英語とともに日本語を考える| 第8回 日本語は受動文がお好き|武内道子

1.自発自動詞

今回は英文から。次の3英文、いずれも自然な英文ですが、日本語ではどう表現されますか。

(1)   a. John opened the door.
   b. The key opens the door.
   c. The wind opened the door.

(1a)は「ジョンがドアを開けた」で問題ないとして、(1b)(1c)は「鍵がドアを開ける」「風がドアを開けた」というのは自然な日本語の表現とは言い難いですね。せいぜい学校の英語の時間に日本語に直せと言われた時の応答としてはマルかもしれません。(b)は、文の構造として問題ありませんが、日常のやり取りでは受け入れ難いところがあるかもしれません。ドアを開けるのは鍵ではなく、人ですから、You can open the door with this key.のように、「開ける人」が主語になります。この場合、ドアを開ける人が特定できないので、文にするために一般的に人を表す’you’を立てることが必要です。ただ、その鍵でなければ開けられない部屋の鍵を持っている人は普通に使います。たとえばミステリーなどではよく耳に(目に)します。一方(c)は、ドアを開けるのは人でなくモノ、つまり‘the wind’ですからこれを主語に立てて(1c)のように表現することができます。

(1)の英文に対する自然な日本語は(2)のように表現されます。

(2)  a.ジョンがドアを開けました。
   b.この鍵でドアが開きます。
   c.風でドアが開きました。

日本語話者は、モノを主語にして行為を表す動詞(ここでは「開ける」)を使いません。なぜでしょうか。英語の場合、行為を表す動詞(open, send, takeなど)の目的語にくる人、モノに影響を与える行為者(動作主)が主語になりますが、その主語は人とモノの区別がありません。対照的に日本語では、行為者は人にとどまっていますし、主語が文中に出ない「私」になることも多いです。

さらに、事象を表現する視点が日本語と英語では異なります。英語は、行為者が行為の及んでいる行為全体を表現します。文構造でいうと行為者(動作主)+行為動詞+行為の受け手(被動作主)という文構造が普通です。行為に及んでいる行為者が行為全体を、事象を客観的に表現します。一方、日本語が表現する文の視点は事象のありようにあります。「この鍵でドアが開きます」「風が吹いてドアが開きました」という言い方は、行為者が関与することなくドアが勝手に開いたような物言いです。モノが主語になり、後に「アク」という自動詞(自発自動詞)が続いています。

主語+自発自動詞の構文が示す日本語文の視点は、人やモノ(風)の行為によって事象が起こったとしても、そのような事実に即した客観的な表現にはそぐわないのです。同じように、花瓶に触れてうっかり落として花瓶が割れてしまったとき、通常「花瓶が落ちて割れた」(「落として割った」ではなく)と自然のなりゆきで起こったように表現します。「オチル」も「ワレル」も自動詞です。両動詞とも、行為者の存在を薄くし、その事象がなりゆきのように起こったような表現にします。

日本語はなぜ自発自動詞を使う傾向にあるのでしょうか。これは受動文と深いつながり、共通性があります。

2.日本語の受動文の成り立ち 

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニサレズ  
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
People may call me a fool.
I doubt if anyone will applaud me.
Then again, perhaps none will detest me either.
All this is my goal – the person
I want to become.
(宮澤賢治 「雨ニモマケズ」 アーサー・ビナード訳)*

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の最後の部分を、英訳と併記したものです。原文では受動文で書かれているところが英文では能動文になっています。たとえば「ヨバレ」は、その語幹/yob/に、受動文のマーカーである/rare/(〈ラレ〉)が続いています。 

「みんなに木偶の坊と呼ばれる」という受動文は

 (3)S1[私は S2[みんなが私を木偶の坊とyob]-rare-ru]

という構造になります。この構造は前回(補助動詞をめぐる話)で、中核内容文(S2)が上位レベル文(S1)に埋め込まれていること、上位レベルに、中核内容への話し手の態度が位置していることを話しました。日本語の受動文も、事象を表す能動文とそれを埋め込んだ上位レベルといういわば2階建て構造をしていると考えます。そしてこの2階の部屋で、主語の「人」がその事象の影響を蒙っているという位置付けです。これに対して、能動文は(3)のような埋め込みがありません。命題内容とよぶ、伝えようとする中核内容は同じです。

では、能動文「みんなが(私を)木偶の坊と呼ぶ」と受動文「(私は)みんなに木偶の坊と呼ばれる」はどう違うでしょうか。アーサー・ビナード氏の英文は能動文で書かれ、しかもmay, willが入っています。主語が「私」でないので、作者(発話者)が想像している話になっています。一方日本語の受動文は、発話者(主語の私)が命題内容を受容し、そこに起こる心情が表現されているといえます。木偶の坊と呼ばれて結構、続く「ホメラレズ」「クニサレズ」も一緒になって、役に立たないが、邪魔でもない存在感をよしとする、淡々とした思いが聞こえてくると思いませんか。

⒊ 行為担い手の声対行為見守り手の声

英語にも能動文、たとえば、‘Your energy always astonishes me.’とその受動文‘I’m always astonished by your energy.’があります。しかし日本語の能動態、受動態の文と文構造が異なります。英語の文は、まず、行為の主体がどのような行為をするかに注目する傾向があります。行為の対象の方は行為の一部として含まれます。行為の対象、例文では’me’が注目に値する状況を表すとき、行為の対象を「主語」として立てます。あるいは行為の主体が明確でないとき、漠然としているときもそうです。たとえば、‘English is spoken in New Zealand.’において行為の主体は一般不特定の人で影の薄い存在なので、それが、行為の対象‘English’を主語にするという受動態表現の起こりやすい状況を作っているのです。

日本語と英語の構文の違いは、私たちの認知の仕方の傾向を表しています。外界をどうとらえるかという認知の仕方の違い、言いかえると、社会、文化における事象を理解する視点の違いが反映されているのです。行為の主体と行為の対象の両方が関係している出来事があった場合、英語母語話者の認知の傾向として、まず行為の主体の方に注目する傾向があるということです。日本語話者の認知の傾向はといえば、出来ごとを受けている自分と出来ごととの関係性をみるということです。日本語の受動文は、話し手が事象を受け、事象との関係性を〈レル〉形を使って、2階家として表示するのです。ということは、行為の主体は行為を中心とした全体的情況の中に埋没しているということで、これが日本人の認知の仕方に沿っているのです。

能動態、受動態の「態」は英語で’voice’といいますが、この表現は大変示唆的だと思います。能動態は、誰かが、何かが、何かを引き起こす、いわば行為者の声、したがって人為の声であり、受動態は、行為が誰かに、何かにふりかかった、起こったという、行為の受け手の声です。行為者が背景化されるので自然発生的に感じられます。英語は、行為の担い手として自分の声を考えているので、受動文のような間接表現を好まない傾向が強いのかもしれません。それに対して、私たち日本人は、事象を、話し手あるいは話し手が共感する人の視点から眺め、描写する傾向が強く、行為の担い手というより見守り手である傾向が強いといえましょうか。

そもそも受動態がない言語の方が受動態のある言語より多いという話です。また受動態があっても、その言語内での使用頻度も問題になります。英語圏では日本語のように頻繁に受動態を使うことをしないとも言われているそうです(牧野 2018)**。日本語教育に携わる日本語母語話者と中国語、韓国語母語話者に対して、受身文を対象として同じ出来ごと(たとえば「足を踏まれた」「答案を盗まれた」)をどう叙述するかという調査活動を行った報告があります***。日本語話者では、100%受身文で表現されたことが、中韓語話者では、能動文が使われることが1/4から1/3程度あったという結果を読みました。英語に関しても能動態の頻度が圧倒的に高いということも含まれています。同じ事態を表現するのに、日本語では受身文が多用されると間違いなく言えるようです。

4.こころの声としての受動文

日本語の受動文を5つに分けて考えてみます。

 (4) A. 僕は そのことで また親父に叱られた。
    B. 私は 電車の中で 隣の人に足を踏まれた。 
    C. 太郎は ルームメイトに泣かれた。
    D. 看板が 強風に倒された。
    E. 遠くに列車の音が聞かれた。 

AからCはいずれも行為の主体(親父、隣の人、ルームメイト)が、その行為を蒙る対象(僕、私、太郎)に、その行為(叱る、踏む、泣く)を通して何らかの影響を及ぼしていると解釈され、その影響は、Aが最も直接的であり、Bはより間接的に、Cはさらに間接的になると考えられます。Aは「直接的受身」とよばれ、受動文の主語は「他者」による行為を蒙る直接の対象です。Bは、行為を蒙る対象は「私の足」ですが、それと切り離せない一部である「足」が影響を受けるので「持ち主の受身」とよばれることがあります。「太郎は鞄を盗まれた」では蒙る対象は「太郎の鞄」であって、太郎と鞄は切り離せないものではないにしても所有物として「鞄」が影響を受けます。一般的には間接受身とよばれます。

Cは、受動文の主語(「太郎」)は、AとBとは異なり、ルームメイトが影響を及ぼす直接の対象ではありません。受身の主語(太郎)は他者(ルームメイト)による行為(泣く)の直接の対象ではないわけです。ルームメイトに泣かれて太郎が影響を蒙るだけでなく、話し手も太郎に同情的になるというがあればさらに間接的になります。さらには、「(私は)雨に降られた」では、私と雨の間には「自主的」な関係はなく、「私」は「雨が降る」という出来ごとの中に巻き込まれ、その行為の対象にされ、影響(被害者として)を蒙っています。Cは「被害(迷惑)の受身」とよばれるものです。こういった自動詞構文の受動文は日本語独特のもので、受身の主体は他者による行為の直接の対象であるのが基本である英語では英訳は何かと工夫して表現します。

影響に巻き込まれるのはいつも人間とは限りません。Dも「強風が看板を倒す」という能動文が埋め込まれていますが、「看板」がある状況に巻き込まれて影響を受けますが、人に働きかけるという影響はありません。しかし、家の近くの馴染みのレストランの看板だったり、ましてや自分の店の看板となれば話は別で、その看板に対して話し手がこころを寄せている声を表しています。強風のような自然現象では「看板」に対する擬人化の心理も働き、同情や共感の声を示すことになるかもしれません。一般的に人(他の生き物)以外のモノが主語である場合、たとえば、「この大学は福沢諭吉によって建てられた」では、共感、同情の声は働きません。

Eは動作主が明示されないという特徴をもちます。「自然に聞こえてくる(自動詞)」情景を描写しています。明示されていない行為者に話し手が含まれていることもあり得ます。「列車の音を聞いた」(能動文)とは違って、「聞かれた」は自然発生的に聞こえてきたというだけでなく、話し手の、列車の音にこころを寄せる情が出ているように思います。

これらの例から、日本語の受動文は、話し手ないしは話し手と共感する人の立場から事象を眺め、描写するものと言えます。話し手の立場から主観的に描写するということは、話し手のこころの声ともいうべき心情が加わります。受動文は「自分でコントロールできない出来ごとが自然発生的に出てくる」という「自発」の認知に基づいた自然のなりゆきの声なのです。

(4)の受動文についてもう一つ注目してほしいことは、行為の主体が「に」によって表されていることです。「親父叱られて」、「隣の人足を踏まれて」「強風倒されて」という具合です。「に」は原則的に場所を表します。つまり、「に」によって行為者としての存在を弱め、全体的、状況的状態へと埋没させるということです。状態化は物事を主観的にとらえることになり、主語あるいは話し手と行為の対象との間にこころを通わせることにもつながります。

一方「この大学は福沢諭吉によって建てられた」のように、行為者が「によって」でマークされるのは、主語が人あるいは生き物ではないので、共感の心情が出てこないからです。「看板が強風によって倒された」では、「に」の場合よりも、「強風」が看板を倒した行為の主体として前面に出ています。先に述べましたが、擬人化が起こり、したがって共感の心情が出てくるのは「に」の場合です。「によって」受動文は、焦点が主語(「この大学」、「看板」)にあることを示すだけで、事象を自然のなりゆきとして描写しているとはいえません。

主語に「私」を含め、共感の対象になる人やモノが来ると受動の声にかわる傾向が強いということと、この受動の声が英文になると消えてしまうことを、次の例で確かめてください。

(5) 父からは何とも催促されないが、ここ2,3日はまた青山へ呼び出されそうな気がしてならなかった。(『それから』186)***
    His father had not pressed him yet, but he had a feeling that he would be called to Aoyama within two or three days. ***

(6) トットちゃんは、校長先生に連れられて、みんながお弁当を食べるところを、見に行くことになった。(『窓際のトットちゃん』)****
    The schoolmaster took Totto-chan to see where the children had lunch. ****

原文での受動の声は能動の声になっています。原文では語り手の視点から語られていますが、英訳では行為者(父、校長先生)の視点から描写されています。原文のもつまなざし―主語(代助)は、父に対して後ろめたい気持ちがあるので、よび出されるのを無しにすることは不可能にしても、先延ばしに出来たらという気持ち、父の方もそれを察して本人からは何も言わないので、自分から行かなければならないかという気持ち―は英訳の中では消えています。(6)でも、原文ではトットちゃんの心情―人がお弁当を食べているところを見たいとは思っていないし、遠慮したい気持ち―が感じられますが、英文は、行為者(校長先生)の行為としてトットちゃんを連れて行ったという事実だけを叙述しています。このことは、英語人が歯に衣を着せないでストレートなコミュニケーションを好む傾向が強いことを感じさせてくれるといえます。

5.受動態の世界

能動態と受動態の対立というのは、当該の事象について「行為者」と「行為を受ける者」のいずれを主題化して主語として表現するかの違いであるという想定は、英語に関してはある程度受け入れられるとしても、日本語には二つの対立はないことを述べてきました。日本語の受動文の構造を、能動文を抱え込み、能動文の意味内容に対する発話者/話し手の心情を、〈レル〉形によって包んでいると提示しました。

このことによって、受動態の本質とは、行為者に関心が向けられない場合であるという消極的な意味合いのものではなく、事象を、出来ごと全体と発話者との関係性として提示するという積極的な意味をもつものということになります。

テレビのニュースキャスターが言っているのを耳にしました。

(7)両陛下には石川県を訪問されたのは即位後初めてです。

丁寧には「両陛下におかれましては」とも言います。本来行為者としての性格をもっている「両陛下」が主題とされ、同時に場所として提示されています。すでに述べましたが、「に」受動文によって、行為者としての性格が弱められています。受動文は、「両陛下は石川県を訪問なさいました(これも敬語文ですが)」より、もっと丁寧に言っているという印象が加味されます。

英語でも、現実に受動文の用いられる多くの場合において行為者の表示を伴わないという事実があります。もし受動態の本質が、あるものからあるものへ向けられた行為を、「行為の受け手」を主題化し主語にした表現であるとするならば、受動態における行為者の表示は、能動態における行為者の表示とほぼ同等の頻度で出てきてよいはずですが、実際はそうではないのです。

能動態の主語と違って、[受動態における]動作主を表すby句は任意的である。実際、英語の受動態の文は5つのうち4つまで、明示された動作主を含まないのである(下線は筆者による)。

(Quirk et.al. A Comprehensive Grammar of English Language. 1985. pp. 164−165)

この引用は、受動態では動作主(行為者)を明示しない方がむしろ常態であり、受動文は出来ごとを状態化し、ことのなりゆきに注目する表現であるいうことを示しています。実際英語の場合も「be+過去分詞」によって状態として解釈されます。

自然発生的なものとして事象を眺め、描写する姿勢は意図的働きを排除することにも通じます。事象の見守り手としての立場は、担い手も、対象となる事物も、行為の中に包み込んだ一枚の絵を提示するのです。あいまいという物言いとは違う角の立たない表現を好むということはこういうことでしょう。

当事者の意図を超えたレベルで自ずから成ったかのように外界の世界をとらえる日本人の認知が独自の受動態の世界を作ったといえますし、逆に受動態の使用が日本人の認知をそういう方向へ助長させてきたこともあるでしょう。ことばというのは、かくの如く、使用者の認知的視点とつながっているということを感じ取ってもらえれば幸いです。

*  宮沢賢治(文)、アーサー・ビナード(英訳)、山村浩二(絵).  2013.『雨ニモマケズ Rain Won’t』今人社.

** 牧野成一. 2018.『日本語を翻訳するということ』中公新書.

*** 黒沢晶子. 2016.「グループワークによる受身文の多言語対照アプローチの役割」In Journal of The British Association for Teaching Japanese as a Foreign Language  No.17: pp.41-46.

**** 夏目漱石.『それから』漱石全集 第八巻 岩波書店.
Norma Moore Field(訳)2011. And Then. Tuttle.

***** 黒柳徹子. 1981.『窓際のトットちゃん』講談社.
   Dorothy Britton(訳)1984.TOTTO~CHAN The little Girl at the Window. 講談社.

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