1.はじめに[1]
和菓子のなかでも庶民的で老若男女を問わず、人気が高いお菓子[2]に今川焼きがある。今川焼きは、主に小麦粉からなる生地に餡を入れ、金属製の焼き型で焼いた和菓子である。餡(あん)好きの日本人には大変好評で、低価格なのもよく売れている理由の一つである。
さて、この菓子には、全国各地で多くの呼び名(=方言)がある。食べ物にも方言があるものがけっこうあるが、この菓子の呼び名の数は非常に多い。ネット上でも、各地の呼び名が紹介され、歴史や地域差を含め、様々な角度から取り沙汰されている。
今川焼きの呼び方は、種類が多く、少なく見積もっても全国で100種類以上は優にある。どの呼び方が最も広く用いられているのか、また、その理由は何かについてみていきたい。さらに主な呼び方についていくつか取り上げ、これまでに行った調査データをもとに解説する。
2.「今川焼き」の発祥
この菓子は、江戸時代中期の安永年間(1772年~1780年)に東京神田の今川橋付近で売り出されていたようである。今川橋にちなんで今川焼きと呼ばれるようになったという
記述は、最も早くは『言海』にあり、このあとさらに『大言海』で詳しい説明がなされている。また、安永6年(1777)刊の『富貴地座位』(ふきじざい)に「今川焼き那須屋弥平 本所」とあり、本所(現在の墨田区の南半分の地域をこう呼んだ)にあった那須屋が今川焼きを販売していたことがわかっている。この今川焼きこそがこの菓子のルーツであり、これが全国に広がったものと思われる。想像の域を出ないが、江戸から全国各地へと広がっていったとみられる。今川焼きという呼び方は、全国共通語の地位にあり、もちろん全国各地で使用されているが、これとは別にさまざまな呼び方が各地で行われ、全国的に100種類をこえるほどの異名をもつ。これらはいずれも今川焼きの方言と呼べるものであるが、全国の分布状況をこれまで調査で収集した資料を地図化して示しつつ、主だった呼び名(方言)についてその分布と成立事情について触れてみたい。
3.どの呼び名が最も多く用いられているか? ―大学生全国アンケート調査―
今川焼きを全国共通語とみなすことに異論を唱える人がいないではない。というのは、全国的に今川焼きを使用する地域が最も広いかといえばどうやらそうではないからである。ネット上ではすでにいくつか調査した結果[3]が報告されているが、使用地域もさることながら使用率の上でも今川焼きがトップではなく、どの調査も大判焼きを第1位として報告している。少しデータは古くなるが、2009年-2012年にかけて全国の大学生を対象にアンケート調査を行った。今川焼きの写真を見てもらい、これをどう呼ぶかについて問うた。都道府県単位で回答者数にはバラツキがあるが、全国で約1800名の回答を得ることがができた。調査結果を回答ごとに分けて地図化し、示すことにする。図1は、回答者数がもっとも多かった「今川焼き」と「大判焼き」の結果を地図化したものである。
両方とも全国各地で使用されているのが確認できるが、明らかに大判焼きが今川焼きよりも優勢であることがわかる。今川焼きは早くから全国で広く知られており、全国共通語的位置にあることは先に述べたとおりである。一方、大判焼きがなぜこれほどまでに全国に広がったかだが、実は非常に興味深いエピソードがある。愛媛県松山市にある菓子を製造する機械メーカーの松山丸三という会社が昭和30年初めにこの菓子を製造する(焼く)器具を販売した[4]。昭和31年-33年に大ヒットした獅子文六の連載小説「大番」(週刊『朝日』に連載、1957年に映画化、のち1962年にテレビドラマ化)にちなみ、この機械で製造した菓子を「大判焼き」(当初は「大番焼き」で売り出そうとしたが、「大判」に変えたとのこと)と名付けた。この機器だけではなく、小麦粉や餡などの原料の「大判焼の素」も一緒にして売り出したところ、大ヒットした。松山丸三のホームページの説明(注2参照)によると「大判焼の素をあわせたセットは、素人でもすぐ店が開けるということからみるみる間に、四国、中国地方から全国へと広がった」とある。祭りや盆踊り、縁日などに全国各地で販売されたのであろう。同ホームページには当時の器具の写真が掲載されているが、この器具の上や下に「大判焼」と書かれた暖簾がかけられ、器具とともにこの暖簾もセットだったことがわかる。そして露天での販売は、いつもこの暖簾が掲げられていたに違いない。あとで述べる他の呼び方についても一般的に言えることだが、この菓子を販売しているところではほぼ例外がないくらい、この名称を暖簾やのぼりなどに記し、掲示している。各地で呼び名が異なるため、「回転焼き」であったり「おやき」であったり「あじまん」であったり「七越焼き」といった名称を店のそばを通る通行人の目のつきやすいところに掲げるのである。実はこの暖簾やのぼりに記載された名称が、各地でこの呼び名が定着する大きな要因の一つとなっている。例えば「回転焼き」と呼ばれてきた地域に「御座候」の暖簾を掲げた店が新しく現れると、客だけではなく地元の人々からも次第に「御座候」と呼ばれるようになるのである。「大判焼き」の呼び方が全国に広がった理由はここにある[5]。
兵庫県姫路市には「御座候」の本店があるが、店をオープンした昭和25年当初、「回転焼き」という名称を店自体は考えていたが、暖簾やのぼりに社名の「御座候」を掲げたところ、地元の人々からはいつの間にか「御座候」と呼ばれるようになったという。この「御座候」は現在、大きく成長し、全国で100をこえる店舗を展開させている。この結果、各地で「御座候」の呼び名が増えつつある。30年ほど前までは、姫路市周辺の呼び名だと思われていたが、いまや兵庫県のみならず、大阪の若年層の多くも「回転焼き」よりもむしろ「御座候」と呼ぶ者が多くなっている。これは大阪府下各地に多くの店舗ができたためである。この結果、大阪では中高年層では依然として「回転焼き」と呼ぶ者が多いが、若年層との間で世代差が生じている。図2が「回転焼き」、図3が「御座候」の分布である。「回転焼き」は大阪府のほか、高知県、さらには九州西部に広く分布している。
興味深いのは「御座候」の店舗が首都圏にも進出している点である。関東地方では「今川焼き」の呼び名が定着しているが、しかしこの進出を機に、「御座候」の呼び名もこれから徐々に関東地方で定着する可能性が大きいと思われる。
この大学生アンケート調査では関東地方での「御座候」の回答が1例のみだったが、これ以後に行われたJネットタウンの調査結果[6]では使用率はさほど多くはないものの、関東地方での「御座候」は着実に見え始めている。
「御座候」は先述のとおり、昭和25年のスタートだが、大阪を発祥とする「回転焼き」はこれらよりも早く、『日本語国語大辞典 第二版』によると、織田作之助の小説『六白金星』(昭和21年刊)に現れたのを文献初出例だとしている。大阪府茨木市で「回転焼き」を販売している福原商店の現在の店主によると、昭和7年(1932年)創業時当初から一貫して「回転焼き」として販売してきたとのことである。このことから戦前から「回転焼き」という呼び名があったことがわかる。前田勇(1965)『上方語源辞典』には「回転焼き」は「巴焼き」の新名とある。これらの呼び名は、上方落語の、4代目桂米團治作の『代書』(代書屋とも呼ばれることがある。1939年初演)の中に登場する。この演目は、米團治本人のほか、直弟子である3代目桂米朝、その弟子である2代目桂枝雀、さらに米朝の息子である5代目桂米團治らによって演じられてきた。米朝と枝雀では「回転焼き」は共通するが、枝雀の『代書』ではさらに「巴焼き」のほか、「太鼓焼き」「太鼓饅頭」「今川焼き」まで登場する。「太鼓饅頭」は、『饅頭こわい』(上方落語ではこれも4代目桂米團治が最初に演じた)にも「巴堂の太鼓饅頭」として現れる。
「巴焼き」と「太鼓饅頭」の新古ははっきりしないが、明治19年に刊行された『東京京阪言語違(とうけいかみがたことばのちがい)』(1886)には「東京で唐饅頭、京阪で太鼓饅頭」とされており、「太鼓饅頭」が明治時代前半にすでに上方にあったようである。
図4は「今川焼き」「大判焼き」「回転焼き」「御座候」以外の呼び名を地図化したものである。北から分布を概観すると、北海道を中心に青森や岩手で「おやき」、山形で「あじまん」など、まとまった分布が窺える。富山の「七越」、近畿・山陰・四国で「太鼓焼き」「太鼓饅頭」、九州では、福岡などで「回転饅頭」、大分、宮崎、長崎、鹿児島などで「ほうらく饅頭」などの回答があった。ただし、この全国調査の結果はすでに触れたように、2009年から2012年にかけ、当時の大学生に対して行ったものである。また、近畿地方では呼び名の世代差が激しく、またその変遷がみられた点については先に述べたとおりである。
4.地方毎の呼び名の分布―中高年層を対象に―
そこで、以下では、60歳代以上の、各地生え抜きの中高年層を対象にした調査結果を示すことにしたい。調査時期はいずれも2010年-2018年にかけてである。ただし、地方単位で調査を実施したが全国すべての地方を網羅したわけではく、(1)日本の中央部、(2)近畿地方、(3)中国地方、(4)四国地方のみである。
図5は、日本の中央部で行った調査(通信調査による)結果である。全域に「大判焼き(大判)」が広がっている。関東地方から広がったとみられる「今川焼き」が山梨、長野、静岡の各県にまとまって分布している。ただし、これら3県では「今川焼き」だけではなく、それ以外の呼び名も多く、いろいろな呼び名と併用している地点も多い。大学生調査では現れなかった呼び名も多く、この地方では30種をこえる呼び名が回答された。
図6は、近畿地方で行った調査(通信調査)の結果である。回答者についての諸条件は図5とほぼ同様であるが、図6の場合は山間部や沿岸部など、調査依頼ができない地域が比較的多かったため、実際に現地に赴き、留置調査を実施した。
図6で興味をひくのは、大学生調査で大阪や京都で回答が多かった「大判焼き」がほとんどみられないこと、同様に大阪や兵庫で回答が多かった「御座候」も特に大阪や神戸では多くない点である。「大判焼き」が少ない理由は「回転焼き」が根強いため、「大判焼き」が入り込む余地がなかったからだとみられる。「御座候」は現在、若年層を中心に京阪神地方で分布を急速に拡大させているものの、老年層には定着していないことがわかる。
近畿地方での呼び方は37種類である。先の列島中央部でみられた呼び名とおなじものも多々あるが、両方併せて、50種類以上は確認できる。
戦前の上方での呼び名であった「巴焼き」は和歌山の紀中地方に、「太鼓饅頭」「太鼓焼き」も和歌山県紀中地方や兵庫県淡路島、さらには大阪周辺に分布している。
図7は、中国地方で行った通信調査の結果である。調査方法や回答者の条件は図5・図6と同様である。呼び名は33あり、図5・図6と同じものも多い。大学生調査の結果(図1~図4)と比較すると、いくつかの差異が明らかとなった。たとえば、図7では「大判焼き」が山陰地方に多く、山陽地方では岡山で「夫婦饅頭(ふうふまん・ふうまんを含む)」、広島で「二重焼き」、山口で「回転焼き」がそれぞれまとまって分布している。一方、大学生調査では中国地方全域に「大判焼き」が広がりつつあること、山陽側では広島の「二重焼き」が勢力拡大し、岡山まで分布を広げたため、「夫婦饅頭(ふうふまん・ふうまんを含む)」がほとんど聞かれなくなったことが指摘できるであろう。
図8は、四国地方の調査結果である。調査法は、この場合も、前三者とほぼ同様である。呼び名は23種類、他地方の呼び名と共通するものが多い。香川・徳島が「大判焼き」であるのに対し、愛媛・高知が「太鼓饅(たいこまん)」である。一方、徳島や高知に「太鼓焼き」がある。
「大判焼き」は、先述したように、松山市の菓子機械メーカー「松山丸三」の初代社長が昭和30年代前半、命名した呼び名であるが、当時、松山では「太鼓饅(たいこまん)」と呼ばれていたことが同社のホームページに記載されている。
5.おわりに
この菓子の呼び方が各地で定着した背景には、新しく店を出した時に新たな呼び名をつけたケースがあるほか、客が店の屋号を呼び名として採用したケースがあるなど、さまざまである。例えば、「たこ焼き」「お好み焼き」「鯛焼き」には方言が少ないのに対し、この菓子にはこれまでみたように多くの呼び名があるのも興味深い。
「大判焼き」を例にみたように、暖簾やのぼりなどに書かれた商品名のインパクトは大きい。この菓子を焼いてもらうのを待っている時間、どうしてもこの暖簾やのぼりに目がいく。そして、この結果、新しい呼び方が定着するという現象が各地で起きてきたのだろう。一時代前までは「御座候」は姫路およびその周辺の呼び方だったが、現在は大阪をはじめ、各地のデパ地下に進出し、「御座候」の文字を目にすることが増えたため、大阪の若者の呼び方として定着するようになっている。
全国各地で多様な呼び方があるが、衰退するものばかりではなく、最近になって新たに登場した呼び方もある。
今後、この方言とも呼べる多種多様な呼び方が今後どうなっていくか、見守っていきたい。
[1] 本稿は今回新たに稿を起こしたものである(2022年6月17日成稿、公開6月29日)が、これまでにテレビ・ラジオ・新聞・雑誌をはじめ、ネット上の各種情報サイトから「今川焼き」の多くの呼び名、さらにはその呼び名が生じるに至った経緯や分布について取材をうけた内容をまとめたものである。一方、同時にこれらの各種メディアから多岐にわたり、ご教示を賜った。
ここに記して、感謝申し上げるとともにすでに公開された記事のほか、ご教示頂いて、調査した内容をここに掲載させて頂いたことを断っておきたい。
図5~図8については、GISソフトのメーカーであるESRIが毎年行っているマップギャラリーに「今川焼き」の地図についてポスター発表したものを使用。(「教えて!あなたの地域の“○○焼き”」(塩川奈々美、塚本章宏、服部 恒太、林琳 、岸江信介 第 13 回 GISコミュニティフォーラム ESRI マップギャラリー2017 https://www.esrij.com/news/details/99130/)
[2] 2021年に放送されたNHKの連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』にも、ドラマの展開に重要な食べ物として回転焼きの名称で登場した。ネットでも、呼び方についての話題が出た。
[3]ネット上でアンケートによる調査がいくつか確認できる。
(1)https://j-town.net/2014/08/15190292.html?p=all(最終閲覧日:2022.3.30)
(2)https://kansai-joshiana.com/blog-entry-8880.html(最終閲覧日:2022.3.30)
(3)https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2017-08-10-13-07(最終閲覧日:2022.3.30)
[4] 以下、ホームページにエピソードの詳細が述べられている。
http://www.m-marusan.co.jp/company/outline.html(最終閲覧日:2022.6.13)
[5] たこ焼きやお好み焼きという名称が広がったのも、「大判焼き」と同様に露天商が暖簾やのぼりを掲げて全国各地の盆踊りや祭り、縁日の折に売ったことが大きいと思われる。
[6] 注3のhttps://j-town.net/2014/08/15190292.html?p=all(最終閲覧日:2022.3.30)に同じ。
参考文献:
岡田 哲(2013)『たべもの起源事典 日本編』筑摩書房.
土屋信一(2009)『江戸・東京語研究―共通語への道』勉誠出版.
中山圭子(2006)『事典 和菓子の世界』岩波書店.