1.プロローグ
日本語はどんな言語かということを考えるとき、私には2篇の俳句とそれを記した絵が浮かびます。それは「古池や」に劣らず有名な芭蕉の句です。
(1)枯朶にからす乃とまりたるや秋の暮
(2)かれえだにからすのとまりけり秋のくれ
(1)は1680年芭蕉37歳の時のもの、(2)は1692年48歳の時、亡くなる2年前のものです。2019年9月に、出光美術館で開催された「奥の細道330年芭蕉」展で出会いました。(2)の方は、書松尾芭蕉/絵森川許六と明記されていました。
11年の時を経て、書きかえた2つの句はかなり違います。まず、使っている漢字が、最初の句(1)では5つあったのに、(2)では「秋」一つになっています。共感度の高い、〈ウチ〉表記のひらがな表記が多くなっています。
「たる(や)」から「けり」への変更は、「たり」は〈テ〉〈アリ〉の縮約したもので動作が完了してその結果が今もあるという意で、「けり」は過去の助動詞〈キ〉と〈アリ〉とが結合したもので、過去を回想する意と詠嘆を表す意がある(『明解国語辞典』)とすれば、連体形の(1)は烏が枯枝に止まっている状態を描写しており、「烏」に焦点が当たっています。間投助詞「や」は意味を強め、相手の気を引き、同時に話し手の感動を伝えます。一方終止形「けり」の (2)は、昔の「枯枝に止まる烏」の佇まいを思い出して、若い時の句を詠みなおしたものですが、「枯枝に烏が止まっているさま」を詠嘆をもって描写していることになります。「そうだったんだ」と気づき、その風情を思い描いているさまを伝えます。
切れ字の「や」も終止形もそこで段落を示すものなので、過去の回想が秋の暮れの今へつながっていると描写しています。止まっている烏そのものの行為ではなく、出来ごと全体の中で際立たせない表現です。烏は一枚の絵の中に描写されている一コマに過ぎません。両方の句にあるのは回想であっても、読み手のこころの中で、止まっている烏も、飛んでいる烏も秋の佇まいと一体となった世界なのです。
英語話者はこの句をどのように認識し、言語化しているでしょうか。
a. Autumn evening / A crow perched / On a withered bough(レジナルド・ブライス 牧野2018より借用)*1
b. On a withered bough / A crow has alighted / Nightfall in autumn(ドナルド・キーン)*2
c. On a dead branch / Crows have settled / Evening in the autumn *3
いくつか英訳はありますが、どれも晩年の句に付けています。晩年の句の許六の絵は「烏」が1羽ですが、英訳の際、芭蕉が烏1羽と考えていたのか複数と考えていたのかの議論が多々あるようです。いずれにしても、(a),(b),(c)いずれの英文も、行為者「烏」が止まっているという出来ごとだけを、つまり行為者と行為を示す構文です。「烏が枯枝にとまっている」ということを「事実」として言語化しているだけで、句にある感動と詠嘆の意は英文では伝わりません。(本ページ末尾参照)
2. ひらがな表記 (第2️回)
ひらがな表記は、和歌に代表される歌を書き表すために生まれたもので、女性の使う文字でもありました。晩年句は、おそらくは病で弱っている芭蕉が、昔の「枯枝に止まっている烏」の佇まいを思い出して詠んだこころの中の心情だから、ひらがな表記になったのでしょう。読み手は、ひらがな表記から来る広がり、ゆったりした気持ちに添いながら、亡くなる直前ということも相まって孤独感といった詠み手の思い入れを感じ、詠み手との間に共感をいっそう覚えます。また「秋の暮」という季語は秋の末(晩秋)という意味と秋の夕暮れという意味があり、2つの句のどちらにも秋の末と秋の夕暮れの気配は漂いますが、かながきの(2)の方に後者「秋の夕暮れこそ四季の中で最も風情のある夕暮れ」という意味を私はより感じます。
日本語が3つの表記法をもっていることは世界に類を見ない特徴です。「わたしは」と書くか 「私は」と書くか、書き手の気持ちはどう違うのでしょうか。自分の思いを共に感じてほしいという意図がひらがな書きをさせると思います。ひらがな表記は共感度が高く、外来語はカタカナで書くという申し合わせができていることからみて、相手との共感度が相対的に低いと思われます。日本語は文字遣いの上でも美しさを表せるのを誇りに思いたいものです。
3. 個体と総体
(1)の句は俳画「賛」として、20羽の烏が空を舞い、7羽が枯枝にとまっています(写真参照*編集部注 )。この俳画が芭蕉自身のものなのか、だれか俳画家が描いたものかは定かではありません。しかし、芭蕉が「賛」としてこの句をつけたことは確かです。ここで問題となるのは、芭蕉自身が枯枝にとまっている烏が7羽であると気付いていたのかということです。おそらく、自分が絵を添えた晩年の句が1羽であることを考えると、数(スウ)のことは頭になかったと思います。
烏を、行為の主体ではなく、場所化させ、個体としてでなく埋没させた存在であり、過去も現在も一つの続き物という総体を見せています。総体は主体の作用の及ぶ客体化した存在で、一枚の絵を見るようなことです。個体と総体の対立は、言語表現からいうと、「可算」と「不可算」という文法範疇の対立であり、単数と複数の区別ということです。英語は、この対立が基本的なもので、この区別は(上記英文にあるように)動詞の数上の一致をはじめ、決定詞との共起関係(this book対these books)などが規定されます。
日本語で単数と複数の区別がなされないということは、個体そのものを際立たせないという傾向と結びつきます。数に焦点があるときには「烏が7羽」「7羽の烏」という具合に明示しますが、明示しない場合は、数の認識はなく、したがって行為者としての個体(烏)に際立ちをもたせず、全体の風景の中に埋没させるという認識です。
このことは言語使用の際、意味の輪郭を「ぼかす表現」「あいまいにしておくこと」につながるともいえます(第6回)。
過日高校生が「自分の周りとかから戦争とかをなくしていきたいと思う」と発言していました。「自分の周りから戦争をなくしていきたい」と比べてみますと、「自分の周り」や「戦争」といったものに、何らかの断定しない柔らかい意味合いを生み出します。自分の周りにいる人々、自分のいる場所を特定しない、断定しないという姿勢、あるいは自分のテリトリーの大きさやその成員を解釈側に委せる気持ちもありそうです。「戦争」と言い切ると大層なので和らげたいという思い、国同士の正真正銘の戦争に必ずしも言及しているのではないという考えがあるのかもしれません。「周りから戦争をなくしていく」という事象の「自分」とのかかわりを情況全体の中に溶け込ませて伝えることになりますから発話のインパクトを大袈裟でなくするといえるでしょう。
翻訳をしていると、‘this shows’や ‘this attitude’を「このことが示しているのは」「こういった態度」という言い方の方が落ち着くことが多いものです。人との応対の際「私はそれで結構です」の代わりに「私の方はそれで結構です」と言ったりします。「君のことを思うたびに」というフレーズに対して‘Every time you come to mind’という英訳を見ました*4。
「とか」や「のこと」の機能は、それが付く語をメタ的にします。引用符をつけるといってもいいでしょう。メタ的にすることは解釈の際の文脈を広げることになり、コンテクストの中に語を埋め込んで一体としますから、客観的な描写のように読めますが、一方で、事態を自分とのかかわりにおいて主観的にとらえるというようにもなります。
「さくら ひらひら 舞い降りて落ちて」の「ひらひら」というオノマトペを好んで付け加ええた文は、表面的には情景描写の文として読めますが、桜の花びらの舞っている情景を決して説明していません。「ひらひら」の使用は文脈をどれほど豊かにしてくれるでしょうか。絶え間なく静かに花びらが舞っている「情感」を凝縮して、極めて主観的な性格にしています。桜の舞い降りるのを愛でる主体は見えませんが、そこに存在しているのです。「ひらひら」に音そのものはなくても、風の動き、花びらの移動、花びらが水面、地面に落ちた時、こういった時の感覚・知覚的擬音が読み手・聞き手に身体的に吸収され、記憶の中に写像されます。事象とともに、事象の主体と受け手の中にすでにある感覚とが呼応し合うのです。この臨場感こそ「オノマトペ」の真骨頂です。一枚の絵まるごとの情景を見せてくれます(第3回)。
「ぼかす」ということを、出来事の「命題」内容を風呂敷で包むという言い方をしましたが(第6回)、当該事態の「メタ表示」表現とよびたいのです。その事象を客体化することになります。日本語は、行為者の意志、認識、行為の対象者を際立たせず、背景化し、事象の発話者/話し手への関係性を表すということです。一枚の静止した絵の如く提示するのです。
4. 事実と客体―自己投与
橋田壽賀子の「私の履歴書」(『日本経済新聞』2019年5月)からの1節です(第5回)。
同じTBSの「赤い」シリーズ「赤い疑惑」が始まったのは75年10月であった。 ・・・
「赤い疑惑」では山口百恵さん、三浦友和さんの初共演も話題だった。だけど、私は途中の15、16話を担当して降板した。当時の百恵ちゃんは超多忙。全てが百恵ちゃんのスケジュール優先になる。文刻みで仕事をしている百恵ちゃんが覚えられるように、セリフを少なくしなければならない。登場するシーンも制約を受けるから、当然脚本も制約をうける。私はそれが嫌だったから降りた。
時系列に過去のことを物語っている自伝的書き物ですが、過去を明示する〈タ〉形と現在形〈ル〉形がサンドイッチの形で交替しています。
現在、過去、未来は、今の自分を現在に、過ぎ去った時間空間、まだ来ていない時間の連続です。書き手の視点が時間空間のどこにあるかによって描写の手立てが異なります。一方、動詞(形容詞、形容動詞)について「現在形」「過去形」という時制は文法の範疇です。言語は時間空間を、時制として文法に組み込んで表現します。日本語には時制があるとはいえません。過去の事象の中に〈ル〉形と〈タ〉形が混在するということは、この2つの表現が時制として機能を果たしていないことを示しています。英語は時制があり、過去の事象は一貫して過去形で表します。
橋田からの引用は、発話時の話し手自身が「今」いる場から隔たった情況、時間的にも空間的にも自らが臨場していない事態を描写していながら、身をおく「ここ・いま」をもったまま時空を隔てた過去の中にわが身を持ち込んでいます。いわば発話時の話し手自身の自己投入という営みです。この認知的営みの手立てが〈ル〉形の使用です。英語では、発話時に身をおいて事態の外から客観的に眺めて事態を描写するのです。
英語が現在時制で「今」を言語化し、過去時制で「過去」に起こったことを言語化するのに対して、日本語の〈ル〉形は過去に自己を移し、時空を隔てた中で事態把握をしています。たとえば、「先生はもう救いようがないって言うんだ」と、他人(先生)の過去の言を〈ル〉形で提示することによって、「先生が言った」という事態の中に臨場する話し手ともう一方の「今」の自身との合体の構図となり、「もうダメだ」といった今のこころの状態の絵図を見せるのです。
読み手の方も共感的に視点を移動することになり、降板した理由が臨場感をもって伝えられるといえます。
日本語の時制とアスペクトは、過去対現在、完了対未完了という対立の概念がなく、〈ル〉形/〈タ〉形の交替は、時空間における対立を表しません。時空間を超越しているといっていいでしょう。
日本語にはもう一つ、述部の〈ウチ〉形と〈ソト〉形の交替があります(第4回)。電車の中で足を踏まれた時反射的に「痛い!」という〈ウチ〉形(普通体)を発し、「痛いです」という〈ソト〉形(丁寧体)は使いません。目の前に相手がいる対談、座談会、講演では、丁寧体の「です・ます」を使うのが普通ですが、普通体の「である」が使われることがよく見られるものです。コミュニケーションの矛先は通常聞き手である相手ですから、〈ソト〉形を使うのですが、〈ウチ〉形を使う時は自分に向けて納得させようとしたり、記憶を呼び出そうとしている時です。たとえば、相槌を打つとき、「そうなんですね」でなく、「そうなんだ」ということがあります。自分は主体として相手に向かい、主体であることを維持したまま、内なる自分を相手とする環境の中に身をおくのです。コミュニケーションの矛先が主客一体の構図となっています。
独り言を「です・ます」形で呟く人はいませんし、日記は通常「である」形で書きますね。コミュニケーションの矛先の違いを英語で表現するのは至難のことと言えます。
時間空間を超越した〈ル〉形と〈タ〉形の交替、コミュニケーションの矛先による「です・ます」形と「である」形の交替が発話全体に及ぼす効果は、事象に対する、発話に普通表れていない「私」の何らかの態度、思いの表明です。その結果、客体化した、事象の行為者、対象者/物、環境と発話者の情をまとめた総体としての一枚の絵を提示するのです。
5. 事象の話し手とのかかわり
冒頭の芭蕉の2句の「たるや」と「けり」の違いに触れます。
典型的な〈モノ〉的構文の関係代名詞は、〈コト〉的嗜好が強い日本語にあまりそぐわないといえます。たとえば、「泣いている子供を助けた」というより「子供が泣いているのを助けた」の方が好まれるということです。前者は子供を助けるという出来ごとの中から「泣いている」対象として子供を取り出し説明する関係節で、個体としての〈モノ〉が顕在化されています。一方後者は出来ごとそのもの、子供が泣いている状態全体を節の形で表しています。「泣いている子どもを助けた」のほうが論理的なのでしょうが、個体の輪郭が強く、日本語の嗜好に合わないのです。
初期の句は「枯枝に止まった烏」を個体として認識する〈モノ〉的表現であり、晩年の句は「枯枝に烏が止まっているさま」を描写する〈コト〉的表現です。詠み手が事象とその事象の主体「烏」へのかかわりー1羽の烏に晩年の自分を重ねるというかかわりを、意味の中核として語っています。
日本語は、事態と主体の事態へのかかわりを1つにまとめて言語化する傾向があるということの顕著な現象は補助動詞、とりわけ授受補助動詞と受身文です。これらは、これまでのものと違って、〈コト〉がメタ表示され、〈コト〉表示の行為がその行為の相手に何らかの影響、損失利益をもたらすという意味合いを伝達しようとするものです。
まず移動動詞の補助動詞的使用から。
a. 家主が家賃を上げた。
b. 家主が家賃を上げてきた。
c. S1[家主が 私に S2[家主が家賃を上げ-る]-テク(ル)-タ]
(b)の補助動詞〈テク-ル〉文の構造は(c)のようになります。(a)の「家主が家賃を上げ-る」という文がS1という上位文の中に埋め込まれています。(b)は、家主が家賃を上げるという事態(S2)が行為の対象者である「私」に何らかの関与・影響を与えるという意味を含んだ1つの文としてまとめ上げたものということです。つまり、(b)の表現は、想定されている主語は「私」で、私の腹立たしい気持ちを伝えたい表現なのです(第7回)。
いわゆる授受補助動詞―〈テクレル〉〈テモラウ〉〈テアゲル〉―も同様です。「母が髪を切ってくれた」という表現は、S1[私が S2[母が私の髪を切る](という)恩恵をもらう」とメタ(高次表示)的分析で表示します。「母が私の髪を切る」という行為が、行為の相手「私」に益をもたらすという意味を伝えます。客観的事実である行為をモロに表に出さないで、明示的でない「私」が「母が私の髪を切る」という事象の中でどういう関係性を持っているかを1つの文にして提示しています。同時に、高次表示S1の主語の私は、母の行為をこころに留め、恩恵に浴してありがたいという心的態度を意味の中核として伝えたいのです。
「世界中の100余りの言語について授受動詞の用法を検討したある研究によると、授受動詞のこの種の補助動詞的使い方は日本語以外にはまず見当たらないとのことです」*5。
次に日英語の能動態と受動態のありようを考えてみます(第8回)。二つの対立は、当該の事象について「行為者」と「行為を受けるもの」のいずれを主題化して主語として表現するのかの違いであるという想定は、英語ではある程度受け入れられますが、日本語では二つの対立はありません。日本語の受動文の構造は、はじめから能動文を抱き込んでいる1つの構文です。能動文は起こった事実を客観的に伝え、受動文は、その事態を〈レル〉によって包んで、主語あるいは発話者とのかかわりを伝えます。
たとえば、「僕はそのことで親父に叱られた」は
S1[僕は 親父に S2[親父がそのことで僕を叱る] -ラレ-タ]
という構造になります。行為者(「親父」)が、その行為を被る対象(僕)に、その行為(叱る)を通して何らかの影響を及ぼしていると解釈されます。受身文による表現は、「親父が僕を叱る」という事態そのものというより、その事態と自分とのかかわり、具体的にはその事態によって自分が被害(コンテクストによってはありがたい気持ち)を蒙っているといった意味合いを前面に出した表現になります。
主動詞が自動詞の場合「(私は)雨に降られた」を考えてみます。この文の発話者「私」は「雨が降る」という事態の中に巻き込まれ、その事態によって被害を蒙ったという意味を伝えます。「雨が降った」という事態と想定されている主語「私」とのかかわり、つまり迷惑を蒙ったという意味合いを前面に出した表現です。日本語の受動文では他動詞だけでなく、自動詞もかなり自由に使えます。これに対して英語では自動詞による受動文は通常できません。
日本語では無生物主語文は好まれず主語は人間に留まっているので、「強風が看板を倒す」という言い方は容認し難いですが、「看板が強風に倒された」という受動文は容認されることはあります。看板が状況に巻き込まれて影響を受けますが、これが馴染みのレストランの看板だったり、ましてや自分の店の看板となれば、事態の発話者へのかかわりー同情の念や共感の情を示すことになるでしょう。
ここで注目してほしいことは、行為者が「に」によって表されることです。「親父に叱られ」「強風に倒され」という具合です。ここにあるのは、「に」は場所を表す助詞だということ、行為者の場所化は行為者の概念を目立たせないようにします。つまり「に」の使用は、行為者としての存在を弱め、総体的全体的状態へと埋没させるのです。状態化はもの事を主観的にとらえることになり、主語/発話者と行為者との間にこころを通わせることにつながります。
主語に発話者自身を含め、共感の対象になる人が来ると、「客観的な能動の声」から「主観的な受動の声」に替わるのが日本語の傾向です。しかも何かが自然の成り行きとして成立してしまう情況を、話し手が感情を加えて伝える声です。行為の担い手というより、行為の見守り手の認知です。英語の話し手は行為の担い手としての認知が強く、事態だけを客観的に伝えるのが普通で、日本語のように受動態を頻繁に使うことをしません。
6. エピローグ―1枚の絵から3次元世界へ
日本語の話し手は、事象を、そのままでなく、その事象の当事者へのかかわりを、上位(高次)レベルで包んで1つの文に仕立て上げ提示する傾向が強いことを論じてきました。加えられる高次表示は伝えようとする命題内容に対する発話者の心情を伝達するということです。日本語は、事態そのものと事態への当事者へのかかわりを一つの構文として提示するのです。
個体としての行為者や対象者/物そのものに注目するというより、個体を含む環境全体に視点を合わせ、個体もその環境の一部であり、心的動きまでもその一部に含まれるという日本語の世界です。こういった世界を1つの文構造としてまとめ上げて言語化するということが日本語のすごいところだと思います。
明示的でない「私」あるいは主語は、その場の情況に組み込まれているのですから、「発話者」「私」にこだわることを「さらりと捨てる」(中西*6)ことができるのです。英語話者は行為の主体を行為の中で際立たせ、起こった事態だけを客観的にとらえ、言語化するのが普通であることと対照的です。日本語では主体を自ら客体化し、それでいて発話の場にインボルブしています。そしてこの臨場感が身体的感覚と通じ合い、このことは必然的に主観的な性格を強めます。言語の表示は基本的にはデジタル的ですが、日本語表示はむしろアナログ的感じが強いように思います。このアナログ的側面が絵画の世界と通じるところだと思います。
ここで一歩進んで、こうして言語化された話し手の世界、言語化された情報から写し出された「絵」を、聞き手はこころの中でふたたび構築し、「3次元世界」を作り出すといえるでしょうか。俳句の世界で詠み手と読み手が共感的世界にいるように、また「オノマトペ」の使用に代表されるように、日常のやり取りでも、聞き手は言語化された情報から話し手の心情と自分の心情とを響き合わせ、3次元の世界を構築します。これが発話理解の姿です。
日本語について、論理的でないとかあいまいなあるいはぼかし的物言いをする、気持ちを入れ込んでいて言いたいことがわからないとかyesかnoかはっきりさせないといったことが言われます。これはむしろ、日本語が熟成の結果出来上がった調和のとれた証拠といえます。漢字という外からのものを取り入れて「仮名」という独自の文字を作り出し、外来語にはカタカナを当て、概念を取り入れながらも自分のものとしてきました。外のものを取り入れ、調和させ、人間関係の上下、男女間の違いをことばの使用の上で区別しながら(敬語や「丁寧体と普通体」の区別などに見られる)、かつ人間どうしだけではなく、対自然にも、動物にも敬虔な感情を抱きながら、日本語を熟成させてきたと思います。
この熟成の過程で、俳句や短歌は、日本語と日本人の心情に沿ったものとして、発展してきたといっていいかもしれません。どんなにことばを尽くしても自分の心にある伝えたいことを、正確に、すべてを伝えることはできません。一方で象徴的にとらえた1語で、何かに託したりすることが(ある意味で)すべてを伝えうることがあります。私たちはことばを選び、ことばを大切に使いたいものです。
私たちにとって母語である日本語は、無意識のうちに獲得したものであり、いわば空気のような存在になっています。母語という窓を通して私たちは外界を認知、事態把握の仕方を身につけます。一方、話し手は事態把握の仕方に応じて言語化しますから、ことばは事態把握の仕方を反映します。その言語の特徴は、認知法の違う母語以外の言語を経験するとき理解が及ぶことでもあります。事象を語る時、起こった事態を客観的に事実だけを伝えるのが普通である言語と、その事態の当事者(多くの場合「私」)へのかかわりととらえて言語化する傾向の言語との差異は、当該のことばを操る人間の認知的視点の差を踏まえた上で考察されるべきでしょう。
注
*1 牧野成一. 2018.『日本語を翻訳するということ』p. 95. 中公新書.
*2 ドナルド・キーン(金関寿夫訳)2023(1999).『日本人の美意識』p. 14. 中公文庫.
*3http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2020/02/3006170-fdc7.html
*編集部注 この写真はネット上には出典や権利が不確かなものしか見当たらなかったため、掲載いたしませんでした。
*4井上陽水「傘がない」 ロバート・キャンベル訳 ‘No Umbrella’
ロバート・キャンベル. 2019.「井上陽水英詞集」講談社.
*5池上嘉彦.2006.『ことばの意味のしくみ』p. 174. NHK Books 1066.
*6中西進. 2016.『日本人の忘れもの2』p. 28. ウエッジ文庫.
(2)「かれえだにからすのとまりけり秋のくれ」https://serai.jp/wp-content/uploads/2019/08/83cbd734d43f480fbecebd13f5262771-156×500.jpg
元サイト:催し物 俳聖・松尾芭蕉の旅路を作品と共に辿る【奥の細道330年 芭蕉】https://serai.jp/event/377278