認知文法の思考法|最終回 外国語教育に別解を|町田章

はじめに

以前ある高校の英語教師をしていた時のこと。生徒の一人から「先生,なんで英語の勉強をせなあかんの?」と聞かれたことがあります。「将来,海外旅行に行くかもしれないし,仕事で英語を使わなければならないかもしれないだろ。」と僕が答えると,その生徒は「俺は海外旅行に行くつもりはないし,親父の跡を継ぐから仕事で英語を使う可能性もない。」と言い張り,僕が「お前がそのつもりでも,外国人に話しかけられたらどうするんや?」と言うと,「そんなもん,日本に来ているんだから日本語で話しかけるのが礼儀やろ。」と生徒に開き直られる始末。

実は,その当時の僕を含めて,日本人の多くはなぜ英語を勉強しなければならないのかという問いに対して明確な答えを持っていないようです。もちろん,「これからのグローバル社会では英語が必要だから」という漠然とした答えは持っているのですが,なぜグローバル社会では英語が必要なのかと問い詰めていくとほとんどの人は思考停止状態になっているようです(cf. 『英語化は愚民化』施光恒著)。世界を股にかけるビジネスパーソンならいざ知らず,ごく普通の日本人にとっては,なぜ英語を学ばなければならないのかという問いに対する答えは決して自明ではないのです。大学受験のためというのもあるでしょうが,それとて,なぜ大学受験に英語が課されるのかというさらなる問いを生み出すことになるだけです。そう考えると,先ほどの生徒の問いは思った以上に厄介な問いなのです。

本連載を始める際に,AIの発達が英語教師の職を奪う可能性があることについて触れました。英語はコミュニケーションの道具であるという漠然とした認識を多くの日本人は持っていますが,英語を学ぶ意義が外国人と簡単なコミュニケーションをとることだけにあるのであれば,近い将来,AIによる音声認識,機械翻訳,音声読み上げ等の技術の進歩に伴って英語学習の意義が失われることになるのは必然です。今回は,連載の最終回ということで,AIが変える外国語学習の意義と,それでも変わらない外国語学習の意義について認知文法の視点から考えてみたいと思います。

英語教育に起こりつつある地殻変動

日常的に英語を使わなくてはならない一定数の日本人がいることは認めますが,そのような人たちを除いた大多数の日本人は英語を使わずに日々暮らしています。もちろん,そのような大多数の英語を使わない日本人でも英語が必要な場面はあります。海外旅行に行った際や外国人観光客や在住の外国人と話さなければならない時などです。そのたびに,「学生時代にもっとちゃんと英語をやっておけばよかったな」などと思うわけですが,これらの機会が今後なくなるとしたらどうでしょう。それでも英語学習は必要でしょうか?要するに,膨大な時間と金と労力をかけて,やっとしどろもどろに英語でやり取りができるようになったにもかかわらず,日常生活では英語を使う機会がほとんどなく,やっとめぐって来た英語を使うチャンスにおいても,スマホを使えば日本語でコミュニケーションをとることができる時代になるのです。ご存じのとおり,今やスマホが一台あれば,簡単な会話なら外国人とコミュニケーションが取れる時代なのです。

現在の音声認識技術は,ほとんどの日本人英語学習者の英語リスニング能力の上をいっています。コロナ禍でオンライン授業が主体になりましたが,僕がリスニングの聞き取り課題をオンラインでやらせても,要領の良い(ずる賢い)学生はスマホのAIの音声認識ソフトを使って課題を提出してきます。しかも,ほとんどの場合,まじめに自力でやった学生よりもスマホのほうが正しく音声を認識できています。これは学生の誠実さの問題以上に大きな問題をはらんでいます(もちろん,不正は許されませんが)。長時間努力を費やしてトレーニングしてきた大学生のリスニング力よりも無料のアプリのほうが実力が上というのが問題なのです。

機械翻訳に関しては,まだまだの感があります。実際,英語で書かれたネット上の文章を機械翻訳にかけてみると,ありえない日本語訳が頻出しますよね。それでも,道を聞くなどの簡単な会話でしたら,ほぼ問題ないレベルにまで機械翻訳は達しているのも事実です。それは,実際のコミュニケーションの現場では,言語外の文脈情報などに助けられるからです。要するに,もうすでに,街で外国人に話しかけられても「スマホがあるからへっちゃら」なレベルにあるのです。

このような現状が意味しているのは,英語学習における費用対効果(コストパフォーマンス)の関係が劇的に変わったということです。AI時代を迎えて英語学習の意義が劇的に変わったと言ってもいいでしょう。これまでは,英語を学習することにそれなりのうまみがありました。英語コミュニケーション能力を持つ人材が社会においてそれなりに必要とされてきたからです。ところが現在は,そのような能力がAIに代替されつつあります。そして,このような時代に英語学習を必修としてすべての日本人に強要することは,無料の送迎バスが用意されているにもかかわらず,目的地まで徒歩で歩いて行けと命令しているような理不尽さがあります。しかも,徒歩では辿り着ける見込みがほとんどないほど遠い目的地に。その上,やっとの思いで目的地にたどり着けた一部の優秀な人材に対しても,なんのご褒美も与えられないことになりかねない状況にあるのです。これでは,英語を努力して学ぶ意義が見えてきませんよね。

この問題は,英語をコミュニケーションの道具としてだけ捉えている限り克服できないでしょう。英語が単なる道具であるならば,AIがその道具の働きを無料で代行してくれるからです。コミュニケーション重視では,いつかは必ず,英語学習は不要という方向に向かうことになるはずです。もちろん,AIの不完全さや不正確さを衝いて反論することもできるでしょう。ただし,その場合は,学習者の英語力がAIの英語力を凌いでいることが前提となります。現場で日々大学生の英語力(誤訳や聞き間違い)に触れている経験からは,この条件は高望みと言えそうです。

外国語を学ぶ意義

実は,冒頭の僕と生徒のやり取りには続きがあります。英語を勉強する意義について,そんなやり取りが生徒と僕との間であったことを僕が職員室で話していると,先輩の英語教師がこんなことを言ったんです。「そんなもん,自分と違う言葉を話す人が世界には大勢いる。そういうことを知るだけでも英語を学ぶ意味はあんねん。それだけで十分や。」これは一見投げやりな言葉のように聞こえますが,現場で長年英語を教えてきた教師の実感がこもっているだけに重みがあります。実は,コミュニケーション重視の英語教育観ではなかなか表に出ることがありませんでしたが,多くの英語教師は日々の授業の中ですでにあることに気づいているはずです。言語をコミュニケーションの道具としてだけしか見ない言語観では,外国語教育の意義の半分しか見ていないということを。(cf. ことばを道具としてだけ捉えることの問題点は,納富信留氏が『ことばの危機』に示唆に富む論考を寄せています。)

外国語を教えたり学んだりしていると,どうしても考えてみたくなることがあります。それは,日本語と外国語の発想の違いです。例えば,「英語考える」と言いたい場合,*think with Englishとしてしまう学生がいるかもしれません。この場合,日本語の「英語で」の格助詞「で」は「ハサミで」などの表現からわかる通り「道具」を表しています。そのため,道具を表す前置詞のwithが選ばれたのでしょう。しかし実際は,think in Englishが正しく,withは用いられません。英語はコミュニケーションの道具であると日々強調している教師からしてみれば,withでも正解にしてあげたくなるところです。ところが残念なことに,英語という言語の中に埋め込まれている捉え方(construal)では,言語は「道具」ではなくむしろ「範囲」なのです。つまり,think in Englishは英語という範囲の中で考えるということを表しているのです。当然,学生はなぜwithではなくinなのかと詰め寄ってくるでしょう。まして,日々,英語はコミュニケーションのための道具だと強調している場合は,目も当てられません。英語が道具なんだったら,withを使うはずですから。そのとき教師は,日本語ではたしかに言語を道具と捉えるが,英語では言語を範囲として捉える慣習があると説明するしかありません。これは,前々回(第10回)で取り上げたウサギアヒル問題と同じことです。つまり,言語を「道具」と捉えることも「範囲」と捉えることも両方とも可能であるが,英語では「範囲」として捉える慣習があり,日本語では「道具」として捉える慣習があるということなのです。まさに,日本語と英語の発想の違いです。

日本語と英語の発想の違いについては,もっと文化的な要素に起因しているものもあります。例えば,Who Moved My Cheese?という長年世界的なベストセラーとなっている本があります。ここでのチーズとは,それぞれの人にとっての大切なものを表すメタファーですが,大切なものを失ったときにどう考えどう行動すべきかということを説いた本です。興味深いのは,この本の翻訳書のタイトルが『チーズはどこへ消えた?』となっていることです。本来ならば,『誰が私のチーズを動かした?』とすべきですよね。もちろん,このように意訳したのには,翻訳者の意図があります。Who Moved My Cheese?という英語には,英語的な発想が,『チーズはどこへ消えた?』には日本語的な発想がそれぞれ反映されているのです。

英語的な発想では,何かが起こったということはそれを引き起こした要因があるはずだと考えます。世界を因果関係の連鎖として捉えるんですね(cf. Langacker 1991: 283)。そのような発想では,チーズが自然と消えることはなく,必ずその原因となる出来事,つまり,誰かがチーズを持ち去ったという発想になるわけです。ところが,日本語では,何かが起こったとしても必ずしもそれを引き起こした要因があるはずだとは考えません。自然発生的に何かが起こることは普通のこととして日本語文化では了解されているのです。そのため,誰かがチーズを持ち去ったと考えるよりは,チーズが自然に消えたと考える方が日本語らしいのです。

このように,僕たちは外国語学習を通して,自分たちとは異なった発想をしている人たちがいることに思いを馳せることができます。このような知的な側面が外国語学習にはあるのです。AIにコミュニケーションの道具としての役割を取られたとしても,なお残るのがこのような側面なのです。そして,世界には異なった発想をする人々がいることを学生に伝えることがAI時代でも外国語教育を続けていくことの意義なのです。そして,このような見方においては英語だけをこれまでのように特別扱いする理由は見当たりません。英語に限らず,他の様々な言語を学ぶことがむしろ推奨されることになるからです。

さらに重要なのは,海外に出て初めて日本の良さまたは悪さを客観視することができることがあるように,外国語を学ぶことによってはじめて,日本語という言語の発想の特徴に気づくことができます。そしてこのことは,外国語学習が自らを客体視し自己を冷静に見つめなおすという知的訓練としてもまた重要な役割を担っていることを示しています。

AI翻訳の限界

ここでは,今後発展するAI翻訳にコミュニケーションの道具としての言語の役割を任せるとしたら,英語教育の意義は失われてしまうのではないかという観点からお話をしてきましたが,もちろん,これに対して,そもそも,コミュニケーションを任せるほどAI翻訳の精度は高くないという反論もあると思います。たしかに,AI翻訳の精度はまだまだです。しかも,本連載第9回でも議論した通り,意味の根底にある肥沃な大地(=概念基層)を共有できないAIには,(1)の「何色」を「なにいろ」と読むか「なんしょく」と読むかはわからないはずですし,英語に訳す際も,What colorと訳すのかHow many colorsと訳すのかはわからないはずです。

(1)
a. りんごは何色ですか?
b. 虹は何色ですか?

しかしながら,コミュニケーションの道具として用いる場合には,AI翻訳の不完全性をそれほど心配する必要はありません。なぜなら,実際のコミュニケーションの現場で行われているのは,言語的コミュニケーション(verbal communication)だけではないからです。実際のコミュニケーションの現場では,非言語的コミュニケーション(non-verbal communication)も行われており,AI翻訳の不完全性を非言語的コミュニケーションが十分に補ってくれるはずだからです。そのことは,当の英語教育が「ブロークンでいいから」「文法なんて気にしないで」「身振り手振りで」などという言説でこれまでも強調してきたことです。つまり,実際のコミュニケーションの現場では,不完全でもなんとかなるのです。極端なことを言ってしまえば,言語的コミュニケーション自体,全くなくても大丈夫な場合すらあるのです。このことは,「ひつじのショーン」というイギリスの番組が,番組として成立していること自体がすでに証明しています。この番組では,登場人物(動物)は一切ことばを発しません。つまり,このお話の中では,非言語的コミュニケーションだけですべてのコミュニケーションが成立しているのです。視聴者にとってもそれぞれの登場人物の意図は自明なほど理解できています。だからこそ,番組として成立しているのです。

ただし,だからと言って,僕はAI翻訳に全く問題がないとも思っていません。これは,AI翻訳に限らず,そもそも,異なった言語間で完全な翻訳が可能であるのかという問題と深く関わっています。いわゆる翻訳可能性の問題です。そして,ここで強調しておきたいのは,認知文法の研究が示唆しているのは,ドラえもんの「ほんやくこんにゃく」のような完璧な翻訳は,原理的に不可能であるということです。重要なのは,もしそれが技術的な問題だとしたら,いつかは翻訳可能性の問題は解決するかもしれませんが,原理的な問題である以上,将来にわたって解決されることはないということです。

なぜそのように断言できるかと言うと,仮に認知文法の主張が正しいとすると,言語の意味には必ず話者の「捉え方」(construal)が含まれており,表現形式が異なれば捉え方も異なるからです。つまり,異なった言語間において表現形式がそれぞれ異なっている以上,捉え方も異なっているということです。そしてこのことは次のような事態が生じることを予測するのです。

  • 外国語を日本語に翻訳する際に,外国語の表現の捉え方を活かした訳にすると日本語として不自然な表現になってしまうことがある。かといって,日本語において自然な表現になるように意訳すると外国語の表現が本来持っていた捉え方が失われてしまう。

例えば,先ほどのWho Moved My Cheese?を『誰が私のチーズを動かした?』と直訳してしまうと日本語として不自然となり,日本語として自然な表現になるように『チーズはどこへ消えた?』と意訳してしまうと,元の英語表現の持っていた英語のものの見方が失われてしまうということです。つまり,翻訳に関しては,原語の捉え方を残すのか,目標言語の捉え方に換えるのかという問題が必ず生じてしまうということです。このように,原語の捉え方と目標言語の自然さはトレードオフの関係になっていると言ってもよいでしょう。英語教育界では悪名高い英文和訳問題において,直訳すべきか意訳すべきかで悩んだことがある読者もいると思いますが,この悩みは,実は,このトレードオフの関係が持っていたジレンマだったのです。

そして,このトレードオフの関係が翻訳には必ず存在することに気づかせることが,今後の外国語教育の存在意義になってきます。しかも,AIによってスムーズにコミュニケーションが取れるようになればなるほど,その存在意義は重くなっていきます。違和感のないきれいな翻訳は,多かれ少なかれ,相手のものの見方(=捉え方)と自分のものの見方の違いを犠牲にすることの上に成り立っていることに気がつきづらくなるからです。

おわりに

本州を縦断することを考えてみましょう。手段はいろいろあると思いますが,新幹線のある時代に徒歩でいかなければならない理由を見つけるのは大変です。もちろん,ゆっくり旅を楽しむなどの嗜好の違いはありますが,全員が必ず徒歩でいかなければならないわけではないはずです。しかも,徒歩で本州を縦断するにはそれなりの体力をつけるための途方もないトレーニングが必要となります。

これと同じことが,英語に関しても言えます。AIが発達した未来において,全員が膨大な時間と労力を費やして英会話を学ぶ必要はありません。もちろん,英語母語話者との会話を楽しむ,仕事で毎日英語を使うなどの理由がある場合は別ですが,今のように,日本国民全員に必修として英語を学ばせる必要はないのです。このように考えると,大学の英語も今のまま必修科目として続けていく合理的な理由は,少なくともコミュニケーションを重視している限りにおいては,ないと思います。これまでにも,英語教育に関する議論はたくさんなされてきました。ところが,いま起こっていることは,これまでの議論を根底から覆す地殻変動なのです。素直に,AIの実力を認め,これが今後どのように進化していくかを考えた場合,これまでの延長線上で必修コミュニケーション英語を語っても説得力を持ちません。新しい意義を外国語学習に認める必要があるのです。

そこで,認知文法から英語教育者に提案できるのは,言語表現を通して人間の認識の在り方を学ぶことをコミュニケーションに代わる英語教育の意義として掲げることです。実用志向から教養志向への回帰と言ってもいいかもしれません。実は,言語表現を通して認識の在り方を学ぶという態度は,日本の英語教育においては地下水脈のようにそれぞれの教師の中に脈々と引き継がれてきたはずです。認知言語学者が言えるのは,それを今後は堂々と表に出して構わないということです。これまでは,そのような説明をする先生は,「理屈に走っている」「コミュニケーションになっていない」と陰口を言われてきましたが,今後はこちらが主流にならなければ,そもそも英語教育の存在意義すら危ぶまれる時代になるのです。

異なった言語における話者の捉え方の違いを知るということは,異文化理解という題目のもとに位置付けられると思います。しかしながら,これまでの異文化理解は英語という言語の中に語彙や文法として内在化された捉え方の違いについてはほとんど目を向けることはありませんでした。せいぜい,英語を使って異文化の人とコミュニケーションをとってみようといった程度の表面的な異文化理解です。しかし,このレベルの異文化理解であるならば,AI翻訳を最大限に利用すれば,もっと深く相互理解することができるようになるでしょう。言葉の壁がなくなるからです。

これに対し,認知文法が提案する異文化理解はもっと深いレベルでの認識の差異に目を向けることによって見えてくるものになります。例えば,下の図形のグレーの部分の面積を求めたいとき,どのような計算を行うでしょうか。はじめに全体の正方形の面積(4×4=16)を出して,そこから白い部分の面積(2×2=4)を引いて,12という答えを出すというやり方もあるでしょう。もちろん,それ以外の解法もあります。(4×2)+(2×2)=12や,(2×2)×3=12など,複数あります。もちろん,一つの解法だけを知っていれば事足りるのですが,自分が用いた解法以外の解法の存在に気がつくことは知的な訓練として大変重要な意味を持っています。

外国語学習には,まさにこれと同じ意義があるのです。日本語しか知らなければ,表現したい内容を表す手段が他にあることに気づくことが難しくなります。日本語以外の言語を知ることによって,同じ内容を全く異なった視点で捉えている人たちがいることに気づくことができるようになるのです。もちろん,一つの解法だけ知っていればそれでよいという考え方もあるでしょう。しかし,グローバル社会だからこそ,複数の別解があることに気づくことが重要なのではないでしょうか。

本連載では,AI時代における理論言語学の在り方を認知文法の思考法を頼りに考察してきました。インターネットをはじめとする情報技術の発展は,人間社会の行動様式に大きな変革をもたらしました。その熱も冷めないうちに,次のAIによる社会変革がもたらされようとしています。情報技術の発展は理論言語学にも大きな変革をもたらしました。コーパスの登場は理論言語学の方法論や思考法に変革をもたらしたのです。次は,AIです。ディープラーニングの登場は,理論言語学のいくつかの学派にとっては壊滅的な打撃を与えかねない凄まじいインパクトを持っています。膨大な情報の入力によって自ら学習するAIの登場は,言語を生得的な言語能力(competence)と言語運用(performance)に分け,前者のみに注意を向けてきた言語学派にとっては,研究方法の抜本的な見直しを求めているからです。ディープラーニングが一定程度人間の脳の認識学習メカニズムをシミュレーションしているとするならば,ディープラーニングが示しているのは,言語運用の重要性です。そして,言語使用の現場における具体例の膨大な記憶によって文法も含む言語知識が立ち現れてくると考える認知文法の思考法は,おおむねディープラーニングと整合性を持っており,ともに,共進化していく関係にあると僕は思います。

しかも,AIはコミュニケーション重視の英語教育に対しても壊滅的な打撃を与える可能性があります。AIが言語間のコミュニケーション上の障壁を取り払いつつあるからです。もちろん,これについても,認知文法の思考法は英語教師にとっての救世主になる可能性があります。外国語学習の意義が実用志向から教養志向に方向転換された暁には,強調されるべきは,機械翻訳で見落とされてしまう言語間の「捉え方」の差異であり,世界の認識の在り方に関する「別解」の存在だからです。その意味でも,認知文法の思考法は,AI時代になくてはならない思考法なのです。

あとがき

コロナ禍という未曽有の状況に直面し連載が滞ってしまったことに関して,お詫び申し上げます。連載を楽しみにしてくださった方々,特に,ひつじ書房の森脇さんには大変ご迷惑をおかけしました。また,ひつじ書房には,AIの素人である僕にこのようなエッセイを寄せる機会を与えていただきましたことに心から感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

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