並行世界への招待:現代日本文学の一断面|第14章 それでも並行世界は〝ある〟(最終回)|加藤夢三

並行世界は何のためにあるのか

 これまで、本連載では並行世界を取り扱った現代日本文学を導きの糸として、現実世界の唯一性・特権性に対する率直な疑念を、どのようにして肯定できるかということを考えてきました。いま・ここでこうしている「私」の「」性と同じように、「私」の帰属する時空の存立構造もまた、ほかならぬ「」性を与えられている(であろう)にもかかわらず、そこにどうしようもなく違和感を抱いてしまう人びとがいる。そのような矛盾や錯誤と言ってもいい独特の感覚が、現代日本の〝並行世界もの〟の物語様式には刻まれているように思われるのです。

 こうした文化現象への着目は、それまで先行研究が無かったわけではありません。たとえば、本連載の2回目でも言及した千田洋幸は、「「私が私であること」の不確定性」=「偶有性の感覚」が、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件を経た1990年代の日本社会を覆っていたことを指摘しつつ、そこに「こうではなかったかもしれない」という反実仮想の趣向を強く押し出した同時代の物語文化との関連を読み取っています(『ポップカルチャーの思想圏──文学との接続可能性あるいは不可能性』おうふう、2013.4)。さらに千田によれば、そのような時代精神を継承した「再帰的近代社会」としてのゼロ年代初頭において、「生の行き詰まりの感覚と、自己を支えてくれる小さな世界への執着が発生し、特にポップカルチャーの諸ジャンルにおいては、「世界の終わり」「時間/空間ループ」「転生」「パラレルワールド」を含む物語世界、「トラウマ」「解離」を負ったキャラクターへの想像力が発動する」というのです(「パラレルワールドを超えて──2010年代文化の再構成──」『日本文学』第63巻4号、2014.4)。

ゼロ年代以降における〝並行世界もの〟の物語様式の擡頭を、「再帰的近代社会」の必然的な帰結としてとらえようという千田の見立ては、多くの示唆に富むものであり、ある種の文化状況論としてはおそらく正しいのでしょう。ただ、一方で本連載の問題意識に照らして考えてみるならば、「「世界の終わり」「時間/空間ループ」「転生」「パラレルワールド」を含む物語世界、「トラウマ」「解離」を負ったキャラクターへの想像力」をひと括りに並列してしまうことには、やはり抵抗を覚えてしまいます。そこには「私」のと、現実世界のの恣意的な混同が含まれているように思えるのです。

 それは、千田の並行世界論が多くの人びとを納得させるものでありつつも、どこか〝倫理的〟すぎるのではないかという印象とも関わってきます。千田はジャン=リュック・ナンシーの分有パルタジェ論を参照しつつ、ある出来事の当事者/非当事者の区分を越境するような「〝声〟を分有する身体のあり方」が、2010年代における文化現象の一部には刻まれていると述べています(前出「パラレルワールドを超えて」)。とりわけ「震災を踏まえた2010年代の文化テクストやコンテンツのいくつかは、あらゆる存在が偶有的であることを踏まえた上で、単なる「現実の否定」や「相対化」にとどまらない表現を差し出そうとしている」という点に、その同時代的意義を認めるべきであるというのです。

 それは確かに、現代の物語文化が担うべき批評的役割の一端を示してはいるでしょう。しかし、本連載ではそうした〝倫理的〟な次元とは無関係に、今日において〝並行世界もの〟の物語様式が隆盛したことの思想的意義を、もう少し別のところに求めてみたいのです。

分析哲学の〝実存的〟読解

 改めて、可能世界論の古典とも言えるデイヴィッド・ルイス『反事実的条件法』(吉満昭宏訳、勁草書房、2007.12)の冒頭部分を確認しておきましょう。

 われわれがたまたま住んでいる世界の他に可能な世界が存在すると私は信じている。議論が必要であるなら、それはこうである。物事が現にそうであるのとは違っていたかもしれないということは、紛れもなく真である。物事は無数の仕方で別様にありえたと私は信じているし、読者も信じている。しかし、これはどういうことなのか? 日常言語では「物事が現にそうである仕方とは別に、物事がそうでありえた多くの仕方が存在する(…)」という言い換えが許される。一見したところ、この文は存在量化である。それは、特定の記述、即ち「物事がそうでありえた仕方(…)」に関する多くの存在者が存在することを述べている。私は物事が無数の仕方で別様にありえたことを信じている。従って、その言い換えを額面通りに受け取るなら、「物事がそうでありえた仕方」と呼べるだろう存在者の存在を私は信じていることになる。私はそれらをむしろ「可能世界」と呼びたいのである。

『反事実的条件法』は、れっきとした分析哲学の書物なので、その内容について専門外の僕があれこれと論評できるようなものではありませんが、それでも「物事が無数の仕方で別様にありえたこと」をめぐる一連の論理展開は、結果としていま・ここの唯一性・特権性を問いなおすような思考の枠組みを提示するものであり、ルイスの企図がどうであれ、現実世界のかけがえのなさを信じられないというきわめて〝実存的〟な動機から、本書を手に取る方も多かったのではないかと思われます。(✳)

 そういう意味では、本連載の初回に取り扱った柄谷行人『探究Ⅱ』もまた、ソール・クリプキの提示した固有名をめぐるメカニカルな哲理を、きわめて〝実存的〟な問題系へと読み換えることを試みたものであるとも言えるでしょう。そして、こうした(広義の)可能世界論を題材として、そこに人間の生に関わる切迫したアクチュアリティを見いだしていこうとする企てが、ある種の人びとを強く惹きつけるものであったからこそ、いまもなお『探究Ⅱ』は繰り返し読まれているのではないでしょうか。

 それは、もちろん柄谷の著作に特権的なものというわけではありません。たとえば、こうした系譜に連なる書物として、昨年に刊行された入不二基義『現実性の問題』(筑摩書房、2020.8)を参照してみたいと思います。西欧哲学史の文脈を無視した雑駁な読み方であることを承知で言えば、入不二の著作は、やはりルイスが取り組んだような形而上学的思弁を、ぐっと〝実存的〟な問題圏に引きつけて再定位したもののように感じられるのです。以下では、その初発の問題提起を示した部分を概観しておきましょう。

入不二は、まず「現実の現実性(「現に」というあり方)には三つの水準があって、その三水準は三位一体的に働いている」と述べ、以下のように分別します。

(1)様相とは無関係に働く水準→端的な現実世界
(2)様相に外的に関係する水準→可能世界の外部としての現実世界
(3)様相の内的に関係する水準→可能世界それぞれの現実世界としての指標性

 このうち、(2)と(3)は、可能世界との対応関係のなかで意味づけられる現実世界のあり方であり、その村立構造は真っ向から対立しているにせよ、様相からの逸脱と様相への包含がある種の循環構造を含み込んでいるという点で、ともに「突出(絶対化)と回収(相対化)の反復において、本質的に協働している」ことになります。要するに「絶対化と相対化の対立は、同じ土俵での「一つの」運動の両側面であって、その土俵(共有されたルール)が、「様相」(ここでは諸可能世界)に当たる」というのです。それに対して「(1)は、その土俵(ルール)の共有以前、すなわち相対化、絶対化の反復が始まりようのない水準の現実性」であり、その水準の異なりを理解することがまず重要であると入不二は主張します。

 たとえば、これらの水準の異なりを、ある任意の個別具体的な命題に当てはめてみるならば、次のようになるでしょう。

(1)現にソクラテスは哲学者である。
(2)この現実世界において、ソクラテスは哲学者である。
(3)ある可能世界において、ソクラテスは哲学者である。

先の説明を敷衍させてみれば、「(1)の水準で働く「現に」は可能性と対比されないし、「現に」という現実性は副詞的に働く力であって、そもそも「世界」(固体化された事物)ではない」のだから、(1)は端的に(「現に」とわざわざ断るまでもなく)「ソクラテスは哲学者である」と言うべきでしょう。これを「第0水準」として(0)と表記すると、事実上「(0)と(1)の間、(2)と(3)の間には、それぞれ循環が含まれている」ことになり、現実性の様相/無様相をめぐる思考のマッピングが着実に出来上がってきます。

 こうした見取り図を踏まえたとき、いわゆる「現実性」という概念には、「認識論的な意味での「現実性」と、存在論的(形而上学的)な意味での「現実性」がある」ことが分かってきます。再び『現実性の問題』から引用しておきましょう。

前者は、世界が現ににおいて、その「どのようであるか」に依存する意味での現実性である。一方、後者は、そのような現実世界の様態(あり方)には依存しない現実性である。それ故、いったんはクリプキ的な「可能世界」の議論を経由する方が分かりやすいかもしれない。つまり、諸可能世界の想定を経由したうえでなお、その可能世界のうちの一つとしての「現実性」、可能性の想定自体もまたその中でしか行われ得ないという「現実性」であり、その「現実性」の外に相並ぶ可能性などないという「現実性」であるこの外のない唯一的な現実というあり方こそが、存在論的(形而上学的)な意味での「現実性」であり、「この」「これ」が表そうとしているものである。〔括弧内の文献注釈は省略した──引用者注〕

本連載で用いてきた「」という表現とは少し使い方が異なりますが、ここで検討されているのは、詰まるところ可能世界(様相)との照応関係のなかで浮かび上がる「現実性」は認識論的次元に属し、そうではない」(としか呼びえないもの)は存在論的次元に属するということです。こうした区分を前提としてみれば、現実世界に対する僕たちの居心地の悪さは、どこまでも認識論的次元の問題であり、真なる「現実性」の存在論的次元を脅かすものではないという(当たり前とも言える)前提が、可能世界において論理的地位を持つかどうかの有無として理解できることになるでしょう。

この点については、あるインタビューにおける入不二の発言が、非常にわかりやすく説明してくれているので、そこから引用しておきたいと思います。

「ありあり」としていようがいまいが、「いきいき」と感じられても感じられなくても、そんなことは現実の現実性とは関わりのないことです。いわゆる「現実感」という意味での「リアリティ」と、「現に」という「現実性」とは、別物です。「感」は余計なのです。現実は、まさに「現に」あるようにあるしかないのです。「ありあり」とか「いきいき」といった感じがするかしないかとは無関係に、現実は現実としてあってしまいます。だからこそ、その現実の現実性を、「ありあり感」「いきいき感」という主観的な体験に引き下げてしまってはまずい。

(「無内包の「現実」あるいは狂った「リアル」」『談 Speak, Talk, and Think』no.88, 2010.3)

 入不二によれば、僕たちの「主観的な体験」とは別の水準の事柄として、「」こうであるという(副詞的な)力の働きこそが「現実の現実性」を規定しています。ここだけ取り出すと非常に強力な素朴実在論とも言えますが、こうしたものの見方を通過することで、たとえば本連載の第3回で概観した永井均の「〈私〉」をめぐる一連の思索もまた、同型上の論理構造によって説明できることになるのです。前述のインタビューの続きを参照しておきましょう。

永井さんは、独在性を表すのに〈私〉という表現を使いますが、それにならって言いますと、〈私〉の中の「私」の部分を消して〈 〉だけにすると、「無内包」の現実になります。つまり、〈 〉が表しているのが「現に」という現実性のことであって、その現実性の中には「私」が入ってもいいですが、じつは別のなんでも入り得る。〈 〉の中に何が入るかということは、最終的にはあまり問題ではない。それが「現実の無内包性」です。

 ここで何より重要なのは、「私」のことであろうとなかろうと、あらゆる事象において(副詞的に)働く「〈 〉」という力の有無(=「独在性」)は、( ということです。言い換えれば、通常の意味での〝哲学〟の領分において「〈 〉」の存立構造を分析することはできても、「〈 〉」の存在そのものを検討することはできず、それはただ端的に提示されるものとしてあるわけです。もしそうであるとすれば、それはまさに(〝哲学〟ではなくて)〝文学〟の問題圏で扱われるべき事柄に属するでしょう。思考の外部に賭けられた──と安易に言い切ってしまうと、すぐさま再び様相への包含を導く循環構造が立ち上がってしまうのですが、それでも他に言いようがないので──「」性を問うことは、今日における〝文学〟の重要な役割と使命のひとつであろうと思われるからです。では、そこに一連の並行世界論はどのような関わりを見せるのでしょうか。

(✳)僕だけなのかもしれませんが、同じくルイス『世界の複数性について』(出口康夫ほか訳、名古屋大学出版会、2016.8)の邦訳が刊行された時にも、類似した感想を持ちました。

並行世界の意味

前世紀の終わり近く、日本中でカルト的な人気を博した庵野秀明監督のTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(テレビ東京、1995)の最終話では、主人公である碇シンジの心象世界において、一見したところ本編の物語展開とは脈絡のないような、無数の「ありえたかもしれない自分」の人生が執拗に描かれつづけました。その前衛的な演出は、周知のように大きな物議を醸し、やがてそれは20年以上にわたってつづく〝エヴァブーム〟を生み出していくことにもなるのですが(✳✳)、いま振り返ってみれば、さしあたりそうした無数の並行世界を生きる自分のあり方に、切実なを感じ取るシンジの姿には、千田の言う「偶有性の感覚」に関わる時代精神が明瞭に託されていたように思います。

ただし、そこには「私」の唯一性・特権性をめぐる思想的課題と、現実世界の唯一性・特権性をめぐる思想的課題が、二重写しのようなかたちで照射されていたことには注意を払っておく必要があるでしょう。TVアニメ版の公開当時、あまりにも精緻でリアルな心理描写に加えて、さまざまな謎解きを誘発するような謎めいた隠喩メタファーが作中に散りばめられていたこともあり、『エヴァ』はアニメを超えた〝文学〟たりえるかということが盛んに論議され、実際に多くの〝文学的〟な解釈・考察が提出されました。(✳✳✳)

そうした鑑賞の仕方は、アニメよりも〝文学〟のほうが多様な解釈を許容するという安易な前提に対する突っ込みを措けば、ある一定の正鵠を射たものだったのでしょう。しかし、そうした〝文学的〟な主題系を強調しすぎてしまうと、『エヴァ』の通奏低音をなしている並行世界への渡航は、単なる装飾的なものとして処理されてしまうのではないかと思われます。しかし、『エヴァ』からゼロ年代以降の物語様式に継承されていったのは、「私」(=近代的自我)に関わる実存の葛藤だけではなく、「私」の帰属するいま・ここの強度を根源的に疑っていくような想念のあり方でもあったのです。

もとより、サブカルチャー・純文学を問わず、並行世界を扱った物語作品の大半が、概して現実世界のかけがえのなさを再確認し、その唯一性・特権性を補強するものでしかありえなかったことは否定できません。もはや詳述する紙幅はないですが、たとえば2020年に公開され、これも歴史的な大ヒットを記録したアニメーション映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(東宝)は、細部の事柄を捨象してごく簡単にまとめるならば、敵の攻撃に直面する主人公たちが、こうであったならよかったのにという夢から醒めて、ただひとつの現実世界へと帰還することを奨励する物語だったと言えます。すなわち、この映画においては、どれだけ過酷であったとしても、本物の現実世界で起こった出来事から眼を背け、数多の可能性の微睡みに耽溺することは、明確に批判されるべきものとみなされていたのです。

しかし、そもそもなぜ夢世界(=可能性の水準)に留まる行為は悪いことなのでしょうか。本連載の第4回でも示したことですが、夢世界の当事者たちは、各々にそこを現実世界であると信じて没入しているのだから、少なくとも認識論的次元──ここでは、一人称的なものの見方──において、夢世界と現実世界の区別は一切ないということになります。そうであるとすれば、やはりそれは、という、現実世界の存在論的なステータスを軽視しているからということになるのでしょうか。

認識論的次元と存在論的次元の異なりは、確かに素朴な実感としても納得のいくものでしょう。「お前はこうだと思っているかもしれないけれども、実際のところはこうだったのだ」という指摘は、その正しさの根拠が果たしてどこにあるのかという問題を除けば、メタ・レベルから「私」という近代的主体の世界認識をとらえ返す内省の契機となりえるからです。しかし、ゼロ年代の物語文化のなかで執拗に描かれていたのは、各々の登場人物の生きるいま・ここが存在論的な分裂を抱え込み、こうであったという時空のあり方が、どこまでも疑いえてしまうような仕組みでした。場合によっては、量子コンピュータや多元宇宙仮説などの大掛かりなSF的ギミックを導入してまで、並行世界の実在性(=存在論的次元)を描くことが重要な意味を担わされていたのです。

並行世界の実在性が保証されている状況下のもとで生を営む人びとにとって、前述の映画『鬼滅の刃』で顕著に示されていたような、現実世界はのだから眼を覚ましてそこに回帰すべきだという主張は、端的に意味を持たないものになるでしょう。むしろ、その際に議論の焦点となるのは、古くから〝文学〟のなかで描かれてきた「私」と現実世界の衝突ではなく、無数の「私」と「私」、さらに言えば無数の現実世界と現実世界の衝突にほかなりません。つまり、並行世界を扱った物語様式においては、あるひとつの現実世界のなかで、たったひとりしか居ない「私」はどう生きるべきかという伝統的な実存の探究ではなく、そもそもひとつ/ひとりだけ存在するとはどういうことかという、言わば存在の仕方に関わる思考の転換こそが問われなければならないのです。それは、本連載でも繰り返してきたように、たとえ論理的なレベルでは錯誤に過ぎなかったとしても、なおある種の人びとを惹きつけずにはおかないイマジネーションの備給装置でありえたと言えるのではないでしょうか。

もとより、あとは堂々めぐりとなるだけですが、と心の底から信じられる人びとにとっては、以上のような想念もまた、どこまでも〝倫理的〟な問題系に属する事柄(現実世界のあり方をどのように受け止めるべきかという当為の水準)として理解されてしまうでしょう。もちろん、僕たちが社会生活を営むかぎりで、それが〝健全〟なものであることは言うまでもありません。しかし、人間の思考や感性が必ずしも〝健全〟なものである必要はないように、現実世界のこうでしかなさを絶えず迂回し、論理的には決して解決しえないような矛盾や錯誤を含み込みながらも、ということを肯定するための役割もまた、ほかならぬ〝文学〟の重要な存在意義のひとつであろうと思われます。並行世界を扱ったゼロ年代における一連の物語文化は、そういった観点から、その文化史的な意義と使命を再考することができるのではないでしょうか。

まとまらない最後になってしまいましたが、これで「並行世界への招待」の連載はおしまいです。もとより考え残したことは多く、この続きはまたどこかで必ず書きたいと思っていますが、それでも1年ちょっとの間、とても楽しく連載させていただくことができました、ありがとうございました!

(✳✳)なお、旧作のリメイクとも言える「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズは、ご存知のように2021年3月、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(東宝)の公開に伴い、ようやく長い物語の幕を閉じました。現代日本文化と並行世界の交錯を検討するにあたって、『シン・エヴァンゲリオン』の結末は重要な思想的意義を持っていると考えているのですが、その中身はまだ僕のなかでも消化できていないため、いまは措いておくことにします。

(✳✳✳)『エヴァ』に描かれたそのような肥大化した自意識のあり方は、放映当時から「「自己啓発セミナー」とも「人格改造セミナー」ともいわれる集団心理療法のフィクションへの転用」である、という批判がなされていました(宮崎哲弥「サカキバラよ、この「心を操る」アニメを見たか」『諸君!』1997.10)。

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