国立国語研究所名誉所員
甲斐睦朗
1.はじめに
全国紙に上掲図書『ルポ 誰が国語力を殺すのか』の衝撃的な広告が掲載されていたので、急いで取り寄せた。その衝撃的な広告は、図書の帯にも再掲されている次の表現である。
〈「ごんぎつね」で「母の死体を煮ている」と誤読する小学生たち〉
この内容は、本書の序章「『ごんぎつね』の読めない小学生たち」で詳述されている。都内のある公立小学校(校長は国語科上がり)で講演を依頼された本書の著者の石井光太さんが4年生の国語の授業を見た。教材は新美南吉の「ごんぎつね」で、兵十の母親の葬式の場面から一つの課題を与えられて班学習の形で取り組んでいた。その段落の本文は、次の通りである。
こんなことを考えながらやって来ますと、いつのまにか、表に赤い井戸のある兵十のうちの前へ来ました。その小さなこわれかけた家の中には、おおぜいの人が集まっていました。よそ行きの着物を着て、こしに手ぬぐいをさげたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました。
(引用は、光村図書『国語四下 はばたき』による)
この課題についての著者の見解を「序章」から4文だけ引用する。
新美南吉は、ごんが見た光景なので「何か」という表現をしたのだ。葬儀で村の女性たちが正装をして力を合わせて大きな鍋で何かを煮ていると書かれていることから、常識的に読めば、参列者にふるまう食事を用意している場面だと想像できるはずだ。
(10ページ)
教員もそう考えて、生徒たちを班にわけて、「鍋で何を煮ているのか」などを話し合わせた。ところが、生徒たちは冒頭のように「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と回答したのである。
「序章」によると、八つに分かれた班の五つの班までが「死体を煮る」と答えていたという。著者が、校長室で、この問題について尋ねたところ、校長は「最近は多かれ少なかれあのような意見が出るのは普通です。教員もそれをわかっているので、先ほどの授業でも班になって話し合わせたのでしょう。」と答えたという。この校長の他人事のような発言は無責任な暴言と言わざるをえない。
著者は、この「ごんぎつね」の誤読を4年生の国語力の低下の実例として本書に「序章」を立てて問題視している。それだけでなく、この誤読を、都内の公立小・中・高等学校の読解力の低さに結び付け、さらに全国の公立小・中・高等学校の読解力の低さにまで広げてとらえているようである。
私は、著者のこの問題提起は間違っていると考える。問うべきは、この授業の学習指導案における「鍋で何を煮ているのか」という課題の設定自体であって、「ごんぎつね」の教材の理解に、あるいは読解力の育成の上でこの課題は何も貢献できていないのである。
一体、この時の授業者は「ごんぎつね」の学習指導案をどのように組み立てているのであろうか。そして、1時間をかけて検討する「鍋で何を煮ているのか」という課題がこの教材の学習にどう関係すると考えているのであろうか。また、校長は事前にこの学習指導案を見ていないのであろうか。私は、以前(といっても20年ほど昔であるが)、都内の小学校の国語科の授業を十数校参観したが、校長自ら学習指導案に積極的に加わる学校が多かったのである。
著者が、「死体を煮ている」という解答に驚愕しつつ、小学生の国語力の低下の問題を引き出していることは間違っている。繰り返すが、おかしいのは、その教師の学習指導案であり、それに責任を持たない校長である。私は、以前〈「ごんぎつね」の全授業記録〉を複数回試み、「ごんぎつね」の授業に何十回も立ち会っているが、「鍋で何を煮ているのか」については一度も見聞きしていない。
著者への希望としては、国語科の授業に何度も立ち会って、小学生の読解の実態について、確認してほしいということである。
以上のような(字句を少しだけ修正したり説明を加えたりしているが、大意は変わらない)一文をフェイスブックに掲げたところ、ひつじ書房社主の松本功氏から、書評で取り上げてほしいという要望があった。私は、この書評は生産的でないということでお断りを続けたが、結局松本功氏の、国語教育についての厳しい積み重ねの蓄積を伝える必要があるという説得に従って執筆することにした。したがって、本稿は、「書評」と言いながら、本書の著者石井光太氏の偏見あるいは思い込みを指摘し、実際はどうであるかを提示することになる。なお、石井光太氏の著書は何冊か購入して読んでみたが、この書評では氏の得意とする国内外の個々の事例を取り上げる側面は取り上げていない。
2.本書の構成
本書『ルポ誰が国語力を殺すのか』の目次から大項目としての章立てを紹介しておきたい。序章、終章を別に八章構成である。
- 序章 『ごんぎつね』の読めない小学生たち
- 第一章 誰が殺されているのか―格差と国語力
- 第二章 学校が殺したのか―教育崩壊
- 第三章 ネットが悪いのか―SNS言語の侵略
- 第四章 一九万人の不登校児を救え―フリースクールでの再生
- 第五章 ゲーム世界から子供を奪還する―ネット依存からの脱却
- 第六章 非行少年の心に色彩を与える―少年院の言語回復プログラム
- 第七章 小学校はいかに子供を救うのか―国語力育成の最前線1
- 第八章 中学校はいかに子供を救うのか―国語力育成の最前線2
- 終章 コロナ後の格差と感情労働
この構成について、「序章」末尾の段落に説明がある。かいつまんで紹介すると、まず、本書の意図について著者は「子供たちの国語力は本当に失われているのか。/だとしたら一体、誰が、何が、なぜ、国語力を殺したのか。/子どもたちの国語力を回復させるには、どのような取り組みが必要なのか。」と述べた上で、一~三章では「国語力が脆弱になっている実態」を検証し、四~六章では「どん底からの国語力再生の取り組み」に光を当て、七~八章では「日本の国語力育成の最先端教育について考える」と述べている。
3.国語科教育についての著者の偏見あるいは思い込み
本書『ルポ誰が国語力を殺すのか』に一貫して主張されている著者の考えは、順不同になるが、次の10項目に整理できそうである。
- 都内あるいは関東地域では、また、地方でも、家庭に恵まれ、学校にも恵まれた私立学校に学ぶ児童・生徒だけが国語力を育成できている。例えば日本女子大学附属中学校・高等学校である。
- 都内あるいは関東地域の公立学校に学ぶ児童・生徒は、「ごんぎつね」の誤読で明白なように国語力の育成に十分でないところがある。
- 地方の公立学校の児童・生徒は残念ながら都内の公立学校よりも劣ることになる。そのせいなのか、本書には公立小・中学校についてのまとまった言及がほとんどない。
- 地方でも例えば広島なぎさ公園小学校のように優れた成果を上げている小学校がある。
- PISAの読解力の低下はいわゆる「ゆとり教育」の結果である。
- 国語力の低下によって、落ちこぼれが増加している。教員へのアンケートでも国語力の低下は否定できない。
- 「ゆとり教育」は全教科とも、学習すべき事項から三割ほどを削除した学習の意味である。
- ゆとり教育によって、国語教科書が「スカスカになった印象」がある。
- 家庭格差の上層で生きる子供たちは、私立の小中学校へ行くか、公立で国語力のカーストの上位にいるかしてそれを伸ばしていくことになる。
- 家庭格差の下層にいる子供たちは国語力を身につけられず、そのまま成長すれば、中高生ぐらいの年齢から、言葉をうまく使えないことで様々な壁にぶつかることになる。
これらの項目は、例えば、5と6、7と8、9と10とがそれぞれ一組になるといった面でいえば、項目を減らして、5項目ほどにまとめることもできそうである。著者が、これほど教育格差の上位にいる児童・生徒に注目するのは、逆の、置いて行かれた児童・生徒への何とか救済したい思いが熱く燃えているからであろう。しかし、学校教育、中でも国語科の教育に対する偏見あるいは思い込みは指摘しなければならないのである。
4.「序章」を改めて検討する
『ルポ 誰が国語力を殺すのか』の「序章」は、著者の意図が明確に表されている章である。「序章」は、〈「ごんぎつね」の読めない小学生たち〉〈「読解力低下」をめぐる議論〉〈国語力とは何か〉の3節構成である。順に検討してみよう。
(1)『ごんぎつね』の読めない小学生たち
私がフェイスブックに掲げた本書の問題点について、何人もの方々から肯定的なコメントを頂いた。その中で、奈良の中学校に勤めている学部時の教え子から、子供たちの可愛らしさを称揚するコメントが寄せられている。参観者がいる授業なので先生の意図にそった解答を返したい、先生を助けたいという子供たちの愛らしい気持ちが伝わってくるというのである。
一般に教育関係者などの授業の観察をする参観者に見せる授業では、「ごんぎつね」でいえば、全体で何時間を充ててどういう目標の学習指導案を作成するか、本時はその何時間目でその学習目標は何で、どういう展開にするかなどの指導計画が用意される。授業の設計を参観者に示すということである。ところが、著者石井光太氏が参観した授業では、そういう教材「ごんぎつね」についての学習指導案が紹介されていない。前時にどういう学習が行われたのかも明記されていない。授業の観察のための参観でなかったとしたら、どういう前提で授業を参観したのであろうか。
いたずらばかりして兵十を困らせてきた小ぎつねの「ごん」が、兵十の母親の死を知って衝撃を受け反省に至るきっかけの場面である。この教師は、フェイスブックで指摘したように、「大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました。」の「何か」について1時間を充てて班ごとに考えさせている。この課題の学習では、「ごんぎつね」の読みの学習に何も得ることがない。ここは、江戸時代の知多半島の貧しい集落における葬式について教師が説明すればすむところである。なお、教材「ごんぎつね」は、全国の四年生が学習するように国語教科書に教材化されている。それゆえ、授業の実践記録も毎年数多く報告されている。この教材だけを取り上げた研究書も何冊か出版されている。私は、子供たちがコミック版を含めて高田郁の『出世花』を読んでいたのではないかと思ったりした。主人公は亡くなった人の湯灌をする寺で育ち、湯灌を手伝うようになった少女である。しかし、教材「ごんぎつね」の理解とはまったくかかわりのない話であった。
(2)「読解力低下」をめぐる議論
著者は、都内の公立小学校の子供たちが「ごんぎつね」の一場面を誤読したのは読解力が育っていないからだと述べ、そこからPISAの読解力の低下の問題を引き出している。しかし、ここで、留意すべきは、「ごんぎつね」の誤読とPISAの読解力の低下は直接結びつくものではない。教材「ごんぎつね」について仮に10時間かけてじっくり読み解きを重ねたとしても、PISAの読解力の育成にほとんどかかわらないのである。ここで、PISAの読解力について簡単に見ておきたい。
第1回目の「PISAの読解力」(いわゆるPISA型読解力)の調査問題を見たとき、関係者の多くは、そういう読解力育成の指導をしてこなかったことに気づいた。つまり、国語科で人間形成に結び付けて育てようと努めてきた「読解=読み解く」は、PISAが調査しようとする「読解力」と重なりが少なかった。いわゆる「PISA型読解力」は、文科省では「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力。」と定義されている。特に後半の「書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」に注目したい。
このPISAの読解力は、OECD(経済協力開発機構)が加盟国を含む70か国を超える15歳(日本は高校1年生)を対象としたリテラシー調査で、数学的リテラシー、科学的リテラシー、そして、読解力の三つの分野の調査を行っている。最初の数学分野、科学分野の調査がいずれも上位であったのに、読解力の調査は良くて8位であったが、15位にまで落ちている。その原因として、次の3点が取り上げられている。第一は、調査の問題用紙の原文を日本語に翻訳する際に、こなれた分かりやすい日本語の表現にできないという問題である。翻訳を行う場合、言語面で有利にならないようにするために、翻訳された訳文をそのまま原文に直せるかが問題にされる。結局、回りくどい直訳文になっていて生徒にとって読みにくいのである。
第二は、文学教材の読みの授業では人物の気持ちを深く掘り下げたり、主題を追究したりする表現読みに時間をかける。非文学的な文章であっても、筆者の考えを追究するような授業が好まれる。しかし、PISAの読解力の調査では例えば天気予報の記事を添えられたグラフを参考に正確に読むといった設問が多い。日本の国語の教科書の説明文教材にも図表や写真などが豊富に掲載されているが、それらと本文のかかわりをとらえるような指導はほとんど行われてこなかったのである。
第三は、ある事象についての意見や感想を述べる設問で、賛成か反対かを問わないが、とにかく自分の意見あるいは感想を書くことが要求される設問である。日本の子供たちは恥の文化を受け継いでいるからか、よほど自信がある場合を除いて無記入のままで提出してしまう。実は順位を下げているのは、この無記入のままの提出なのである。これは例えばアメリカに留学したアジアの留学生の中で、日本人留学生だけが初めの半年ほどは一言も口にしない、しかし、自信がついたら他国の留学生より上手に英語をあやつるようになることと同様である。
文科省は、このPISAの読解力の調査問題とこれまで学習指導要領で育成してきた国語の学力を比較検討し、伝統文化の継承発展の面はさておき、「PASA型読解力」として問われる言語能力が実社会に求められている能力であることを踏まえて、学習指導要領の改訂の作業を押し進める一方、小学校6年生と中学3年生を対象とした全国学力調査の実施を打ち出した。全国学力調査実施の目的は、国語科で育成が期待される言語能力の調査であり、そこから国語の授業の改善・改革を行おうとすることでもある。以上、著者がPISAの読解力についてあれこれ資料を掲げつつ慨嘆しているが、著者自身もまだ理解できていないように考えられる。なお、全国学力調査では、毎回都道府県別の順位を発表している。秋田県、福井県の2県が成績一位、二位を競い合っている。
(3)国語力とは何か
書名にも使用している「国語力」という用語は本書の最重要語としてとらえられよう。著者は、この「国語力」というキーワードを幾度も駆使して教育界の現状を判断しようとしている。その「国語力」であるが、著者は、「序章」の三節「国語力とは何か」で〈文科省の定義によれば、国語力とは「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の四つの中核からなる能力としている。〉(22ページ)と紹介した上で、この「国語力」を既知の、あるいは周知の用語として自在に駆使している。例えば、〈今回、本書を執筆するにあたって、取材や講演で会った全国の教員約一二〇名に、子供たちの国語力が不足していると思うかどうかを尋ねてみた。〉と述べる。そして、〈前もって断っておくが、本書でいう国語力は狭義の読解力と違って、想像力や情緒力なども含んだ感覚的なものである〉というように「国語力」の意味を確認した上で、〈質問をしたのは、小学校から高校までの教員であり、学校のレベルは国公私立の底辺校から進学校まで様々だ〉と注釈をつけた上で、〈低下している=五割、低下しているかどうかは不明だが、不足している=三割、上がっている=一割〉などという割合を提示している。(32ページ)
私は、上に引用した「学校のレベルは国公私立の底辺校から進学校まで様々だ」ととらえる著者の学校観、ひいては人間観に同意できない。著者は、優秀な児童生徒が集う私立学校あるいは進学校だけが望ましくて、都内の、あるいは関東地区の公立小・中・高等学校の多くは、数多くの問題を抱えた児童・生徒が混在しているから、紹介するに値しないと考えているようである。また、関東地区以外の地方の公立学校に関しては取り上げる価値を見出さないからか、ほとんど記載がない。
ここで、地方は軽視できないぞという意味で、博報堂児童教育財団の事業についてふれておきたい。これは全国の小・中学校で優れた国語教育、日本語教育、特別支援教育、独創性と先駆性を備えた教育活動、国際文化、多文化・共生教育などで優れた教育実践に取り組んできた学校及び個人を表彰する。すでに52回を重ねている。その冊子を見ると、地域の伝統文化を大切にした教育活動など素晴らしい学校が表彰されている。読書指導に30年の小学校もある。先取りして申し訳ないが、著者が絶賛する広島のなぎさ公園小学校の取り組みなど及びもつかない篤い教育実践を見ることができる。
ところで、上の引用本文の中で、著者は〈本書でいう国語力は狭義の読解力と違って〉云々と説明しているが、「狭義の読解力」は、どういう能力を意味しているのであろうか。「狭義の読解力」が「PISAの読解力」を指すのか、かつて雑誌名にもなった「解釈と鑑賞」を指すのか、理解しがたい。
さて、著者が頻用する「底辺」や「問題児」などについての差別的な見方については、教育に携わってきたこの「書評」の執筆者にとっては許しがたいものであるが、この書評が「国語力」にかかわる内容であるということでここでは取り上げないことにする。ただ、文科省の印刷物が児童・生徒に向上してもらおうという教育的配慮にあふれているのに対して、本書は「家庭教育の下層にいる子供」とか「課題集中校」などの用語で明らかなように決めつけが多いことだけは記しておきたい。
上の引用で最も気になる問題は、書名にもこの節の見出しにも掲げられている「(想像力や情緒力などを含んだ)国語力」が一体、いつ・どこで考えられ、教育界にどのように浸透できているかという問題である。というのは、著者は、教育界ではすでに浸透している周知の用語のように考えて、多くの教員に質問しているからである。「国語力」に近い用語に「国語の力」及び「国語能力」という用語がある。『国語の力』は大正11(1922)年に垣内松三氏が刊行して教育界に大きな影響を与えた図書名である。いわゆるリテラシーの訳語と言えよう。「国語能力」は終戦後、輿水実氏の何冊もの著書の中で用いられている。これは四領域の言語活動の能力を表していた。しかし、想像力や思考力や情緒力などを含めた「国語力」という用語は、次に紹介するように学校教育だけを対象とするのでなく、生涯学習を目的として考案された新しい用語なのである。
私の手元に平成16(2006)年2月3日の日付のある『これからの時代に求められる国語力について』(文部審議会答申)がある。A4判42ページの冊子で、文部科学大臣の諮問に応じて審議した答申が掲載されている。この諮問及び答申に「国語力」という新しい用語が用いられている。そこで、この答申以降、「国語力」という用語が確立したということができよう。ただし、この「国語力」は、すでに指摘したように、国民一人一人が生涯を通して育てていく能力であって、決して学校教育だけに焦点を当てた用語ではない。まず、このことを抑えておきたい。つまり、学校教育に直接かかわる『学習指導要領』、これも幼稚園から高等学校まで系統的に考案されているが、そこに「国語力」という用語が重要なキーワードとして使われているわけではない。
繰り返すと、平成14年に文部科学大臣から「これからの時代に求められる国語力について」の諮問があり、文化審議会を通して国語分科会が2年間審議を積み重ねて答申案を作成した。
上記の「答申」には、A3判の用紙でやっと掲載できた綿密な構造図「これからの時代に求められる国語力の構造」が参考として提示されている。本書の23ページには図1として大幅に簡略化した構造図を掲載しているが、「表す力」」が欠けている。
なお、このことはどこにも明記されているわけではないが、この「文部科学大臣の諮問」及び「文化審議会の答申」の背後には、本書でも『祖国とは国語』(新潮文庫)の一節を引用しているが、その著者の藤原正彦氏がいた。文化審議会委員であった藤原正彦氏は『祖国とは国語』の中で各教科の重要性を「一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下」(34ページ)と述べて、国語学習の重要性を強調している。また、伝統的な言語文化の学習で習得される「高次の情緒力」の必要性を強調した。例を挙げると「もののあはれ」など日本人の心情の中核をつくる情緒力である。
『学習指導要領』は、国語科の学習活動を、話すこと・聞くこと、書くこと、読むことの領域に分けで、幼稚園から高等学校まで系統的に能力の発達を図る項目を記載している。教育漢字や常用漢字の学習についても細やかな配慮を掲げている。
著者の石井光太氏は、そうした『学習指導要領』やそれも基づいて編集された国語教科書について、本書を出版する上で目を通したのかどうなのか、「黙して語らぬ」態度を貫いている。気になるのは、第一章「学校が殺したのか」の第四節の「驟雨のように降り注ぐ新しい指導」という見出しである。これはある中学校の国語教員の発言だそうであるが、「驟雨のように」は著者の表現である。その中学校の国語教員がどういう考え・立場の教員であるか知らないが、教員に自分たちの指導が正道をすすんでいるのに、文科省から余計なことを言われて迷惑を受けているといった感じの発言である。
5.著者が絶賛する私立小・中学校
第七章「小学校はいかに子供を救うのか」は広島市内に創設されて20年を迎える「なぎさ公園小学校」の取り組みを「国語力育成の最前線1」として取り上げている。全4節は「本物の体験を通して感受性を育てる」「授業を創意工夫する」「学校として『成長』を評価する」「『思考ツール』の活用」という見出しになっている。著者はこの学校を取材して強い感銘を受けたと絶賛している。
第七章に「近年は公立校でも」(258ページ)、「公立でも」(268ページ)、「実は一部の公立小学校でも」(276ページ)、「そう考えれば、公立であっても」(280ページ)といった言辞で公立小学校でも幾らかの試みが見られるということに言及している。ところが、著者は公立小ではできない取り組みとして、社会科におけるディベートの取り組みを紹介している(269ページ以下)。この戦国武将を話題にしたディベートはいかにも面白そうであるが、著者は、こうした学習が公立小学校の社会科や理科などの教科で行われていないと思っているのであろうか。
平成19年(2007年)に文科省小中局教育課程課は「言語能力育成協力者会議」を開催して7回の検討の上で報告書『言語力の育成について』をまとめた。これは、小学校に設けられた英語の授業時数の確保に端を発し、同じ言語教育ではあるが、国語科から時数を割くことを検討した結果、PISAの読解力の育成に対処する上からも、全教科、全学校活動が、〈自ら見出した課題を調査し、結果を整理した上で、口頭で発表し、質問を受けるようにする〉ということになった。それを受けて、社会科でいえば上記協力者会議の委員岩田一彦氏(兵庫教育大学教授)編著『小学校社会科 学習課題の提案と指導の設計―習得・活用・探究型指導の展開』(明治図書 2009年)が出版された。これらの実践を踏まえた提案があって全国の小学校の社会科の授業はスピーチやディベートなどに力を入れて言語力育成に努めるようになったのである。
次に、第八章「中学校はいかに子供を救うのか」は「国語力育成の最前線2」という副題を伴って、前半は日本女子大学附属中学校・高等学校を取材した内容、後半は国際バカロレア認定校の開智日本橋学園中学校・高等学校を紹介している。前半部の日本女子大学附属中学校の二年生は一学期をかけて文庫本『アンネの日記』を読みこむという。一学期はどういう学習をしたのか、では一年生は何をどうしたのかという説明はなく、二年生の『アンネの日記』の学習だけが紹介されている。おそらく、国語教科書3年間分は一年生の段階、あるいは二年生の一学期までで一通りの学習を終えているということであろう。書かれていないことは皆目理解できないのである。
次に、七年前に開校した開智日本橋中学校は「哲学対話」に力を入れているという。哲学対話の説明が続いている。
実は、東京及び関東圏は、国立、公立、私立が競い合っている。筆者は都立両国高等学校附属中学校の開校に外部委員としてシェークスピア作品の新訳に力を入れていた松岡和子氏などと加わった。その翌年、外部委員等を招いて公開授業が催されたが、教材「走れメロス」の問題点を英語でディベートするという二年生にとってまことに高質の授業が披瀝された。松岡和子氏と顔を見合わせて、驚きを確認し合ったのであった。こういう事例は特例とすべきである。
6.まとめ
さて、著者は、本書の終章で広島のなぎさ公園小学校の優れた取り組みに触れ「なぎさ小学校など私立校の取り組みは、公立校にとっても大きなヒントとなるはずだ」と断言する。そして、序章で紹介した都内の公立小学校の「教員から『鍋で何を煮ているのか』と問われ、クラスの半分以上が平然と『母親の死体を煮ている』と答えている授業とはまったく異なる」(325ページ)と公立小学校のひどい事例を再び挙げて、私立こそ国語力の育成に力を入れていると主張するのである。
この「書評」で、第一章から第六章までの内容についてはほとんど取り上げることができていない。しかし、気になる事項がいくつかある。その中で、第二章「学校が殺したのか」でとりあげている「ゆとり教育」の実施に伴う国語教科書の問題について間違いを正しておきたい。
二〇〇二年、ゆとり教育がはじまり、新しい教科書が配布された。当時四十代だった国語科の女性教員は、初めて教科書を開いた時の当惑を次のように述べる。「はっきり言って、教科書がスカスカになった印象でした。」云々
(82ページ)
この女性教員の口を通して語られる「スカスカになった印象」はおそらくその女性教員の記憶違いではないかと思われる。それにしても、ルポルタージュの場合、当の教科書がどのように「スカスカになった印象」を与えたのかの確認は必要ないのであろうか。当の女性教員がどこの出版社の中学校国語教科書についての印象を語ったのか不明であるが、あまりにずさんすぎる紹介である。これは余分なことだが、この教員の主張する「三時間も四時間もかけて、行間を読み、登場人物の気持ちを想像し、背景を考え、意見をまとめていく。そうすることで、総合的な国語力が身につくんです。」はまさしく戦後の国語科教育で取り組んできた文学教育の実態であって、文化審議会の答申の「国語力」の対極におかれるとらえ方なのである。
実は各教科の三割削減についてであるが、教科には「算数・数学」や「理科」や「社会科」のように領域や分野が明確に分かれていて、学習事項がいわばレンガを下から順に積み重ねていくような教科がある。そういう積み重ね型の教科の場合、何らかの領域や分野の削除が必要になる。もし、削除が困難な場合は、円周率3.14を大まかに3とするような配慮を加える必要がある。それに対して、国語科は、教育漢字・常用漢字の学習は別として、その他の学習は、いわばらせん階段をぐるぐる回りながら上るような教科である。らせん階段も上るほどに階段の幅が広くなるように学年ごとに同じ項目を繰り返し学習しながら言語能力を円満に育てていく教科である。例えば、登場人物の気持ちの変化をとらえるといった学習事項は小学校の低学年から中学校までずっと取り上げられている。そこで、当時、小・中学校のすべての学習事項を一覧表に整理して、上記の「人物の気持ちの学習」の学年配当を四年生以下では削るというような扱いで「3割削減」という全教科足並みそろえる扱いに対応したのである。言語事項でいえば、「この」という指示語が何を指すのかという項目は大切であるが、すべての学年に記載する必要がない。途中を消去するといった扱いをすることで三割削減に対処したのである。「教科書がスカスカになった印象」を語る教員は、おそらく文学教材や説明文教材などといった教材自体の削減を念頭に置いた発言のようである。繰り返すと、国語科の授業時数の減少に応じるために、教材数(単元数)を削減するのでなく、各単元の学習事項を精選することで配当時数を削減することにした。その結果、教材数は削らず、教科書のページ数もほとんど変わらない結果になった。逆に文科省からは3割削減したのだから教科書のページ数が減ったはずだ、定価も3割引きにするという要求があって唖然としたことを記憶している。
『ルポ 誰が国語力を殺すのか』
石井光太著
定価1600円+税
四六判 336頁
ISBN978-4-16-391575-3
文藝春秋