英語とともに日本語を考える| 第9回 事実を包んで情況化|武内道子

1.事実から情況描写へ

山下達郎のヒット曲「クリスマス・イブ」の最初の一節から。

  雨は夜更け過ぎに
  雪へと変わるだろう
  Silent night, Holy night
  きっと 君は来ない
  ひとりきりのクリスマス・イブ
  Silent night, Holy night

下線を引いた「きっと」のラインの意味を考えてください。今現在、雨が降っているという風景から始まり、一人きりのクリスマス・イブを過ごしているという状況です。また、「君が来るか来ないか」はこれからのことですし、相手の行動ですから、発話者にはどうすることもできない事態です。その中で、「きっと 君は来ない」というフレーズは、発話者自身がコントロールできない事態を表す発話者の声だと言えます。

英語で表明するとすれば‘I’m sure that you are not coming.’となります。でも、二つを突き合わせてみてかなり違うな、と感じますね。対応する英文は二つの文から成り立っていますが、日本語では二つの文という意識はまったくありません。また、英文では、「君が来ない」という事態は確かなことだと発話者が思っていると提示していますが、原文の日本語には、「誰が」思うとか確信しているといった行為者の存在はありません。

「きっと」は「君は来ない」という事態が自然の成り行きとして成立してしまう情況を作り出し、「きっと 君は来ない」を発話者が感情を加えて伝える声にしています。「きっと」が「きみは来ない」を包んで情況化し、自分に言い聞かせているのです。ウチなる自分に向かって語っているのです。「きっと」によって、「君は来ない」という文の内容が自分の制御の及ばない現状であることを表しています。このことは、文全体が自発性を増し、その結果「きっと 君は来ない」全体が情況描写となり、来ない淋しさと諦めに似た気持ち、来てくれたらという願望を表明することになります。人力の及ばない自発性を表す文は続く「ひとりきりのクリスマス・イブ」と呼応し、一層淋しさ、諦めを伝えることになるでしょう。こういった気持ち、思いは複文の英文では伝わりません。

受け手は、それぞれの立場とその時々の事情に応じて、この〈ウチ〉化した心情を理解し、共有しようとします。人により、また同じ人でも時と場により、復元する心情は微妙に違いますが、決して漠としているとか曖昧であるということではないのです。

自発性を表す文として、日本語には自発の意味が入っている動詞があります。前回の受身文でみた自発自動詞です。他動詞文「ドアを開ける」に対して「ドアが開く」という文です。それ自体が自然の声を表していますが、〈アケル−アク〉、〈シメル−シマル〉、〈ツタエル−ツタワル〉のように、共通する語幹の次に来る母音が変わるだけのペアです。日本語は非自発動詞(他動詞)対自発動詞のペアが極めて豊富です。前回の受動文でも触れましたが、迷惑の受身文が代表するように日本語は自動詞が自由に使えます。事態を人為の及ばないこと、自然に起こることとして描写するのを好む言語といえるでしょう。

2.共感ということ

次に井上陽水の「いっそ セレナーデ」という歌詞を考えてみたいのです。最初の3節を、キャンベル氏の英訳とともに記します(下線は私による)。

  いっそ セレナーデ

     甘い口づけ 遠い思い出
     夢の間に浮かべて 泣こうか

     忘れたままの恋のささやき
     今宵ひととき探してみようか

     恋のうたが 誘いながら 流れてくる
     そっと眠りかけたラジオからの
     さみしい そして 悲しい
     いっそ やさしい セレナーデ

 A Just-so Serenade

    Sweet kisses, far-off memories,
          in the space between our dreams.
          Shall I float them up, and cry?

          Love’s whispers left forgotten —
          tonight, for just a while
     should I search them out?

          A love song plays, pulling me in
          gently from a radio half-asleep,
          lonely, sad,
          leading up to just-so-gentle a serenade.

この歌詞の英訳について陽水さんとキャンベルさんの間でかなり長い対話が交わされています(pp. 146-150)*。私が問題にしたいのは、タイトルの ‘A Just-so Serenade’のどこに「いっそ」が入っているのかということです。陽水さんも同じ問いをキャンベルさんにぶつけています。「『いっそ』が僕にとって大事なのです。」と。キャンベルさんの応答は「『いっそ』というのは、優しさなんです。セレナーデ(小夜曲)の持っている優しさですね。」そして次のように説明しています。

 。。。 陽水さんの「いっそ」もそれ自体「優しさ」を押し出しているのではなく、デリケートな、少し謎めいた表現でした。「ソ」「セ」とサ行が続く音の柔らかさに加えて、「セレナーデ」が予想させる甘い曲調から私たちは「優しさ」を感じとります。なので、英語でも優しいことは明示しないでA Just-so Serenadeにしたのです。Just-soのsoと原詩の「いっそ」の「そ」とつながり、just-so=「丁寧で、慎重な態度」という意味の上でも相性がよいと考えたのです。

音のもつイメージは別にして、私は、「いっそ」は ‘just-so serenade’のようにセレナーデを修飾する語ではないと思います。「いっそ セレナーデ」の意味しているのは、ラジオから流れてくる恋のうたは淋しくて、悲しくて、やさしい歌、言ってみればセレナーデだ、といったところでしょう。つまり、「いっそ」は、セレナーデにかかる修飾語ではなく、「セレナーデだ」という命題内容を包んで、発話全体を一体化し、情況化してしまいます。

歌詞の第3スタンザを見ると、「やさしい」がセレナーデを修飾しています。その前の「さみしい」「悲しい」という形容詞とともに曲のイメージに合うことばを探しています。曰く言い難しの思いが「セレナーデ」とよばれるものに重なって、ラジオから流れてくる曲はセレナーデのイメージだという思いが「いっそ」を使用させているといえます。主語が人(を含む動物)以外の場合、この場合のラジオから聞こえてくるうたのような自然現象では、「ラジオから聞こえてくる歌はセレナーデのような歌だ/セレナーデそのものだ」といった一種の比喩表現になり、共感の声を示します。

すでに述べたように、「いっそ」は事象が自然の成り行きとして成立してしまう情況を発話者が感情を加えて伝える声にするのです。アクティブな声は表明されていません。人がコントロールできないこととして提示する自発の声であり、自発の声は非言語伝達行動といえます。受け手は発話者の〈ウチ〉化しているこころの中の思い、気持ちを共有しようとします。こころのウチ化という共感のプロセスです。比喩は共感のプロセスを経て成り立つものです。

共感は100%同じということはありませんから、聞き手の解釈には幅があり、ある種漠とした解釈となります。詩歌の鑑賞、解釈は、発信者と受け手との共感的相互作用を前提にしているものでしょう。

3.伝えたいことは何?

ここで一片の発話がいかほどのことを伝えるか、(1)の例によって考えてみましょう。老夫婦が昼下がり、それぞれの手を休めて休憩をしようかというところです。二人は午後の適当な時に一緒にお茶をする日課があるとして、今日のお茶菓子は和菓子です。

(1)妻:お茶にしましょうか。
   夫:(テーブルの上の饅頭をさして)これは日本茶だな。

妻の誘いに応じる夫の発話に対して、「饅頭」を指さして「日本茶」とは何事ぞ!とは思いませんね。夫の口に出したことばは、「これ」の指す饅頭と「日本茶」が何らかの関係があるということだけです。しかし妻が下す解釈は間違いなく夫の意図したことです。

夫が伝えようと意図したことはどんなことでしょうか。

 (2)a.  饅頭を食べるには日本茶(の方)が合う。
    b.  君に日本茶を入れて欲しい。
     c.  君の入れてくれるお茶は美味しい。
     d.  今日は僕は食べるだけでラッキー。

(2a)は夫が口にしたことを下敷きにした意味で、これも伝えたいことですが、本当に伝えたいことはことばにしなかった(2b)です。さらに(2c)も、夫の意図していることとして妻の解釈の中に入ってくるかもしれません。この夫婦は、紅茶を入れるのは夫で、日本茶は妻が入れるということであれば、ひょっとして(2d)も夫は意図したかもしれません。(2a)を〈オモテ〉の意味とすると、(2b)〜(2d)は、当該発話の取り巻く、文脈を含む「時」と「場」、「話し手・聞き手の関係」といったコンテクストの中で出てくるので〈ウラ〉の意味とでもよびましょう。

発話が伝えるのは、ことばにしたことを下敷きにした〈オモテ〉と聞き手の推論に訴える〈ウラ〉だけではありません。中核内容を命題とよぶことにすると、ひとつの発話は必然的に、それを発した人の、命題内容への何らかの態度を含むものです。(1)の夫の発話は、「饅頭に合うのは日本茶だ」と「言った」、それも「うれしそうに言った」ことを、あるいはそう「信じている」ことを伝えているとしたら、命題に対する話し手である夫の態度ということになります。文末の軽く詠嘆し念を押す「な」の使用が、この命題態度を伝えます。

命題と命題態度との関係を示す例をもうひとつ挙げます。アイロニーと言われる発話です。(3)を考えてください。

 (3)(ドジをした私に)
   夫:きみは天才だね。

 (4)S1[私は S2[きみは天才だ]なんて馬鹿げていると思う/なんていう人がいたらちゃんちゃらおかしいよ]。

一般にアイロニー表現は口にしたこと(命題内容)と反対のことを言っていると分析されがちですが、(3)の夫の発話は「そんなドジをした君は天才ではない」ということを言いたいのではなく、(4)のようなことを意図していると考えられます。とすると(4)は「君は天才である」という命題内容に対する話し手の態度そのものでしょう。話し手の本当に伝えようと意図していることは、命題内容そのものにあるのではなく、それを揶揄する気持ちなのです。

こういった態度表明はイントネーションやジェスチャーといったことば以外の手立てを伴うものです。発話に必然的に伴う話し手の命題内容への態度(思いや気持ち)は、命題内容の外、つまり一段上の高次レベル(S1レベル)にあると分析します。

4. 文の終わりを明示する文末表現

ここでは命題の提示の後に命題態度を表明し、文を終わらせる言語手段である文末表現をみます。

 (5)二人はバスを待ちながらおしゃべりをしている。
    A子:先生にオフィスに呼ばれて何て言われたの?
    B子:a.君は定期試験で満点でも取らないと救いようがないって
       b.バスが来た

B子がA子と真面目にやりとりをしていると考えれば、(5a)は先生の思考内容であることを伝え、(5b)は今の状況で、自分たちの乗るバスが来たことを伝えていると解釈されます。この区別はそれぞれ「って」と「わ」によって明示されています。「って」はその命題内容が話し手自身のものではないことを教えるマーカーです。ここでは、言い方はどうあったとしても、先生の発話内容であることを聞き手に伝えます。伝聞標識と言われるゆえんです。(5a)と(5b)は(6)のような意味構造をしています。「って」も「わ」も命題の外にあります。

(6) a.  S1[先生が B子に S2[君は定期試験で満点を取らないと救いようがない]と言った]。
   b.  S1[B子が A子に S2[バスが来た]と言った]。

(7)i.  定期試験で満点でも取らないと救いようがない。
   ii.  定期試験で満点でもとらないと救いようがないって
  iii. 定期試験で満点でも取らないと救いようがないと言われた

「って」というマーカーがなくても、A子の問いへの応答というコンテクストですから、先生の言ったことだと解釈されますし、「わ」がなくても(5b)は、バスを待っているという状況ですから、二人の乗るべきバスが来たと解釈されるでしょう。つまりこういった手立てを使わなくても、意図された解釈はなされます。

しかし考えてみてください。(7i)でコンテクストを確認し、解釈をすることは聞き手の推論に100パーセント任せるわけですからA子に大きな負担をかけることになります。一方先生の言ったことを話すことはわかっているのですから、(7iii)はウザくありませんか。話し手B子側もわかりきっていることはわざわざことばにしたくない、省エネでいきたいものです。となると、(7ii)は話し手、聞き手双方にとって負担が少なく、かつ話し手の意図した解釈は得られます。「って」表現は、程よい位置を見定めようという、まさに「ころ合い」の表現というべきでしょう。加えて、言った先生を前景化することを避け、「自分が」言われたという立場に視点を置くことになります。さらに「って」の使用は、たとえば「もうどうしようもない」といった、自分を突き放し、揶揄するような気持ちを解釈に加えるかもしれません。(7iii)にはそういった思いは解釈に入ってきません。

文末表現が英文でどうなっているか,『日日是好日』とその英訳文を見てください。**

(8)  a. 「今日の花はえ〜と「蝋梅」ですよね
     「ううん、同じ色だけど、これは「まんさく」。初春に一番早く咲くの「まず咲く」がなまって「まんさく」になったんだって。(118) 

    b. 「パパは?」
      「もう寝たわよ。またお茶の帰りに来るんでしょう?」
      「うん、土曜日に寄る。」 (193-94)

   (9)  a. “Sensei, today’s flower is … umm … wintersweet, isn’t it?
           “No, it’s the same color, but that’s not it, this is mansaku, Japanese witch-hazel. It’s the first thing to bloom in early spring and they say that mansaku is a corruption of mazu saku – first-to-bloom.”                      (85)

     b. “Is Dad there?” I asked.
          “He’s already gone to bed,” said Mom, sounding unconcerned.
          “You’ll come and see us on your way home from Tea again, won’t you?” She asked.
          “Yeah, I’ll drop in on Saturday,” I replied. (137)

(8a)の原文の伝聞標識「って」にあたる‘they say’があります。後に続く文が自分の意見ではないということを意味する ‘they say’は「って」と確かに呼応しているといえます。

文末助詞は2つ重なることもあり、念を押し確かめる「よ」と親しみを込めてよびかける意の「ね」が重なっています。「よ」は付加疑問が対応しているといえますが、「ね」の方は英語では表現されているとはいえません。さらに(b)においては、「わ」も「よ」も英文では対応していません。「わ」は軽い主張、詠嘆を表す女性語です。文末助詞、「な」「わ」「よ」「ね」をはじめ、「さ」(「好きにしたらいい」)とか「や」(「一緒に食べよう」)は英語で表現することが難しいことは(8)と(9)の例を見るまでもなくわかります。

伝聞標識「って」も文末助詞も、少なくとも英語にはない、日本語の専売特許です。「って」は、言った相手を前面に出さず、自分が言われたという視点からの表現にしています。文末助詞の使用は、聞き手に命題内容を断定的に提示するのを避けたいという気持ちを伝え、命題への思いをその方向で解釈するよう導くという手立てといえます。

5.一枚の絵

一片の発話は、事態だけを提示するのではありません。事態の描写としての命題を、情況描写に変えてしまう表現と、これを発話者がどう捉えているかを相手に提示する文末表現について考えました。

人の意志で実現するのではなく、自然にそうなってしまうとき、この現象を自発といいますが、発話者が、「きっと」と「いっそ」という副詞表現を使って自発の声にするさまを提示しました。日本語には自発態ともよぶべき構文が多いことが特徴です。先に見た受動文、受動形の〈ラレ〉と同型を使う可能文、たくさんの自発自動詞の存在もそうです。

事象を情況化するということによって、人為がコントロール出来ない、自然の成り行きとして成立してしまう情況を伝えるのが自発態です。人のアクティブな声は表現されず、〈ソト〉へ向かわず、〈ウチ〉へ向かう。そこに現れるのは、事象に隠れたこころの声とでもいうべきもので、伝達行動ではありません。「きっと」は君が来ないという事象を自分に言い聞かせ納得させようとし、受ける側はこれを共有します。そこで 発信者と受信者との間に共感が生まれるのです。

「って」も文末助詞も、命題表示の後に続き、命題内容に対して抱いている気持ちとして、個々の語がもっている意味を加え(たとえば、「よ」は念を押し、確かめる意)、命題に対してこうだと断定する、決めつけるのを避ける手立てとして機能します。こういった謙虚に伝えたいというわきまえた姿勢は、情況描写に変えてしまう「きっと」と「いっそ」と共通する機能と言えるでしょう。「バスが来た」「土曜日に寄る」も、「わ」を付すことで事実から情況描写へ移行していると感じます。「って」の使用は、相手(先生や世間)を前景化することを避け、「言われた/教えられた」立場の自分に視点をもっていきます。こういったわきまえの姿勢は、日本語の美しさと言っていいかもしれません。

日本語は自発態優位の言語であり、英語は(いわば)人為態優位の言語と言っていいでしょう。「きっと 君は来ない」と‘I’m sure that you are not coming.’の違いに感じることです。漠として掴みどころがないというより、物事の全体性未分性を見る認知的姿勢が反映されているといいたいのです。命題を包む表現および命題への態度を表明する語は、発話解釈の方向を、これと特定せず、こっちの方にあると手を差しのべながら、事象と話し手の心情を一体化、流動化しているようであり、発話全体を一枚の絵として見せることにつながると思われます。

* ロバート・キャンベル. 2019. 『井上陽水英訳詞集』 講談社.

** 森下典子.  2019. 『日日是好日』 新潮文庫.
   Translated by Eleanor Goldsmith. 2019. Every Day a Good Day. 出版文化産業振興財団.

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