この記事では、筆者が長年調べている鹿児島県下の伝統方言「薩摩弁」を紹介します。半年くらいの連載を予定していまして、薩摩弁の言語特徴だけでなく、方言調査の手はずや現地での生活にも触れます。ちなみに、そして、残念ながら、薩摩弁は筆者の母語ではありません。
専門用語にはなるべく注を付けますが、不足があるやもしれません。各種ブラウザーやChat GPTを使って、ご自分で検索する場合は、検索語に「音声学」「言語学」「文法」「日本語」「薩摩(弁/方言)」(注1)「鹿児島(弁/方言)」などを加えると、検索精度が上がります。
薩摩弁鑑賞
まずは、薩摩弁がどのような方言であるかを見ましょう。次掲 (1–3) をご覧ください。音声ファイルを添付してあるので、実際の音声も聞いてみてください(注2)。薩摩弁特有の語句が少ない発話ですので、まるで理解できないということはないかと思います。
(1) | a. | かな表記: | あしこ | さげどえたっ➘(注3) | じゃっどん |
b. | IPA(注4) 表記: | ɐsʲko | sɐɡedoetɐd̚ | d͡zʲɐd̚doŋ̚ | |
c. | 構成: | a-sko | sage-towos-ta-t(o) | zjar-don | |
d. | 注釈: | あれ-だけ | 下げ-通し-た-ん | だ-けど | |
e. | 意訳: | ‘あれだけ(頭を)下げまくったのに’ |
(2) | a. | てっ➘の | こーげきょー | ふせっ➘が | ならんじゃった。 |
b. | teʔ̚͜t̚no | koːɡekʲoː | ɸːseɡ̚ɡɐ | nɐɾɐn̚d͡zʲɐt̚tɐ | |
c. | tek-no | koːgek;i-o | huseg-ga | nar;a-n-zjar-ta | |
d. | 敵-の | 攻撃-を | 防ぎ-が | なら-な-かっ-た | |
e. | ‘敵の攻撃を防げなかった。’ |
(3) | a. | なんにんかで | ひっぱっ➘て | ひっあげ➘た |
b. | nɐn̚ʲnʲiŋ̚kɐde | çːp̚pɐt̚te | çiʔ̚ɐɡetɐ | |
c. | nan-nin-ka-de | hippar-te | hik-age-ta | |
d. | 何-人-か-で | 引っ張っ-て | 引き-上げ-た | |
e. | ‘何人かで引っ張って、引き上げた。’ |
薩摩弁の促音
とはいえ、(1–3) には薩摩弁の特徴が現れています。(1–3: 太字部) をご覧ください。薩摩弁は、促音に清音以外が続くことを気にしません。
「促音-清音以外」という音連続は、現代日本語方言においては避けられる傾向にあります。促音に続く音は基本的に清音なんですね。たとえば、次掲 (4) のようなあだ名を作る場合、太字部のとおり「促音-清音」は生じますが、「促音-清音以外」は皆無です。
(4) | a. | b. | c. | d. |
‘明子’ | ‘松本’ | ‘吉村’ | ‘保仁’ | |
アキコ | マツモト | ヨシムラ | ヤスヒト | |
↓ | ↓ | ↓ | ↓ | |
アッコ | マッチャン | ヨッシー | ヤット |
このような制約があるため、次掲 (5) のような、「促音-清音以外」を持つネット スラングが面白がられるわけです。(5) に比べると、「促音-清音」を取る前掲 (4) はごく自然ですよね。
(5) | a. | b. | c. | d. | f. |
‘信長’ | ‘犬’ | ‘お母さん’ | ‘上原’ | ‘鳥’ | |
ノブナガ | イヌ | ママ | ウエハラ | トリ | |
↓ | ↓ | ↓ | ↓ | ↓ | |
ノッブ | イッヌ | マッマ | ウッエ | トッリ |
(5a–d) のような「促音-清音以外」は薩摩弁では普通の音連続ですから、薩摩弁母語話者には響かないかもしれません (母語話者の感覚が欲しい … )。ただし、(5f) のような、促音にラ行子音が続く例は薩摩弁にもないです。
注
(注1) 「薩摩(弁/方言)」は「薩摩」「薩摩弁」「薩摩方言」を意味します。“(◌)”, “/” のこの用法は今後もたびたび現れます。
(注2)この連載に挙げる薩摩弁の発話例 (.wavファイル) とその注釈 (.TextGridファイル) とはこのDropboxフォルダーから公開しています。ご自由にお使いください。ただし、研究、教育、文筆活動などに利活用する際は、その旨を明記してください。
国立国語研究所が公開している「方言録音資料シリーズ」にも薩摩弁の音声資料が有ります。こちらも是非聞いてみてください。視聴には、minerva scientia氏が編集したこのYouTube動画が便利です。
(注3) “➘” の位置で音高を下げると、薩摩弁らしく聞こえ(る可能性があり)ます。
(注4) International Phonetic Alphabet (国際音標字母) の頭字語。アナログな音声をなるべく細かく転写するために発案された、デジタルな記号体系です。欧州に発祥したことから、相当数の記号はラテン文字から転用されています。IPAを提案している組織もまたIPA (Inernational Phonetic Association) なので、幾分ややこしいです。
ちなみに、ビールのIndia pale aleもIPAと略されます。記号のIPAとはもちろん何の関係も無いのですが、酒好きの言語学者は両IPAを無理やり絡めたがります。