今回は、読点の打ち方について考えていきたいと思います。句読点の打ち方にはルールが存在することは、連載の第一回で説明しました。この「一応の」ルールである『くぎり符号の使い方』では、読点は「文の中止」と「副詞的語句の前後に打つ」という二つの原則がある、とまとめられています。
しかし、実際に日本語母語話者をはじめとする日本語使用者は、このルールどおりに読点を打っているわけではありません。私自身、大学院時代から句読点の研究をしていますが、指導教員に読点の打ち方を度々直されていました。とはいえ、全ての修正に同意するわけではなく、私には私なりの考えがあり、読点を打っていました。このような経験から、読点の打ち方には個々人が持つ、なんらかの規範があるのではないかと考えました。この連載を読んでくださっているみなさんから見ても、私の文章の読点の打ち方が自分の読点の打ち方とは違うと思われるかもしれません。その点はご容赦いただけたらと思います。ただ、ほかの人が書いた文章が自分の読点の打ち方と違うとはいっても、すごく読みにくい、ということはあまりないはずです。このことは、一人ひとりが持つ読点の打ち方の規範には、共通するものがあることを意味します。
そこで、今回は、この共通する読点の規範意識を探っていきたいと思います。日本語の読点がどのような意識のもとで打たれるのか、これまでの事典の基準をもとに分類してみていきます。
六つの意識から打たれる読点
『日本語文章・文体・表現事典』という事典に、どういう意識から句読点が使用されるのかという記述があります。そのなかで、読点については次のようにまとめられています。
一方、読点は書き手によって、打つ場所にかなりばらつきがある。1意味、2長さ、3構造、4表記、5音調、6リズムなどの要因が複雑に絡みあって打たれるものであり、どの要因をどの程度重視するかによって、打ち方が違ってくるからである。
(p.302)
今回は、この事典に書かれている六つの観点をもとに、考えていきたいと思います。
意味によって打たれる読点
意味によって打たれる読点は、言い換えれば、読点がないと意味が二つに分かれてしまう文(両義文)になることを避けるために打たれる読点です。たとえば、以下のようなものがあります(例文は『日本語文章・文体・表現事典』より引用しました)。
- 太郎はイライラして電話をかけてきた次郎を怒鳴った。
この例では、「イライラした人」が「太郎」なのか「次郎」なのかがわかりません。「イライラした人=太郎」なら「太郎はイライラして、電話をかけてきた次郎を怒鳴った。」のように「イライラして」の直後に読点を打ちます。また、「イライラした人=次郎」なら「太郎は、イライラして電話をかけてきた次郎を怒鳴った。」のように「太郎は」の直後に読点を打つとその意味が明確になります。ただ、この文、そもそも曖昧な文であることはいなめません。なお、語順などを変えるだけでも文の両義性は解消ができます(あまりいい文ではないですが…)。
- 電話をかけてきた二郎に太郎はイライラして怒鳴った。
- イライラして電話をかけてきた二郎に太郎は怒鳴った。
長さによって打たれる読点
長さによって打たれる読点の「長さ」というのは当然、「文の長さ」のことです。文が短いと読点は打たれにくく、反対に文が長いと読点が打たれやすくなります。たとえば、以下の例のように一文が短いと、読点を打たなくてもいいと判断する人がいます。
- 私は今日の晩ごはんに悩んでいる。
- 私は、今日の晩ごはんに悩んでいる。
(人によって読点の許容度が異なる)
また、次の例のように文が長くなれば、読点を打ったほうが見やすいと考える人が一定数存在しています。この考えを持つ人は読点をよく打つタイプの人に多く見られます。
- 私は、昨日の晩ごはんに、何を作るか悩んでいたのだが、帰り道で友人と会って、食事することになったので、結局晩ごはんを作らずに済んだ。
また、長い主語の後に読点を打ったり、長い名詞句を並列したりするとき、つまり、名詞にたくさんの修飾語がついているときに読点を打つという人もいます。
- 今日の晩ごはんに何を作るか悩んでいた私は、あてもなく池袋の街をさまよっていた。
- 当てもなくさまよっていたら、同じく晩ごはん難民になっていた佐治さんと、仕事帰りの井上さんに出くわしたので、一緒に食べることになった。
一般的に文の長さが長くなるほど、文節が増え、読点を打つことができる確率は上がります。また、文が長くなれば、それだけ文の構造が複雑になりがちです。さらには、一文が長い人は、話すように書く人が多く、息つぎするときに読点を打つという考えを持っている人がいます。つまり、この長さを基準とする読点の打ち方は、次に説明する構造を明確にする読点と、最後に説明する音調やリズムによって打たれる読点と非常に密接な読点だと言えます。
構造を明確にするために打たれる読点
小学生のときに、係り受けの関係を習ったと思いますが、覚えているでしょうか。読点は、この係り受けの関係を明確にする(文の構造を明確にする)ことができます。次の例は先ほどと同じ例です。
・太郎は、イライラして電話をかけてきた次郎を怒鳴った。
「太郎は」の後に読点を打つことで、述語が遠くにあることを予告することができます。このような「は」の後に読点が打たれやすいかどうかを調べてみたところ、4文節の文では17.0%の確率で読点が打たれていましたが、9文節ある文では、37.7%の確率で読点が打たれていました。つまり、係り受けの距離が遠いほど、読点が打たれやすくなると言えそうです(岩崎2017)。
また、構造を明確にするものとして、接続詞や副詞などの直後の読点も挙げられます。基本的には、文頭の接続詞や副詞の後には読点を打つものだと考えてください。ただし、接続詞によっては、直後の読点の有無によって意味が変わってしまうので注意が必要です。たとえば、「このように」のような接続詞は、文章全体のまとめとして機能する場合と、その直前の内容を示す場合があります。このとき読点を打つと、段落のまとめとしての機能を際立たせることができます。このように、文の構造を考えて読点を打つことが大切だと言えます。
- このように、難しい話を聞かされた挙句、電車にも乗り過ごしてしまった
- このように難しい話を聞かされた挙句、電車にも乗り過ごしてしまった。
そのほかにも、副詞節の直後には読点が打たれやすいことが明らかになっています。具体的には、「〜だったら」「〜なら」「〜ば」「〜のあと」「〜するから」「〜だが」「〜だけど」「〜だし」のような表現のことです。統計的に調べてみたところ、「〜だが」「〜だけど」「〜だし」の三つは約90%の確率で読点が打たれるようです(岩崎2017)。
とはいえ、この副詞節の直後の読点も文の長さに影響されそうです。上述した三つの節は、そもそも一文が長くなる傾向にあるからです。反対に、次の例のように一文が短い場合は読点を打つか迷う人がいると思います。
- これでよければ後であげるよ。
- これでよければ、後であげるよ。
- 本当は嫌だけど様子見してくるね。
- 本当は嫌だけど、様子見してくるね。
このような副詞句を使った文は、
1)1文が長い場合(だいたい1行以上が目安です)
2)主語が主節と従属節のどちらにもある場合
といったときに読点を打つと、文の構造をより明確に示すことができて、わかりやすくなります。
また、以下の例のように、動詞の連用形を用いて文を一時中止する場合にも読点が打たれやすいです。私が調べたところでは、約80%の確率で連用中止の直後に読点が使用されていました(岩崎2017)。この場合は、読点を打つようにしたほうがよいと言えるでしょう。
- 今日の会議で問題点が明確になり、今後の方針が決まった。
- 今日の会議で問題点が明確になり今後の方針が決まった。
- 冷蔵庫の中に何も食べるものがなく、どうしていいか途方に暮れた。
- 冷蔵庫の中に何も食べるものがなくどうしていいか途方に暮れた。
(読点があった方が節の切れ目がはっきりしてわかりやすい。)
語の切れ目を明確にするために打たれる読点
先ほどから、読点を打つ位置で意味が変わるという例文を紹介していますが、そのほか例として有名なのは以下の例です。
- ここではきものをぬいでください。
井上ひさし(1981)『私家版 日本語文法』などでも出てくる有名な例文です。(そのほかにも「きょうはいしゃにいく。」や「いまいちえんがないんです。」と言ったものも有名な例文です。)これは、読点の位置によって、
- ここで、はきものをぬいでください。
- ここでは、きものをぬいでください。
というように脱ぐものが変わってしまう、というものです。これも先ほどの構造を明確にするための読点のように見えます。私は、このような例を見たときからずっと疑問に思っていたことがあります。なぜ、この例文は全部ひらがななのでしょうか。単に漢字にすればいいだけなのではないでしょうか。
- ここで履物を脱いでください。
- ここでは着物を脱いでください。
こうすると、読点を打った方がいいと思う人は減るのではないでしょうか。つまり、ここで読点が必要である理由は、文全体がひらがなで書かれているためなのです。上のような例文は実際には使われることは少ないですが、語と語のつながりにおいて、同じ文字種(ひらがな+ひらがな、漢字+漢字など)が連続する場合に読点を打つという傾向が見られます。
- ご査収のほど、よろしくお願いいたします。(ひらがな+ひらがなが連続している)
- 来週のミーティングの件、承知しました。(漢字+漢字が連続している)
音調・リズムによって打たれる読点
音調・リズムによって打たれる読点は類似したものなので、まとめて見ていきます。これらの読点は、書き手が読み手にこういう息継ぎ、間を空けて読んでほしいことを明示するために打たれる読点です。わかりやすいのは、短歌の読点です。次の例を見てください。
自然がずんずん体の中を通過する − 山、山、山
(前田夕暮『水源地帯』白日社)
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
(穂村弘『シンジケート』沖積舎)
前田夕暮の「山、山、山」を読点なしで「山山山」とした場合、読み手に浮かぶ山々の情景が変わってくるはずです。また、穂村弘の「だるいせつないこわいさみしい」のように読点がない場合、間がなく、「だるい」「せつない」「こわい」「さみしい」といった気持ちがより切迫したものとして読み手に伝わるはずです。
句読点は心理的、生理的な側面があるものだとしている研究も存在します(斎賀1958など)。ここでいう生理的というのは、息の切れ目や口調によって読点を打つというものです。また、心理的というのは、簡単に言えば、書き手の好みのことです。句読点を多く打つのが好きな人もいれば、嫌いな人もいると思います。それぞれの心理によって適度だと思う基準を持っており、それが上述してきたような論理的な読点の打ち方よりも優先してしまうというものです。
文化庁の国語分科会による国語の表記についての議事録では、息の切れ目、つまりは肺活量によって読点の打ち方が違うという指摘があります。
<国語の表記に関すること>
(国語分科会第23回議事要旨)
読点の付け方は書き手の肺活量によるところがある。肺活量の少ない人は読点をよく打つが,肺活量の多い人は余り読点を付けない。そう考えると,ルール化することは難しいだろうと思う。
話はそれますが、最近見られる「おじさん構文」には、読点が文節ごとに打たれているという指摘があります(「明日は、楽しみにしてるよ」「体調に、気をつけてね」 “おじさん構文”にはなぜ“読点”が多いのか https://bunshun.jp/articles/-/46584)。これはまさしく心理的な読点であることが伺えます。これは個人的な見解ですが、このように読点が多いメッセージを送る人は、心の中で(ときには声に出して)、文節ごとにスマホで文字入力をしており、その区切りごとに読点を打っているのではないでしょうか。それがおじさん構文を生み出しているように感じます。
読点の打たれ方はジャンルによって違う
日本語の読点がどのような意識のもとで打たれるのか、ということについて、六つの観点から考えてきました。読点が使用される理由はさまざまであることが分かったと思います。これらの観点を大きく分けた場合、「文構造志向型」と「書き手志向型」という感じに二分できそうです。
ですが、私はこれらに加えて、文章のジャンルや書かれるもの(手書き/タイプなど)といった媒体によって読点の打たれ方が違ってくると考えます。たとえば、法律書のように誤解を招く書き方や多義が生じてはいけない文書である場合、文の構造を明確にする読点が重視されるはずです。逆に、先ほど見たような詩歌や小説、ブログやTwitterなどのSNSでは、書き手の思うままに読点が打たれやすいと思います(そもそもSNSでは読点にこだわっていない人さえいると思います)。また、賞状や招待状では句読点が使われることは少なく、分かち書きが使用される傾向があります。
このように、書き手は、文構造や自身の生理・心理だけでなく、媒体によって読点の使い方が異なると言えそうです。
まとめ:読点を意識すれば、文を書く意識が変わる
いかがでしたでしょうか。今回は、規範とともに人々がどのような意識から読点を打っているのか、その傾向を例文とともに見ていきました。
日頃、読点を打ちすぎていると感じている人は、長い文を二つの文に分けたり、語順を変えたり、文構造を変えたり、試行錯誤をしてみてください。反対に、読点をあまり打たないと感じている人は、もう一度読み返してみて、読み手にとって必要な読点を打つ必要がないかを考えてみるといいでしょう。
そもそも、なんとなく読点を打っていて、自分の読点の量が多いか少ないかがわからない人も多いと思います。そのような人は、読点はただの「点」ではないということを意識してみてはいかがでしょうか。読点を打つこと/打たないことにより文の意味が変わります。その結果、読み手への伝わり方が変わってしまうことがあるからです。これからは、なぜ、そこに読点を打つのかを考えてみてはいかがでしょうか。
みなさんの読点の打ち方はどうでしょうか。もしよかったら皆さんが普段読点を打つときに気をつけていることをtwitterで #わたしのテンマルルール をつけて教えていただけたら幸いです。
参考文献
- 井上ひさし(1981)『私家版 日本語文法』新潮文庫
- 岩崎拓也(2017)「正確で自然な句読点の打ち方」石黒圭(編),山内博之(監修)『わかりやすく書ける作文シラバス 現場に役立つ日本語教育研究 3』pp.75-96くろしお出版
- 斎賀秀夫(1958)「句読法」『続日本文法講座』pp.254-275明治書院
- 文化庁「国語分科会第23回議事要旨」https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/kokugo/kokugo_23/gijiyoshi.html(2021/11/30閲覧)
- 中村明・佐久間まゆみ・髙崎みどり・十重田裕一・半沢幹一・宗像和重(編)『日本語文章・文体・表現事典(新装版)』朝倉書店