ことばのフィールドワーク 薩摩弁| 第11回 平凡な言語デイタの重要性|黒木邦彦

拝みかけのTōrō@羽島、湯浦ゆのうら(注1)

【お詫び】音声ファイルを用意し忘れたので、後日このフォルダーに入れます。

『日本言語地図』第5集: 第229図 (かまきり ‘蟷螂’ 一般的な名称) を見るに、カマキリ ‘蟷螂’ は薩摩弁圏において /ongame2/ や /ongamasso2/ と呼ばれていたようです。この語形を知っている (⊋ 使う) 人は今もいますね。両語形に共通する /ongam-/ は、恐らくは ‘拝む’ を意味する /ogam2/ です (/ongame2/, /ongamasso2/ と語音調を共有している点も好都合)。冒頭画像 (特に右) の姿勢が名前の由来を示唆しています。

1  前回の復習

 前回前々回は言わば脇道でして、連載当初に紹介しわすれていた薩摩弁語音調の解説に割きました。本筋に当たる第10回記事は、薩摩弁を含む日本語諸方言の言語デイタが偏っていることを示す記事でしたね。地域特有の言語デイタは先行研究から拾えるのですが、平凡な (= 多くの方言に共有されている) 言語デイタはえてしてそうではありません。

2  連母音 /ai/ に由来する薩摩弁の短母音 /e/

 自然言語を丸ごと記録するつもりであれば、平凡な言語デイタも欠かせません。薩摩弁の母音を例に取って、このことを確認していきましょう。

 次掲 (1) のとおり、薩摩弁は共通語などの連母音 /ai/ に短母音 /e/ を対応させています。このことから、薩摩弁の /e/ は、その祖先に有った /ai/ が転じたものと考えられます。

(1)a.
無い
b.
書いた
c.
使い人
d.
e.
大概
A.  共通語などnaikaitatukaikaitaigai
B.  薩摩弁neketatukeketege

3 /ai/ から /e/ への史的変化

 /ai/ から /e/ への史的変化 (以下、“/ai/ > /e/” のように表記) は、/a o u i e/ という5母音(注2)が多くの方言において次掲 (2) のように調音されることを考慮すれば、理解できないものではありません。(2) に記した調音部位の具体的位置は図1にてご確認ください。

(2)a.
調音時に最も
近づく舌部位
と上顎部位
b.
左記部位同
士の接近度
(1
が最近)
c.
舌根と咽頭後
壁との接近度
(1
が最近)
A.  /a/後舌と軟口蓋31
B.  /o/後舌と軟口蓋21
C.  /u/後舌と軟口蓋12
D.  /i/前舌と硬口蓋13
E.  /e/前舌と硬口蓋23

図1: 調音部位(注3)

 (2A, D, E) に記した /a i e/ の調音特徴を踏まえるに、/e/ の調音は、/i/ の調音に /a/ のそれを足して、前舌と硬口蓋との幅を少し広げたものと解釈できます。

4 /ai/ > /e/ の例外

 前掲 (1) のとおり、薩摩弁においては /ai/ > /e/ が起こっています。ただし、全ての語に生じたわけではありません。たとえば、次掲 (3Bd–f) は /ai/ を保っています。(3a–f) はいずれも名詞ですが、/ai/ > /e/ を経たものとそうでないものとがあるわけです。

(3)a.
無い
b.
使い人
c.
大概
d.
会計
e.
山芋
f.
顔色
A.  共通語などnaitukaitaigaikaikeejamaimo(turairo)
B.  薩摩弁netuketegekaikeejamaimoturairo
C.  構造na-itukaw-itai-gaikai-keejama-imotura-iro

 (3Be–f) が /ai/ を保っているのは、(3c) に示すとおり、この連母音が、形態素同士をつないだ結果生じたものだからでしょう。ただし、形態素連鎖が /ai/ を保つ原因であれば、/na-i/ ‘無-い’, /tukaw-i/ ‘使-い’ と分析できる (3Ba–b) も /ai/ を維持しているはずです。(3Ba–b) のとおり、実際は /ai/ > /e/ を経ているので、(3Be–f) が /ai/ を保っている理由は、形態素連鎖以外に求めねばなりません。

 (3Bd) が /ai/ を保っているのは、この語が、中国語から取り入れた漢語 (つまり、外来語の一種) だからでしょうか。ただし、(3Bd) に同じく漢語である (3Bc) は /ai/ > /e/ を経ています。ここでもやはり、(3D) が /ai/ を維持している理由を考え直さねばなりません。

5 平凡な言語デイタの重要性

 語形 (3Bd–e) は共通語などにおける語形と変わらないので(注4)、従来の方言研究においては見落とされがちでした。しかし、(3Bd–e) のような、平凡に見える言語デイタがなければ、次掲 (4) には気づけません。/ai/ > /e/ の適用範囲がはっきりしないだけでなく、間違った一般化を行なってしまう可能性さえあるのです。

(4)  薩摩弁の /ai/ > /e/ に関する注意点
a. /ai/ > /e/ は全ての語に起こったわけではない。

b. ある要素 (たとえば、/a(w)-i/ という構造や、漢語という出自) を共有している語同士であっても、/ai/ の保持に関しては異なる。

(注1) 薩摩弁圏の羽島で撮ったカマキリの姿勢が「拝みかけ」には遠かったので、非薩摩弁圏 (肥後南部方言が話されている地域) の湯浦からも挙げました。泉質の素晴らしい町でして、温泉好きであれば、ここの亀井荘という宿には絶対に泊まるべきです。絶景を通りつつ、湯浦に運んでくれる肥薩おれんじ鉄道も素晴らしいですよ。

(注2) 呼び慣れた /a i u e o/ に代えて、わざわざ /a o u i e/ と配列するのは、調音を共有する母音同士を隣接させるためです。(2) から分かるように、/a o u i e/ からは、(i) 舌根後方母音 /a o/, (ii) 後舌母音 /o u/, (iii) 狭母音 /u i/, (iv) 前舌母音 /i e/ という4つの調音的同類が抽出できます。

(注3) ただし、各部位(からなる器官)の本務は調音ではなく、生命維持です。

(注4) ただし、語音調を違えていれば、同形とは言えません。この観点は日本語(方言)研究にしばしば欠けています。

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