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まず、井上陽水の「青い闇の警告」12スタンザの冒頭と、ロバート・キャンベル氏による英訳‘Warning from the Blue Darkness’を見てください(ロバート・キャンベル著 『井上陽水英訳詩集』 講談社 2019)。
星のこぼれた夜に
ロバート・キャンベル著 『井上陽水英訳詩集』 講談社 2019
窓のガラスが割れた
俺は破片を集めて
こころのように並べた
One night the stars spilled out.
A window pane cracked
so I picked up the pieces,
lined them up to look like my heart.
年初めの、風なく温かい昼下がりウオーキングに出かけた。30分も歩いたとき、上空白いものを見かけ見上げたとたん、前のめりに転んで両手、両ひざと顔を地面にぶつけた。眼鏡が壊れた。蔓のとれたフレームとレンズの破片(大きいものだけ)を集めてハンカチに包んでおいた。しばし後骨折の心配も縫う心配もなくなり、その残骸を見つめたとき、ふいに井上陽水の上記の詞が浮かんだ。正確に言うと浮かんだのは後の2行である。その時の自分の気持ちが重なり、「こころのように並べた」というくだりがわかったと思った。キャンベル氏の英訳は、最後の2行は私の心に必ずしも沿わないと思った。
説明するのは難しいのだが、英訳の方はガラスの破片を実際に取り上げて元の形になるように並べているような印象をもつ。私はといえば、破片を取り上げるのではなく元の形をこころの中で描き眺めていたというだけである。手と顔を汚させられた破片を取り上げようとする考えはまったくなく、そんなことをしたらまた怪我するかもしれないと思った。長年愛用してきた眼鏡の雄姿が、フレームがとても高価だったこともあって、惜しいことをしたという思いとともに、脳裏に浮かんだのである。「こころのように並べる」とは「自分のこころに重ねる」といった意味で、ばらばらの破片をつなぎ合わせて完全な形にするといった行為には言及しないものであろうかと思う。
(余談だが、キャンベル氏の翻訳書の中で、陽水が「ガラスの破片」は「現代人」に言及すると語っている部分があり、タイトルと詩全体の意図を、キャンベル氏の英訳で認識した次第である。)
2
もう一つ、井上陽水の詞「傘がない」について、ロバート・キャンベル氏が作詞者と交わした対話を取り上げる(『前掲書』 pp. 52-53)。‘I’ve Got No Umbrella’ではなく、’No Umbrella’としてほしいという作詩者の気持ちを汲み取れますか。
わたしはこの「傘がない」について陽水さんとこんなやり取りをしました。
『前掲書』 pp. 52-53
RC 井上さんの一人称というか「俺」というのは、二人称で「君」に向けて歌っている歌の中や相手に語りかける歌の中に、自分というか、「俺はこうだ」というのがいちばん強く出る気がするんです。「傘がない」もそうですよね。「僕」とか「俺」とか一人称は全然登場しませんが、「君のまちにいかなくちゃ 雨にぬれ」というのがある。
陽水 自分で歌っていていちばん感情移入しやすい感じっていうのは、「傘がない」で言えば、「君に逢いたいんだ。逢いたいんだ」という切なさよりも、そういう具体的は恋焦がれてということではなくて、もうちょっと「いや、人間として生まれるとこうなの?」という、そういう大きな感じのほうが感情移入しやすいですよね。
私はこの「傘がない」のタイトルを、’I’ve Got No Umbrella’と訳したのですが、これも陽水さんに「それは違う」と言われました。
「いいですか、傘は象徴なのです。『俺』の傘ではなく、人間、人類の『傘』なのです。傘は平和や優しさだったりする。だからタイトルは’No Umbrella’でお願いします」
‘I’だらけになった私の英訳には、余白がありません。‘I’を抜くことで、「傘」は平和になり優しさにもなれる。とすると、つめたい今日の雨とは、何なんだろう。期限は書かれていないけれど、「この雨が降っている最中」、つまり止む前に行かなくちゃ、とあるがなぜそうなのか。
しばしば指摘されるが、川端康成の『雪国』の冒頭の文の主語はどこにあるのか。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
The train came out of the long tunnel into the snow country.
サイデンステッカー氏の英訳にはthe trainと明示されている。原文は第3文に初めて「信号所に汽車が止まった」と「汽車」が出てくるが、私たちは初めから汽車、しかも自分の乗っている汽車であることがわかっている。汽車に乗ってトンネルを抜け、雪国が目の前にはっと広がったという風景を描く。動いているのは自分なのである。漱石の『坊っちゃん』も「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。」で始まる冒頭だが、行為の主体者、当然語り手の本人なのだが、(主語としての)一人称は全く出てこない。
3
金子みすゞの詩「お堀のそば」とその英訳を声に出してみてください。
お堀のそば By the Ditch
(詩 金子みすゞ/訳・英詩朗読D.P.ダッチャー 『金子みすゞ童謡集Something Nice サムシングナイス』JULA出版局1999)
お堀のそばで逢うたけど、 Saw her by the ditch.
知らぬかおして水みてた。 She kept looking at the water.
きのう、けんかしたけれど、 Yesterday we fought.
きょうはなんだかなつかしい。 Today I miss her.
にっと笑ってみたけれど、 Flashed a smile.
知らぬ顔して水みてた。 She kept looking at the water.
笑った顔はやめられず、 Couldn’t stop smiling.
つッと、なみだも、止められず、 Now I can’t keep from crying
私はたったとかけ出した、 Lickety-split, run away,
小石が縞になるほどに。 Make the stones turn into stripes.
声に出すと、原詩の方はリズミカルで心地よいが、音声が翻訳で零れ落ちるのは仕方のないことだとしよう。お堀のそばで喧嘩した相手は誰なのか。みすゞの詩は、幼い子ども同士の喧嘩と思わせるだけである。男の子同士でも、女の子同士でも、異性の相手でもいいのだ。読み手である自分の、その時の「そういう相手」に重ねて読む。一方、英訳の方は相手を女の子と決めている。そうなると、昨日喧嘩して今日は仲直りしたいと思っているという気持ちは、原詩とは微妙に変わってくるように思われる。行為者である「わたし」が英訳では、’we’を含めると3回明示されている。一方、原詩では最後にやっと顔を出しているのである。逆に、ここの英訳では主語が明示的にされず、かえって「わたし」が強調されることになろうか。
原詩にあるのは、あの人と喧嘩したが仲直りをしたいといった「わたしの」意図的・積極的な気持ちというよりも、パントマイムのようにあれこれやってみせそれとなく気持ちを伝える、わかってもらいたいという感情であり、相手に求めているのもことばやしぐさではなく、共感だけであろう。
4
韻文の最後に、松尾芭蕉の有名な句を持ち出してみる。
古池やかはず飛び込む水の音
この英訳はかなりある。これまでも議論の対象になってきたことだが、「かはず(蛙)」は一匹なのか、何匹かいるのか。私たち日本人は誰も「一匹」と解釈しているのではないか。おそらく「数(すう)」のことは考えていない。「だって一匹なんでしょう」とか「なぜって、一匹としか考えられない」といった応答がかえってくる。一方、英訳は‘A frog,’ ‘frogs,’ ‘frog’の間でまちまちである。なぜ複数なのか尋ねたことがある。そのアメリカ人の応答は「何匹もポッチャン、ポッチャンと飛び込んだ方が賑やかな雰囲気になる」というものだった。単数か複数かの違いはfrogの形を変えるだけでなく、使用する動詞も変えるのであるから(A frog jumps. Frogs jump.)、解釈の折彼らの脳裏には「数の意識」がしっかりとあるのである。
彼らの見ているものは私たち日本人の見ているものと違うとまではいかないまでも、ズレがあることは確かである。つまり、彼らが、蛙が飛び込むさまを、水しぶきを含めて見ているのに対し、私たちは、蛙が古池に飛び込む景色ではなく、飛び込んだ後の古色蒼然とした池とそこにある空や空気までも描いているのである。
5
日本語で書かれた小説や随筆が、過去のことを語っているのに現在形で描写されていることに気がついたことがありますか。下記は『日日是好日』(森下典子著)というエッセイの中の、お茶のお手前の描写である。一連の動作があるときは過去形で、ある時は現在形で書かれているが、続く英訳はことごとく過去形で書かれている。原文で時制の交替をさせる要因は何か、話し手が過去と現在の間を行ったり来たりするのはどんな心理状態なのか。日本人の事象の捉え方が、英語話者のそれとは違うことに、漠然とでも行き当たりはしませんか。
先生は、内側が金色と銀色の茶碗を二つ重ねて手に落ち、すくっと真っ直ぐ立ち上がり、歩いた。畳の上をスリ足でものやわらかに歩く。その白足袋をみていると、舞台に進み出る能役者の足の運びに似ていた。
(『日日是好日』pp. 77-78. 新潮文庫 2018)
みんなが見つめる中、先生はゆっくり一息ついてからお点前を始めた。「こぼし」を進め、お茶碗を前に置き、ふだん私たちに指図するのと同じ動作を、一つ一つ運んでいく。
濃茶入れを包んだ美しい錦の布袋を膝の前において、結ばれた紐をそっと解く。
先生の手は、台所仕事で荒れた主婦の手だったけれど、その指の動きはなめらかで、一本一本が生きもののように見えた。袋の口をくつろげ、左右の肩をはだけさせ、だいじそうにそっと茶入れを取り出す。まるで人間の服を脱がせるようだった。
Carrying two stacked tea bowls, one coated with gold on the inside and the other with silver, Sensei stood up straight and tall, then began to walk. Her feet slid softly over the tatami mats, never leaving the surface. As I watched her white split-toe tabi socks, I was reminded of a Noh actor’s gait as they step across the stage.
(エレナ・ゴールドスミス訳Every Day a Good Day pp. 57-58. 出版文化産業振興財団 2019)
With everyone gazing on wordlessly, Sensei slowly took a breath before beginning her o-temae. She moved the kensui forward, placed the tea bowl in front of her, and carried out all the same movements that she usually directed us to perform. She placed a beautiful brocade bag holding the chaire―the ceramic container for thick tea―before her knees, and delicately untied the knotted cord.
Although Sensei’s hands were as chapped from cooking and cleaning as any other housewife’s, her fingers moved smoothly, each digit seemingly guided by its own instinct. She loosened the mouth of the bag, exposed the shoulders of the chaire―right, left―and carefully took it out, handling the container with infinite care, It was as though she were undressing someone.
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英訳のある詩歌と文章は日本語の特徴を垣間見させてくれる。母語として日常的に使いこなしている日本語は、日本人の認知行為の現れであるという視点に立って日本語を考えてみようと思う。「認知」とは、人が外界にあるものを心理的にどうとらえるかということである。ことばの使用は、それによって思考を形成するにしても、コミュニケーションを図るにしても、使い手の認知という深層のレベルと関連している。母語使用の表れがその人の認知的視点に帰せられると考え、母語の日本語以外に、長年の英語教師として辛うじて理解できる英語と、ときに比べながら、諸現象の奥に潜む日本語の特徴を明るみにしていこうとする試みである。豊かな日本語の使い手であっても、なかなか気づきにくいレベルだが、一緒に発見していきましょう。そして日本人のこころの現れとして見えてくる日本語の特徴が、一つの方向に収斂されはしないか探ってみたいのです。
認知的視点を切り口に日本語を観察・考察することが、より豊かなことばによるコミュニケーション行為に資すると信じてこの講座を進めていきます。お付き合いください。