お詫び
皆様、大変期間があいてしまい、大変申し訳ございません。お詫び申し上げます。ゼミ生からも「次回の分はまだ出ないのですか?」と結構前に詰められました。この数ヶ月身辺慌ただしく、納得がいくものを書き上げられないまま新型コロナにも罹患してしまい、ここまできてしまいました。ようやく、第3回をお送りできる状態になりました。お付き合いくだされば幸いです。最終回、第4回も急ピッチで進めております。
なお、今回から読み始めるという方は、まず第1・2回をお読みくださってから第3回を読んでいただくとありがたく思います。もちろん、それぞれ独立しておりますので、第3回をお読みになってから、第1・2回に戻ることもできます。
ひつじ書房ウェブマガジン「未草」(「現代の国語」と「言語文化」の問題点 | 未草 (hituzi.co.jp))
さて、今回は、いよいよ本連載のメインの一つである「現代の国語」を取り上げます。この原稿を書き進めている間も、さまざまな媒体で、それぞれの立場から新学習指導要領の国語について指摘があり、また議論されているようです。しかし、やはり選択科目である「論理国語」と「文学国語」をテーマにするものが多く、この4月から始まる「現代の国語」と「言語文化」に焦点を当てるものは少ないように思われます。ただ、ある教科書会社が「現代の国語」の教科書に小説を掲載しました。これは大きな話題となり、同時に批判も出ましたので、紹介したいと思います。
小説を掲載し物議を醸した「現代の国語」の問題点
まず、新聞記事を紹介します。
・毎日新聞
批判やまぬ「現代の国語」小説掲載 「多様性」損なう危険性も | 毎日新聞 (mainichi.jp)
・産経新聞
高校新科目「現代の国語」教科書 小説の扱い「厳正審査」審議会が見解 – 産経ニュース (sankei.com)
これらの記事の内容を整理すると、以下のようになります。
- 本来、「現代の国語」の教科書には、小説を含む文学的文章を掲載してはいけないと文部科学省が再三述べていた
- それにもかかわらず、小説を掲載した教科書を、文部科学省は、検定「合格」とした
つまり、文部科学省は、小説を掲載してはいけないというルールを破った教科書を自ら合格させ、教科書として使用できるようにしたのです。そのため、ルールを遵守していた教科書会社から不満が噴出し、教科書会社が加入している(一社)教科書協会が、文部科学省になぜルール違反の教科書を合格としたのか見解を求めるところにまで発展しました。
・文部科学省HP「令和2年度高等学校「現代の国語」に関する教科書検定に係る経緯」(令和2年度高等学校「現代の国語」に関する教科書検定に係る経緯:文部科学省 (mext.go.jp))
このことは、「現代の国語」には、取り扱う文章ジャンルに制限が設けられているという問題に着地するものですので、もう少し掘り下げたいと思います。先を急ぎたい方は、結論にお移りください。
まず、小説の取り扱いに関する事実確認から入りましょう。
「現代の国語」で小説を取り扱ってはいけないということは、「現代の国語」の〔読むこと〕の言語活動例を解説した文部科学省(2019b)の記述から窺えます。
ア 論理的な文章や実用的な文章を読み,その内容や形式について,引用や要約などをしながら論述したり批評したりする活動。
論理的な文章や実用的な文章を読み,その内容や形式について,引用や要約などをしながら論述したり批評したりする活動を示している。
ここでの論理的な文章とは,現代の社会生活に必要とされる,説明文,論説文や解説文,評論文,意見文や批評文などのことである。一方,実用的な文章とは,一般的には,実社会において,具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章のことであり,報道や広報の文章,案内,紹介,連絡,依頼などの文章や手紙のほか,会議や裁判などの記録,報告書,説明書,企画書,提案書などの実務的な文章,法令文,キャッチフレーズ,宣伝の文章などがある。また,インターネット上の様々な文章や電子メールの多くも,実務的な文章の一種と考えることができる。論理的な文章も実用的な文章も,小説,物語,詩,短歌,俳句などの文学的な文章を除いた文章である。
(文部科学省2019b:101-102、下線部は筆者による。)
「現代の国語」では、「小説,物語,詩,短歌,俳句などの文学的な文章を除いた文章」を取り上げることが明記されています。そして同様の記述は、〔書くこと〕の言語活動例でも示されています。
ア 論理的な文章や実用的な文章を読み,本文や資料を引用しながら,自分の意見や考えを論述する活動。
論理的な文章や実用的な文章の本文や資料を引用しながら,自分の意見や考えを論述する活動を示している。
ここでの論理的な文章とは,現代の社会生活に必要とされる,説明文,論説文や解説文,評論文,意見文や批評文などのことである。一方,実用的な文章とは,一般的には,実社会において,具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章のことであり,新聞や広報誌など報道や広報の文章,案内,紹介,連絡,依頼などの文章や手紙のほか,会議や裁判などの記録,報告書,説明書,企画書,提案書などの実務的な文章,法令文,キャッチフレーズ,宣伝の文章などがある。また,インターネット上の様々な文章や電子メールの多くも,実務的な文章の一種と考えることができる。論理的な文章も実用的な文章も,小説,物語,詩,短歌,俳句などの文学的な文章を除いた文章である。
(文部科学省2019b:96-97、下線部は筆者による。)
このように、〔書くこと〕においても「論理的な文章や実用的な文章」を用いることが示されており、〔読むこと〕だけに「論理的な文章や実用的な文章」を用いるよう述べているわけではありません。なお、残りの〔話すこと・聞くこと〕の言語活動例では、「論理的な文章や実用的な文章」や「文学的な文章」という語句は用いられていません。
また、「現代の国語」において、「文学的な文章」の活用が想定されていないことは新学習指導要領に対応していることを謳った日本国語教育学会[監修](2018)や、大滝一登・髙木展郎[編著](2018)の中でも記述されています。以上のことから、小説を含む文学的な文章は、「現代の国語」では取り扱わないことが、教科書会社間でも共有されていたと考えられます。
ところで、現在の教科書には、生徒の手元に届く前に、文部科学省による検定があります。細かな誤字脱字から、文意の明瞭さ等、目を皿にしてチェックされていることがわかるほど、厳しいものです。このチェックで出された意見を検定意見といいますが、検定意見がついた箇所は、修正が求められ、再度チェックの末、合格して初めて世に出すことができます。つまり、文部科学省のお墨付きがない教科書は、世に出ないのです。
しかし、話題になった小説を掲載した教科書は、検定意見はついたものの、小説自体の掲載は認められる形で決着しました。つまり、検定に合格したということです。このことについて、教科書検定を担当した教科用図書検定調査審議会第一部会国語小委員会が、次のように述べています。下線部を中心にお読みください。
令和2年度高等学校「現代の国語」の教科書検定において、「高等学校「現代の国語」に関する教科書検定の考え方について(検討依頼)」(以下単に「検討依頼」という。)に記載された図書の審査が行われた際には、小説を取り上げた箇所について「学習指導要領に示す内容の取扱いに照らして、扱いが不適切である。(内容の取扱い(4)のイ「「B書くこと」及び「C読むこと」のそれぞれの(2)に掲げる言語活動が十分行われるよう教材を選定すること。」)」との検定意見を付した。当該検定意見を踏まえ、教科書発行者から提出された修正表においては、教材自体が変更されるのではなく、各小説教材の最後に学習活動として設定された「学習の手引き」「活動の手引き」の内容が修正された。
今般の学習指導要領改訂の趣旨を踏まえれば、高等学校「現代の国語」の教材としてこのような形で小説が盛り込まれることは本来想定されていないところであるが、「現代の国語」の教科書として文学作品を掲載することが一切禁じられている訳ではないことから、本小委員会としては、学習指導要領に照らして直ちに欠陥であるとは判断せず、当該図書について合格と判定したものである。
(文部科学省HP「高等学校「現代の国語」に関する教科書検定の考え方について」、下線部は筆者による。)
「不適切」であるのに、「直ちに欠陥であるとは判断せず」に、「合格と判定」したということです。〔書くこと〕及び〔読むこと〕において、文学的な文章を排除することが明記されているのにもかかわらず、合格としており、非常に苦しい言い訳に聞こえますね。さらに苦しい、次のような記述もあります。
【前略】こうした経緯も踏まえて、今後、同様の事態を招くことのないよう、高等学校「現代の国語」の教科書の検定においては、小説教材を扱うことについて、学習指導要領の趣旨に照らし、より一層厳正な審査を行うこととする。
なお、当該発行者からは、小説教材に関する訂正申請がなされ、本小委員会としては、この訂正は教科用図書検定規則第14条第2項の規定に照らし妥当なものであり、これを承認することが適当であるとしたところである。
(文部科学省HP「高等学校「現代の国語」に関する教科書検定の考え方について」、下線部は筆者による。)
この「より一層厳格な審査」というのは、文部科学省初等中等教育局教科書課が連絡した次の留意事項を合わせて考えるとよいでしょう。
1 学習指導要領上、「読むこと」の教材として小説等の文学的な文章を取り扱うことはできないこと。
2 「読むこと」以外の領域の教材として小説等の文学的な文章を取り扱う場合であっても、〔知識及び技能〕の指導事項との関連を図りつつ、当該領域の指導事項を身に付けさせるためにどのような言語活動を設定することが適当か、という観点から、当該領域に関する指導の配当時間も考慮して、当該教材の適切な取扱い方を検討する必要があること。
3 上記2の適切な取扱いについて、あくまで設定した言語活動を行うために必要な範囲で当該教材を読むことが想定され得るものであり、当該教材を読む活動が中心となるような取扱いは不適切であること。
4 なお、もとより小説等の文学的な文章を取り扱うことが想定されている「言語文化」において、「読むこと」の近代以降の文章に関する指導に20単位時間程度を配当することとされていること。
(文部科学省HP「高等学校「現代の国語」における指導上の留意事項について」、下線部は筆者による。)
しかも、この留意事項には、次のような補足的な記述もあります。
なお、今般の学習指導要領改訂の趣旨を踏まえれば、実社会における国語による諸活動に必要な資質・能力を育成する科目である「現代の国語」の教材として、小説等の文学的な文章を取り扱うことは基本的に想定されないものであることに変わりはなく、下記の留意事項は、「現代の国語」において「読むこと」以外の領域であれば小説等の文学的な文章を取り扱うことも広く許容されるとの趣旨で示しているものではありませんので、誤解なきようお願いします。
(文部科学省HP「高等学校「現代の国語」における指導上の留意事項について」、下線部は筆者による。)
色々な議論の中では、〔読むこと〕以外の資質・能力の育成のために小説を活用できるという意見もありますし、実際、小説を掲載した教科書会社は、〔書くこと〕の資質・能力の育成のために用いると設定しています。私も以前から同様に考えていたのですが、この記述からは、何としてでも、「現代の国語」では文学的な文章を取り扱わせないぞ、という強い意志が感じられます。なぜそこまで固執するのかは、「言語文化」で扱うから以上の理由は読み取れないのですが、文部科学省がそのような方針であるということだけは明確です。しかし、本来は、文学的な文章を扱うかどうかという観点を重視するのではなく、どのような資質・能力を高めていくかが重要であり、それにふさわしい授業展開をどのように計画していくかを考えるべきだと思います。すなわち、〔話すこと・聞くこと〕の資質・能力は小説を通じては育成できない、ということはないと思います。実際、物語を通じて〔話すこと・聞くこと〕を取り上げるものとして、岡本明人(1996)『ディベートで「ごんぎつね」を教える』(明治図書)という書籍もあります。ディベートのルールを学ばせ、「ごんぎつね」をテーマとして議論する力を育成することが可能であることを示しています。
ではここで、「現代の国語」が抱える問題の発端を考えてみましょう。それは、文部科学省が自身で設定したルールに反する教科書に合格を出したことにあります。教科書会社を責める向きもありますが、不合格にすればよかっただけの話です。実際、小説を掲載した教科書会社は、4種類の「現代の国語」の教科書を出していますが、小説を掲載した教科書は、1種類だけなのです。したがって、その1種類が不合格になったからといって、残りの教科書が合格すれば、一時の話題にこそなれ、問題は生じなかったはずです。
その意味で、小説を掲載した教科書の問題の根源は、教科書会社の問題というよりも、まず、それに合格を出した文部科学省の判断にあると言えるでしょう。
改めて、「現代の国語」の目標
さて、今回は、タイトルにもあるとおり、「じっくり」と「現代の国語」について考えていきましょう。とはいえ、例によって長くなってしまいましたので、まず結論を先に述べます。お急ぎの方はまずここだけお読みいただければと思います。もちろん、興味がおありのところから読み進めていただいて構いません。
ただ、議論に入る前の大前提として「現代の国語」の目標については、確認しておいてもらいたいと思います。文部科学省(2019a:33)は、「現代の国語」を通して育成したい資質・能力の目標を次のように記しています。
言葉による見方・考え方を働かせ、言語活動を通して、国語で的確に理解し効果的に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
(1) 実社会に必要な国語の知識や技能を身に付けるようにする。
(2) 論理的に考える力や深く共感したり豊かに想像したりする力を伸ばし、他者との関わりの中で伝え合う力を高め、自分への思いや考えを広げたり深めたりすることができるようにする。
(3) 言葉がもつ価値への認識を深めるとともに、生涯にわたって読書に親しみ自己を向上させ、我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち、言葉を通して他者や社会に関わろうとする態度を養う。
(文部科学省2019a:33)
(1)にみえる「実社会」という用語については後述しますが、ここでは、この目標を達成するために、〔知識及び技能〕及び〔思考力、判断力、表現力等〕の内容が設定されている、ということを確認してほしいと思います。では、お忙しい方のために結論を先に述べます。
結論―〔話すこと・聞くこと〕の資質・能力の育成が不十分ではないか―
私は、「現代の国語」が抱える問題点を、文部科学省(2019a;2019b)にみられる記述と、実際の教科書の紙面構成及び教科書会社の編纂趣意書等の記述から、次のように考えます。キーワードは、実社会における〔話すこと・聞くこと〕の取り扱いです。
(3)「現代の国語」は、国語の資質・能力(〔知識及び技能〕、〔思考力、判断力、表現力等〕)を、満遍なく総合的に育成するための科目であることが目指されているのに、実際は、そうなっていない。
(4)特に「現代の国語」で重要だと考えられる〔話すこと・聞くこと〕の資質・能力を育成する視点が弱い。具体的には、問題解決のための直接的な議論を行う言語技術ばかりが課題として取り扱われているが、実社会においては、人間関係を構築するための「対話」の技術も必要である。
(5)なぜなら、実社会では、ベストの課題解決策が選択されない場面が、多々あるからである。例えば、実社会では、お互いが少しずつ得をする、また損をする、という選択がなされることがある。これは、実社会においては、常に最大の利益を求めるのではなく、その後得られる可能性のある利益を含めて考える必要があるからである。
(6)その意味で、直接問題解決を図る議論の前に、良好な(少なくとも誤解のない)人間関係を構築する言語技術を学習することが大切で、それにより無用な争いを避けることもできることができるのではないか。
つまり、「現代の国語」は、高等学校国語の必履修科目として唯一の〔話すこと・聞くこと〕、〔書くこと〕、〔読むこと〕という、すべての資質・能力を取り扱う総合的な科目であるのにもかかわらず、取り扱い方のバランスが悪いということです。特に、〔話すこと・聞くこと〕の資質・能力については、授業時数こそ〔書くこと〕に次いで多く設定されているにもかかわらず、直接的に問題解決を目指す教材に偏っているように思います。しかし、私は、人間関係を構築するための〔話すこと・聞くこと〕の言語技術の学習も必要ではないかと考えています。
実社会では、直接的な議論の場のみで課題解決の結論が得られるのではなく、それ以前の人間関係をもって課題解決が図られることがあります。それは、その時点では、最善の解決策ではないかもしれませんが、長い目でみた時、最善策だったことになるようなものです。
第1回で述べました予測できない時代が到来するSociety5.0 の時代には、人間がやれることが何かを考えていくことが大切です。そうであれば、AIでは導けないことを、私たちは考えていく必要があるでしょう。その意味で、人間関係の構築は、その最たるものではないでしょうか。
では、どのようにすれば誤解のない形で自分の意見を相手に伝えることができるのでしょうか。良好な関係を築きやすい人や、相手から反感をもたれない話し方・聞き方ができる人はどのような人でしょうか。ここには、〔話すこと・聞くこと〕のスキルが隠されているといえるでしょう。
このような言語技術を学習する場は、至るところでマナー講座が開催されている現実からみても、極めて重要ではないでしょうか。いわば、大人として対話する技術の学習です。
ところで、後述しますように、そもそも、中教審第197号では、〔話すこと・聞くこと〕の資質・能力の育成が課題だとして、新学習指導要領の方向性が定められました。その意味で、〔話すこと・聞くこと〕の資質・能力の育成に十分な授業時数をとり、学習機会を確保することは、ごく自然の流れだと思います。
しかし、実際は、〔話すこと・聞くこと〕は、「現代の国語」以外では「国語表現」でしか授業時数が設定されていません。しかも、「国語表現」は、大学入試を考えると、「論理国語」「文学国語」「古典探究」と比べて、選択されない可能性がより高い選択科目です。だとすると、「現代の国語」において、〔話すこと・聞くこと〕の資質・能力を総合的に育成しておく必要があります。その意味で、「現代の国語」は、〔話すこと・聞くこと〕のために設定された科目であると考えていかなければならないでしょう。しかし、現実には、「現代の国語」において中心的に議論されているのは、〔読むこと〕の授業時数の少なさや教科書への小説掲載の可否のように思います。
いかがでしょうか。「現代の国語」でどのような〔話すこと・聞くこと〕の資質・能力を育成するか、じっくり考えたことはございますでしょうか。
実社会において、常にその時に最高の課題解決策が出るとは限りません。様々な方向に議論が行ったり来たりしながら、コンセンサス(合意)を得たり、また、保留や物別れに終わったりするものです。そのような場合に対応する〔話すこと・きくこと〕の資質・能力を育成していくことが、「現代の国語」では必要だと考えます。
皆さんは、いかがお考えでしょうか。問題の解決策を示したわけではありませんが、少しでも新しい視点を得ることができたのでしたらありがたく思います。蛇足ですが、ここの部分は、実は2月22日以前に書き終えていました(その後、身辺慌ただしくなり原稿が提出できずにおりました。申し訳ございません)。しかしそれ以降、ロシアとウクライナが戦争状態に突入し、現在も心を痛める状況が日々刻々と伝えられています。日本がそのような状態にならないようにするために、一体何ができるのか、お考えいただけると幸いです。
それでは以下、「現代の国語」の内容を深めていきます。今回の結論とは関係のないところも確認していますので、時間に余裕のある方はお付き合いください。