⒈ ぼかし表現
岡本真夜のTOMORROWの歌詞です。この歌は、1995年(4月~6月)放送のTBSドラマ「セカンド・チャンス」の主題歌に起用され大ヒットしました。
涙の数だけ強くなれるよ
アスファルトに咲く花のように
見るものすべてにおびえないで
明日は来るよ君のために
突然会いたいなんて夜更けに何があったの
あわててジョークにしてもその笑顔が悲しい
ビルの上にはほら月明かり
抱きしめている思い出とか
プライドとか捨てたら
またいい事あるから
… (第1スタンザ繰り返し)
季節を忘れるくらいいろんな事あるけど
二人でただ歩いているこの感じがいとしい
冒頭部分の「涙の数だけ」というくり返しで有名ですが、私が問題にしたいのは下線の「とか」です。
「とか」の意味は何なのでしょうか。「とか」がなくても詞そのものの意味は変わりません。でも、好んで使っているのですから作詞者がそれに込めた意味があるはずです。
その意味とは何か、それによって言おうとしたことにどんな違い、発話の効果があるのかを考えます。
次に、「とか」の部分の英訳を見てください(https://lyricstranslate.com/en/tomorrow-tomorrow.html-1)。
On the top of the moonlit building
Lie your treasured memory
If you learn how to swallow your pride
Good things will happen again
原文と解釈が違うところがあります。「抱きしめている(英文は「宝物のように大切な」)思い出」は月に照らされた建物の上に置き、「プライド」は捨てたら(英文は「飲み込むことを知ったら」)いいことがあるとしています。ここでのポイントは、英文の「思い出」も「プライド」にも「とか」の意味合いは入っていないことです。
「抱きしめている思い出とプライドを捨てたら」としたら作詞者の言おうとしていることにどんな違いが生まれるでしょうか。「とか」を使うことで「思い出」「プライド」と言い切りたくない気持ちが表れると思いますが、なぜ言い切りたくないのでしょうか。その時の言語意識としてはあからさまに言いたくないという気持ちでしょう。「とか」を付けることによって、語の意味の当たりを柔らかくし、なんとなくそういった気持ちであることを伝えることになります。
この後に続く第1スタンザの繰り返しの後のフレーズを見ても、相手の以前あったことを慮っているのですが、相手のもつ思い出は想像がつくようでつかないところがあり、そういったぼんやりした概念を「思い出とか」は表すことになります。「プライドとか」も、あなたのことを全部知っているわけではないからプライドとよんでいいかどうかわからないという想いが入っています。さらに、「とか」を2つ並べたことで、「捨てる」ものとして思い出、プライド以外もあるよ、と伝えるかもしれません。「とか」表現の意味するところはこれと特定できません。したがって相手に解釈を委ねているわけです。そういう意味で相手への共感を表しているともいえます。
こういった語の意味の輪郭をぼかす言い方は、その語の意味を風呂敷で包むという感覚でとらえたいと私は思います。テレビの、ドラマでもインタビューに答えるときもよく耳にします。過日高校生が「自分の回りとかから戦争とかをなくしていきたいと思う」と発言していました。自分の周りの人々あるいは自分の居る場所を特定しない、断定しないという姿勢、つまり風呂敷で包んでもろにそれと分からなくする姿勢です。あるいは「戦争」と言い切ると強いのでやわらげたいという思い、国同士の正真正銘の戦争に必ずしも言及しないという考えがあるのかもしれません。こういった「とか」の単独用法は、ことばにしなかった、その集合範囲内の他の要素・要因をそれとなく伝えます。
「コーヒーとか飲む?」というのは、一つのことがらを挙げ、代表させ、他(の飲み物)を省略、あるいは特定しないという意になります。ほかの飲み物の選択肢があることを暗示することによって聞き手への配慮を伝達することになるかもしれません。また「結婚したとか聞いているよ」という発話例は、「聞く」「言う」の伝聞内容が不確かであるということを伝えようとしているといえます。「とか」は引用マーカーとして機能しています。セクション2の冒頭の「とか」も引用マーカーです。前発言を受け、それに対して距離を取ることでその発言を信じていない、受け入れないことを伝え、よってあなたのいったことはまだ確かなものではないという表明になります。
芦野(2020)は、こういった「とか」の用法は4つに分けられるとし(「並列」、「断定回避」、「強調用法」、「引用マーカー」)、「とか」は、これら個々の意味・用法を超えた一つの抽象的な意味(「意味的同一性」)を持ち、異なる解釈は「文脈における特殊な実現」であると考察しています*。
2.状況の中に溶け込んだ表現
「彼は友達よ」
「とか言っちゃって。彼のことが好きなんでしょう」
なぜ、「彼が」好きと言わないで、「彼のことが」好きというのでしょうか。「彼が」というのはあからさますぎる、「〜のこと」を付けると当たりが柔らかくなるということでしょうか。オブラートに包むことによって喉通りがよくなるのと同じです。井上陽水の詩から2例を、キャンベル氏の日本語訳とともに挙げます**。
君のことを思うたびに聞こえてくる (「いっそセレナーデ」)
Every time you come to mind / I can hear it (‘A Just-so Serenade’)
君のこと以外は考えられない/君のこと以外は何も見えなくなる (「傘がない」)
I can’t think of anything but you
I can’t see anything but you (‘No Umbrella’)
もっともthink ofの使用は「君のこと」(を考える)に近いかもしれません。
こういった風呂敷で包む表現は日常的によく使われます。「お茶を飲みません?」「3枚いただきます」「わたしの事情は」の代わりに、「お茶でも飲みません?」「写真3枚ほどいただきます」「わたしの方の事情は」という言い方の方が好まれるものです。いずれも語義そのものを風呂敷で「包む」ことによって、その輪郭をぼかし、当該状況の中に溶け込ませ、当たりを柔らかくするという印象です。
専門書を翻訳しているときでも、「これは」というより「このことは」、あるいは「そこ」というより「そのへん」とした方がずっと日本語らしくなるということをよく経験します。翻訳作業を経験した人はこういった日英間の表現の違いに心を砕くものです。その一端を。漱石の『こゝろ』と渡部昇一氏が絶賛した近藤いね子氏による名訳をみて下さい***。
私は斯ういふ事でよく先生から失望させられた。
(『こゝろ』上 先生と私 四 p. 11)
He often disappointed me by assuming this indifference attitude.
(KOKORO The Sensei and I 4, p. 15)
こんな苦情をいふ時ですら、奥さんは別に面倒臭いという顔をしなかった。
(二十 p. 45)
This complaining did not indicate that she regarded the work as a nuisance.
(20, p. 48)
原文の内容を「斯ういふ事」で表しているところを、英訳では「この無関心の態度」と明示しています。日本語でオブラートに包まれた表現が、英訳では動作を起こした主体である先生の態度としてとらえられています。原文の「斯ういふ事」の中には行為者としての人間の姿はなく、行為者である先生を埋没させた状況を述べています。
2つ目も、「こんな」という原文が’this’と英訳されています。ここで苦情というのは、「私」が着物の繕いを頼んだとき、こんな地のいい着物は縫いにくい、お蔭で針を2本折ったという「奥さん」の発言を受けています。原文は、針を2本折ったことを、苦情の範疇に入るとは思えない奥さんの物言いも含めて、「こんな苦情」と、語義の輪郭をぼかし、行為者の奥さんを表に出さないで状況全体を述べているといえます。英訳では奥さんのその場で口にしたことを「苦情」として特定しています。
以上、「とか」は、その名詞の意味する対象の輪郭をはっきりさせないで、ぼやかす働きがあり、行為の対象として独立性が希薄で行為の中に溶けこませて一体化するという機能をもつと言っていいでしょう。
3.〈コト〉的対〈モノ〉的
ここで唐突ですが、たとえば、「悲しい時は泣くことだ」と「悲しい時は泣くものだ」とはどう違うか考えてみてください。前者〈コト〉発話は、悲しい時に泣くのは普通のこと、一般的なこととしてとらえているのに対して、後者〈モノ〉発話は、今相手が悲しい時に遭遇している場面で発していると理解されます。さらに、「君たちは同じことを言っている」と「僕たちは同じものを探している」はどうでしょうか。「言っている」ことは同じ「ことがら」であり、「探している」ものは「物」であるというかもしれません。
では「言うこと」と「探すこと」の違いが、〈コト〉と〈モノ〉の違いと呼応している、といっていいでしょうか。「同じもの」について「言っている」こともあるし、「同じこと」を「探し求めている」こともあるでしょう。〈モノ〉は物質的なもの、〈コト〉は抽象的なものを表すという一般的な説明では十分とはいえません。
「同じもの」と「同じこと」という表現は英語ではどちらもthe same (thing)という同一のフレーズで表されます。ですから、一般的に、外界における存在を排他的に区別する範疇とはいえないのです。その違いは私たちの認識の仕方に関係するといえます。〈モノ〉は、個体としてのことがら、ものごと、人へ注目し、個体中心的見方から生み出されるといっていいかと思います。ですから、実際に悲しい事象に遭遇している時「泣くものだ」という発話になるでしょう。
「彼のことが好きなのね」ということによって、「彼」という〈モノ〉が包まれて状況化しています。対応する英文 “You love him, don’t you?” には〈コト〉的要素が入り込む余地はありません。「3つ」といわないで「3つほど」というのも同様、「3ついただく」と言えば、2つでもない、4つでもないと言い切っていますが、「ほど」をつけた風呂敷に包んだ表現によって、区別される数をとりだすのではなく、「3つ」という数を状況的、〈コト〉的にしてしまうのです。
目の前にカップに入ったお茶を出して勧めるときこそ「お茶をどうぞ」と言いますが、「お茶にしましょう」あるいは「お茶の時間」と言えば、「お茶」は休憩を意味することになります。「でも」の使用もこの延長上にある言い方です。バッタリ道で会った時、「お茶でも飲もうか」という誘いは、お茶そのものだけでなく広く飲み物を意味し、プラスお茶を飲む行為をひとまとめにした状況を作り出し、発話全体でゆったりした気分で話をしようということを伝えることになります。「お茶」という語を状況に溶け込ませるという意味で「でも」表現は〈コト〉的表現なのです。
英文の”Let’s have / take a tea break.“ “Would you like some tea?”と比べると、英文では「休憩」と「お茶」がそれぞれ一つの事象としてとらえられ、それを享受する主体としての動作主が表に立ちます。これが〈モノ〉的表現ということです。
4、2つの関係代名詞節
日本語の〈コト〉的言い方に対する好みは、少し違った方向でも認められることを指摘します。次の(a)と(b)のいずれが自然な日本語の表現と考えますか。
(バッターがスウィングしてボールよりバットの方が遠くへ飛んだという状況で)
a. ここまで飛ぶバットを観たことがありませんね。(アストロズ対フィリーズ ワールドシリーズ第6戦のアナウンサー 2022年4月11日)
b. ここまでバットが飛ぶのを観たことがありませんね。
いずれも関係代名詞節とよぶ構文です。(a)は「バットが飛ぶ」という出来ごとの中から「飛んだ」対象としてバットを取り出し、その部分を説明する関係節です。個体的な〈モノ〉が顕在化されています。一方、(b)は出来ごとそのもの、「バットが飛んだ」こと全体を、一つのまとまりとして節の形で表しています。
バットの動き、つまりバットが選手の手元から離れて移動し、その結果「ここ」というところに至ったという場所の変化として描写している(a)に対し、(b)の方は、バットの移動そのものというよりバットが飛ぶという過程をとらえているといえます。場所の変化は移動の行きつく先に意識がありますが、移動の過程を描いている(b)においては到達点(ここ)への意識は必ずしも見られないといえます。
一般的に、典型的な関係代名詞(a)の方は日本語にあまりそぐわないといえます。個体を全体の中に埋没させるという形の(b)の方が日本語特有の構文なのです。関係代名詞は典型的な〈モノ〉的構文を作りだすのですが、このことが〈コト〉的表現への嗜好が強い日本語と合いにくいということになります。ただし(a)の場合、打ったボールよりバットの方が遠くへ飛んだということを揶揄している効果があり、アナウンサーのその気持ちがこう言わせたのかもしれません。
5.数の概念の面白さ
〈コト〉的表現に対する嗜好と結びついている現象として日本人が名詞の単複に無頓着ということがあります。次の3文を考えてみてください。
a. カラスが枯れ枝に止まっている。
b. 7羽のカラスが枯れ枝に止まっている。
c. カラスが7羽枯れ枝に止まっている。
英語では名詞が単数か複数かを示すために名詞の後に複数形の接尾辞/-s/をつけて複数形であることを明示しなければなりません。さらに名詞が主語として使われていたら、それが単数か複数かによって、述部動詞の形も変わります。(a)に対する英文は、主語のカラスが1羽の場合’A crow is perching on the withered bough.’となり、複数だったら‘Crows are perching on the withered bough.’となり、2文で対応します。私たちが英語を勉強し始めた時苦労した文法の一つです。一方(b)と(c)に対する英文は、主語のカラスが複数ですから、Seven crows are perching on the withered bough.’と1文でカバーされます。
日本語は名詞の単複に無頓着ですから、(a)においてカラスが1羽かもっといるのかはどっちでもいいことです。しかし、ひとたび数を明示する時、(b)と(c)ではどう違うでしょうか。「枯れ枝に止まっている」のがカラス7羽であるという事態は同じですが、(b)の方は「7羽のカラス」を一つの個体として前面に出し、その行為を描写しています。 つまり(b)は〈モノ〉的表現です。一方(c)は、カラスが7羽いることに焦点を当てた表現です。7羽という数に意識があります。しかし行為者カラスは個体として積極的に表に出るのではなく、枯れ枝に止まるという行為とその状況、たとえば時は秋、青空が広がっているといった状況に溶け込んだイメージです。対象を含んだ状況を描写する(c)の方が、対象の行為そのものを描写する(b)より日本語らしい表現といえます。
日本語は数には無頓着ですが、意識する場面では、数だけを前面に出し(焦点化し)、〈コト〉的表現((c))を使用します。英文はむしろ、7羽のカラスを一つの個体として状況の中から取り出し、行為者の行為を描写しています。つまり〈モノ〉的表現です。
上記「とか」表現は〈コト〉的言い方の典型です。
6.〈コト〉的表現への嗜好
ここまで書いてきたものを読み直した時気づきました。たとえば、2つの関係代名詞節の違い、例文(a)と(b)の違いを説明するとき、私は、「(a)は、(b)は」と「(a)の方は、(b)の方は」を使い分けています。2つの関係節が必ずしも認知されていないと思うとき、つまり日本語特有の関係代名詞節という概念がまだ一般的に常識的に認知されているとは言い難いという思いが「〜の方」を選択させています。はっきり言い切るのをためらう気持ちと、受け入れて欲しい、さらには相手の共感を得たいという気持ちから風呂敷に包んで提示しているということかもしれません。
〈コト〉であることの本質は、〈モノ〉的要因を全体の中に包み込んでいるということです。行為の主体も対象も行為の中に融解しているかのようで、独立性があまりなく、連続体的イメージを有しています。したがって、行為の主体もそれを受ける対象も個体として独立性があり、行為・行動する〈モノ〉的表現嗜好である英語とは異なり、日本語は名詞における単数、複数という対立がなく、数の概念が希薄ということに繋がります。「とか」のような輪郭をぼやかす効果をもつ表現はまさに日本語のこの特質と結びつくものです。
〈モノ〉的とらえ方は行為、行動の動作主や対象を個体として表に立たせます。一方〈コト〉的にとらえることは、個体を、それを取り巻く中に包み込み、全体として一つの状態を作るイメージです。〈コト〉的表現はさながら1枚の絵を呈すると言いたいのです。
言語表現の違いは事象を心理的にどう捉えるかという認知的視点の違いに帰するものす。日本語の〈コト〉嗜好の特徴を、行為の主体と客体を表に出しそれを中心として文の構成がある英語のような〈モノ〉嗜好言語と対比するとき、両者の差異は、その言語を操る人間の、外界をとらえる認知的視点の差異を踏まえて考察されなければならないでしょう。
注
* 芦野文毅.2020. 「現代日本語における助詞「とか」の多義性の分析」 『藝文研究』(Journal of Arts and Letters)Vol.119, No. 2, 14-26.
** ロバート・キャンベル.2019. 『井上陽水英訳詞集』講談社
*** 夏目漱石.『こゝろ』 漱石全集 第十二巻 (岩波書店)
近藤いね子.2018.KOKORO(英訳『こゝろ』)図書刊行会
本書は、開戦間近の昭和16年9月に刊行されたものの新装版。渡部昇一氏が「この人の英訳『こゝろ』を読んで、私はすっかりのめりこんだ。英語がいいのである。『こゝろ』の主人公の心が自分にしみこんでくるような気がしたのであった」(新装版オビ)と絶賛している。