社会性が高いのだから、できるなら、少しでも広く世の中に役立てることを考えてみてほしい。
注1:本欄(BOOK REVIEW: STRAY SHEEP)2023.11.10付の書評『「論理的思考」の文化的基盤―4つの思考表現スタイル』を参照。