蒲生麓にて見かけた地名表示 (再び)
冒頭画像右の「よくしばぁ」はなんと「永興寺馬場」に対応します。無理筋に見えますが、「よくしばぁ」という語形は薩摩弁の中ではいたって普通です。このことは、薩摩弁とその祖語との語形対応 (1–2) を見れば分かります。太字部の対応にご注目ください。
(1) | a. | b. | c. | d. |
永 | 興 | 寺 | 馬場 | |
A. 祖語 | やう | こう | じ | ばば |
jau | kou | zi | baba | |
B. 薩摩弁 | jo | ku | s | baa |
よ | く | し | ばー |
(2) | a. | b. | c. | d. |
長く | 良う-こそ | 大事 | 荒-神-様 | |
A. 祖語 | ながう | よう-こそ | だいじ | あら-がみ-さま |
nagau | jou-koso | daizi | ara-gami-sama | |
B. 薩摩弁 | nago | ju-kusa | des | ara-gan-saa |
なご | ゆ-くさ | でㇶ | あら-がん-さー |
(2a) ‘外に長くいたんで、寒くなった。’ (10M40羽島)
(2b) ‘まあ!良くも見付けたよ。本当に良かったなー。’ (09F40荒川)
(2c) ‘その気持ちが大事なんだぞ。’ (09F40荒川)
(2d) ‘荒神さまを祭ってる。’ (10M40羽島)
(1: 太字部) の対応関係は (2: 太字部) のそれと同じですね。このことは、薩摩弁とその祖語とのあいだに、次掲 (3) のような対応が広く (= 地名に限らず) 存在することを示しています。(3d) の “B” は、(i) 声帯振動 (人体内部の観察を苦にしない人はこの動画も) と、(ii) 両唇を使った呼気妨害とを伴うb, m (= バマ行子音) をまとめたもの(注1)です。
(3) (1–2: 太字部) の対応 | ||||
a. | b. | c. | d. | |
A. 祖語 | au | ou | zi | aBa |
B. 薩摩弁 | o | u | s | aa |
1 前回の復習
前回、前々回は、薩摩弁において ‘頭’ を意味する語を例に取って、言語デイタに色々なものがあることを説明しました。‘頭’ を意味する語の記録は、次掲 (4) のような言語デイタからなります。
(4) 言語デイタの種類
a. 「びん➚た」「びんた➚の」「びんたばっ➚かい」といった語形
b. /binta2/ ‘頭’ といった形態素
c. /binta2/ ‘頭’ と /atama2/ ‘頭’ との類義関係
d. /binta2/ ‘頭’ と /atama2/ ‘頭’ との置換可能性
e. /binta2/ が ‘髪’ を特別に指す表現
f. /binta2/ ‘頭’, /atama2/ ‘頭’ の外延
2 方言デイタの収集
では、日本語方言の言語デイタ (「方言デイタ」と略称) を集めるための調査は、いつ、どこで、どのように行なうのでしょうか? 実は、方言デイタの収集は母語話者に会わずともできます。先行研究 (辞書や談話集も含む) に掲載されているからです。
3 先行研究から拾える方言デイタ
ただし、欲しい方言デイタが先行研究に(充分に)あるとは限りません。先行研究の方言デイタが、ある地域に特徴的な発音、語句、言い回しに集中しているからです。
日本語方言研究の関心は長らく、共通語と異なる言語現象や各言語現象の地理的変異にありました (森ほか (編) 2015: p. 1(注2)にも同様の指摘)。その上、「方言 = 自然言語 (⊊ 記号体系)」という観点は学界においてさえ必ずしも共有されていません (第4回記事にて指摘)。各方言の(分かりやすい)特徴は記録されているのですが、多くの方言に共有されている (= 固有性に乏しい) 要素は大抵見過ごされています。薩摩弁の場合、(5) に関する言語デイタは先行研究から拾えますが、(6) に関する言語デイタは集めづらいです。
(5) 薩摩弁の特徴
a. 前掲 (3Aa–d) に (3Ba–d) がそれぞれ対応する。
b. 下降調、非下降調という2種類の声調を使い分ける (第8回記事注3参照)。
c. 煩わしい’, ‘異論’, ‘活力’ をそれぞれ /jazeros2-/, /gi2/, /inot2/ と言う。
d. ‘私の’, ‘あんたの’, ‘あいつの’ などの ‘-の’ を /-ga/ と言う。
(5c) ‘端たからの目が煩わしいんで。。’ (09F40荒川)
(5c) ‘異論ばかり返しやがるな。’ (10F40羽島)
(5c–d) ‘もう、わたしの家の(孫)…、おと…、何度も東京の大学に好きなだけ、ああしたけど、
(若者には)活力が無いわな。’ (02F25串木野)
(6) 薩摩弁に限らない要素
a. (i) 語頭音節と (ii) /a o e/ のいずれかに終わる音節とは、母音と隣接していなければ、薩摩弁においても大よそ保たれる。
(例) | 犬 | 後ろ | 買い物 | 聞き間違い |
祖語 | いぬ | うしろ | かいもの | ききまちがい |
薩摩弁 | いん | うㇶと | けもん | きっまっげ |
b. /a o u i e/ という5母音を使い分ける。
c. ‘手’, ‘山’, ‘上’ をそれぞれ /te2/, /jama2/, /ue1/ と言う。
d. ‘上から’, ‘最初から’, ‘先生から’ などの ‘-から’ を /-kara/ と言う。
(6a) ‘雑種と 血統書付きの 犬だ。’ (10M40羽島)
(6c) ‘昔は手が出てたからよ。。’ (12M35冠嶽)
(6c) ‘(私の家は)山の中に有るだろ?荒川の、それで’ (03M40荒川)
(6c–d) ‘はは、乳房の大きい(女郎の)姉ちゃんがな、上からニカーッと笑ってるのをな、
(私たちは)冷やかして舞ってたの。’ (03M40荒川)
注
(注1) 専門的に言えば、「有声両唇閉鎖音」です。(i)「有声」は声帯振動を、(ii)「両唇」は両唇の使用を、(iii)「閉鎖」は呼気妨害を意味します。子音を指す用語はこのように、(i’) 声帯振動の有無、(ii’) 調音部位、(iii’) 調音法という3要素からなります。
(注2) 森 勇太・平塚 雄亮・黒木 邦彦 (編) (2015)『甑島里方言記述文法書』(人間文化研究機構連携研究「アジアにおける自然と文化の重層的関係の歴史的解明」研究成果報告書)、国立国語研究所