並行世界への招待:現代日本文学の一断面|第13章 伴名練『なめらかな世界と、その敵』──並行世界を移動するとはどういうことか|加藤夢三

伴名練という衝撃

 2010年代、しばしば「伊藤計劃以後」と形容される日本SFは、以前には考えられないほどの輝かしい盛況を見せることになりましたが、とりわけあるひとりの書き手が発表した小説作品は、数としては少ないながらも、ほとんどその全てが東京創元社の『年刊日本SF傑作選』に収録されるという驚異的な達成を成し遂げました。その書き手の名前は伴名練といい、初の短編集『なめらかな世界と、その敵』は、SFジャンルとしては異例なほどの売れ行きを見せたのです。

 伴名の小説作品は、SFとしてはきわめてオーソドックスな作風でありながら、読み手に何かを訴えかけるような独特の叙情性を喚起するものが多く、特に前述の短編集の表題作は、伴名の持ち味が存分に発揮されているということで話題を集めました。同作は、誰もが並行世界を自由に移動することができる「乗覚」と呼ばれる意識を有しているという突飛な設定の下で物語が展開していきます。視点人物である架橋葉月という女子高生は、日々「乗覚」によって気ままに数多の並行世界の人生を愉しんでいましたが、ある日かつて陸上部の親友だった厳島マコトが自身のクラスに転入してきたことで、数年ぶりの再会を果たします。しかし、マコトは人格が変わったかのように、自分に関わらないでほしいと一方的に告げるのでした。

 葉月は、校門の前で話しかけてきた須藤準という刑事から、マコトが3年前に一陣修輔という人物が起こした事件に巻き込まれ、その後遺症によって別の並行世界に移動することができなくなる「乗覚障害」を負ってしまったことを知らされます。今後、二度と「失敗できない人生」を生きるしかない状況に立たされてしまったマコトは、そのショックで誰にも心を開かなくなってしまったというのです。

 しかし、それでも納得のできない葉月は、一陣が事件を起こした東堂製薬を尋ね、一陣もまた、かつて「K056」という薬品によって「乗覚障害」を負ってしまったことを知らされます。その後、一陣の写真を見た葉月は、須藤という刑事の正体こそが一陣だったことに気づくのですが、その直後、マコトとともに一陣の車で拉致されてしまいます。そこで、一陣は「乗覚」を持たないことの耐えがたい苦しみを吐露するのでした。本文から引用しておきましょう。

この、なめらかな世界の人間は、誰もが絶対の理想郷に生きている。苦しみや悲しみを感じても、その苦しみや悲しみもない可能性を担保していて、実際いつでも行使できる。愛されなければ愛される現実に行けばいい。永遠の命が欲しければそれを達成している現実に移ればいい。彼らにとって、唯一の可能性を生きざるを得ない僕たちは、低次元の生物であり、理解できない存在であり、恐怖の対象であり、何よりも世界の敵なんです

 一陣は「だからこそ、僕たちはこの楽園を破壊する権利がある」と述べ、人びとに「乗覚障害」を引き起こす「K056」を街中に散布することを目論むのですが、その最中、葉月は別の並行世界に移動して助けを求め、なぜかすんなりと一陣は逮捕されます。

 しかし、それは一陣の作戦であり、真の目的は、自身と同じ苦しみを分かち合ったマコトに「K056」の拡散計画を引き継いでもらうことでした。「この世界への復讐を、自分と同じ障害を抱えたマコト一人に託そうとした」のです。拉致されたとき、別の世界に離脱することのできなかったマコトが密かに一陣に共感し、一陣と同じ思いを抱えていることを理解した葉月は、みずからも「K056」を摂取し、マコトとともにただひとつの現実世界だけを生きることを選択することで、物語は幕を閉じます。

 当然ながら、私たちの現実世界では「乗覚」なるものは存在しないため、誰もが「失敗できない人生」を生きるしかなく、作中の言葉を借りるなら「人生のバックアップデータ」を残しておくことができません。物語の結末で、葉月は「乗覚」を捨てることを決断するのですが、それはもとより、唯一の現実世界を生きるという僕たちにとって当たり前の出来事が、途方も無くロマンティックな営みであるということを思い出させてくれるものであり、一回きりの生のあり方を最大限に肯定するものであったと言えるでしょう。

 しかし、ここでもう少し考えてみたいのは、作中における並行世界の扱われ方です。僕が初めてこの小説作品を読んで思ったことは、こんなに簡単に時空を移動できるのであれば、 という疑念でした。真の意味で各々の世界が「なめらか」につながっているのだとすれば、もはや現実世界と並行世界の区別がつかなくなってしまうように感じられたのです。

 しかし、後述するように『なめらかな世界と、その敵』の並行世界は、いま・こことまったく切り離された形而上学的存在としてあるわけではなく、そこには認識主体の思考プロセスに関わる諸々の制約が盛り込まれていました。それは、単なる帳尻合わせの設定にとどまらず、僕たちが並行世界を移動するとはどういうことなのかということを考えるにあたって、有力なインスピレーションを授けてくれるものだったように思えます。今回は、「乗覚」の所有者たちはどこの世界を〝本当の〟現実世界だと理解していたのかという問いを検討することを通じて、本連載の問題意識をまた別の角度から考察してみることにしましょう。

実際には無限ではない並行世界

『なめらかな世界と、その敵』の冒頭部分では、「三十度近い熱気に炙られた坂を勢いよく下って、いい感じに汗をかいたら、異常気象で狂い咲いた桜のしだれかかる並木道を駆け、途中からは路面の早過ぎる紅葉をサクサクと踏みしだいて、季節外れの雪化粧を纏った橋を、凍った川面を眇めたりしつつ走りぬける頃には、丘の上に高校が見えてくる」といった記述があり、葉月が日常的に並行世界を移動していることが示唆されています。(✳)改めて、作中でなされる「乗覚」の説明を引用しておきましょう。

うちらは、無限に種類があるトランプの上を、行ったり来たりしてる。『外は雨が降ってるけど、濡れとうないなあ。雨が降ってない現実へ行こっと』『お祖父ちゃんこの前死んじゃったけど、まだ聞いておきたい話があったなあ。お祖父ちゃんが生きてる現実行こっと』『事故で手を怪我してゲームできん。事故らんかった現実へ行こっと』『最近、刺激が足りんなあ。核戦争が起こって荒廃してる現実へ行こっと』……こっちに行ったり、あっちに行ったり。あらゆる可能性の中にいる自分に移って生きている。乗覚が正常に働いているうちらは、全ての可能性を、見て、聞いて、触れることができる

 無限に広がる「全ての可能性」から、自由自在にみずからの居場所を選択できるとすれば、それは確かに非常に魅力的なことです。しかし、素朴に考えてみると、無限に広がる「全ての可能性」を順々に「見て、聞いて、触れる」ことは、それこそ無限の時間がかかるのではないでしょうか。言い換えれば、たとえ原理的に無限であったとしても、実際の「乗覚」による並行世界の移動は、僕たちの生が有限であるかぎり、に落ち着くのではないかと思われるのです。

 あるいは、そもそもいま・ここに存在する自分がまったく想像もつかないような並行世界というものに、ひとは「見て、聞いて、触れることができる」のでしょうか。「乗覚」というのが人びとの意識のあり方である以上、そこに空想される並行世界は、おのずと各々の理解力・想像力の範疇という認識論的な制約を受けることになるでしょう。つまり、『なめらかな世界と、その敵』における並行世界の可能性は、無限ではなくさまざまな規則ルールが課せられているということなのです。

 もちろん、ここで僕はハードSFのような設定の粗探しをしたいわけではなく、こうした無粋な突っ込みは、作中の並行世界の成立条件を検討することを通じて、僕たちの生のあり方と並行世界の関係を理解する糸口を掴みたいと考えているからです。『なめらかな世界と、その敵』に戻ると、上で示したような問題は、マコトの「乗覚障害」を知った葉月が、その治療法を探すために他の並行世界へと移動するところに顕著に現れています。

確かに、乗覚障害の治療法は、遠くのあたしにとっては既に確立された、自明のものだ。けれど、その詳細を記憶したまま、ここに戻ってくることができない。まず、ここから最短距離にある「乗覚障害の治し方がある現実」なのに、こちらとは言語も文字も、化学式の体系も全く違う。そして、直感的にしか分からないけれど、技術レベルに開きがあり過ぎる。あちらにいる時は理解できても、こちらにいる時は理解できない。

ここで示されているのは、「乗覚」を有した人間は、それぞれの並行世界に生きている自分の記憶を、まったく過不足なく他の並行世界でも自在に継承できるわけではないということです。「乗覚障害」の治療法がどの並行世界でも適用されれば、そこでこの物語は終わってしまうため、ややご都合主義的だと思うかもしれませんが、こうした設定は理屈としては納得できないものではありません。

 この点をもう少し精緻に理解するために、フィクション論の考え方を応用してみたいと思います。(✳✳)前回も名前を出しましたが、マリー=ロール・ライアンは、僕たちが物語世界に触れるとき、そこには「最小離脱法則」という原理が働いていると述べています。その説明を引用しておきましょう。

この法則──最小離脱法則〔principle of minimal departure〕と呼ぼう──の言うところは、われわれがテクスト宇宙の中心世界を再構築するときも、非事実陳述の代替可能世界を再構築するときと同じように、自分たちのAW〔actual world=「われわれの現実体系の中心である実際の世界」のこと──引用者注〕表象とできるだけ調和するように再構築しているということだ。われわれは現実について知っていることならなんでも、代替可能世界に投影し、ただテクストに明記されていることだけは調整する。だれかが「馬に翼があったら飛べるのに」と言ったら、われわれは、翼がついて飛べるということを除いては、現実の馬の全性質を提示するような動物を再構築する。おとぎ話を読んでいて空飛ぶ馬が出てきたときも、「ゆうべ空飛ぶ馬の夢見たよ」と子供にいわれたときも、想像力という天翔ける馬について詩人が書いたときも、われわれは同じ操作を実行している。

(『可能世界・人工知能・物語理論』岩松正洋訳、水声社、2006.1)

 どうでしょうか。特に作中で説明がなされない限り、想起された虚構世界が現実世界に準じた存立構造を成しているというのは、考えてみれば当たり前のような気もしますが、それは少なくとも経験的な次元においては、ひとえに僕たちの想像力が有限であるということに由来するものでしょう。僕たちは、取り立てて作中で語られない事柄について想像力を働かせない生き物であり、言い換えれば虚構世界というイメージの構築は、そのような仕方でしか遂行しえないものなのです。(✳✳✳)

 上で見たような人間の思考様式に関わる節約エコノミーは、ある意味で『なめらかな世界と、その敵』の「乗覚」にも当てはまるのではないでしょうか。もちろん、作中の登場人物たちは、すでに存在する何らかのテクストを読解することで並行世界に参入しているわけではありません。しかし、「乗覚障害」の治療法が「あちらにいる時は理解できても、こちらにいる時は理解できない」のだとすれば、やはり作中で言うところの並行世界の移動というのは、実際には認識主体による意識の移動のことであり、ゆえにそのイメージの立ち上がり方には、何らかのかたちでライアンの言う「最小離脱法則」と同じような機制が働いているように思われるのです。

 では、そのような並行世界の移動手段に対する考察は、僕たちにどんな示唆を与えてくれるでしょうか。

(✳)やや牽強付会かもしれませんが、こうしたいくつもの可能性を併存させた記述は、サミュエル・ベケット『モロイ』(宇野邦一訳、河出書房新社、2019.5)の「午前零時だ。雨が窓にたたきつけている。零時ではなかった。雨なんか降っていなかった」という有名な結末を彷彿とさせます。ジル・ドゥルーズは、こうした端的に矛盾しているとしか思えない文学表現のあり方について、「可能なことを尽くすには〈可能なものポシビリテ〉(物あるいは「あれ」)を、それを指示する言葉に、包括的選言命題によって、まさに順列組み合わせにおいて結びつけなければならない」という言い方で評しています(『消尽したもの』宇野邦一ほか訳、白水社、1994.1)。ドゥルーズの指摘自体もまた謎めいていますが、あらゆる「順列組み合わせ」によって可能性という概念そのものを「消尽」するという着想は、並行世界を並行世界として、その潜勢力を損なわないままに語ろうとする試みだともいえるでしょう。では、『なめらかな世界と、その敵』における並行世界の記述に、そうした企図を見いだすことはできるでしょうか。

(✳✳)フィクション論というのは、なかなか文学研究の領域で応用することが難しいのですが、その点に関するごく簡単な私見を、拙稿「フィクション論と文学研究の交点」(『昭和文学研究』第82集、2021.3)にまとめましたので、よろしければ併せてご笑覧ください。

(✳✳✳)もちろん、作中に書かれていない出来事や登場人物の関係について、敢えて穏当な着地点を想定せずに、あれこれと〝深読み〟することで妄想をめぐらせる楽しみ方(俗に「2次創作」と呼ばれる作品享受の仕方)もあるでしょう。ただ、そのような解釈の枠組みもまた、、論理的な正統性の手続きを踏み、ある種の説得性を喚起するものでなければなりません。この点については、たとえば三浦俊彦「思考実験と虚構世界、仮想世界、可能世界」(『非在の場を拓く──文学が紡ぐ科学の歴史』中村靖子編、春風社、2019.2)などをご参照ください。

並行世界への通路

 前節では、『なめらかな世界と、その敵』の並行世界が、おのずと登場人物の認識論的な制約を受けているということを確認しました。それは、たとえばある世界が〝本物〟であるという信念を抱くための機制もまた、同じようにいま・ここの秩序体系に依拠したものであることを示してもいます。この点について、青山拓央の議論を参照してみましょう。以下、やや長い引用と紹介が続きますが、大変重要なところなので一緒に読んでいただけたらと思います。

 青山は、過去の想起という営みを検討するにあたって、さしあたり「いま在る記憶・証拠・理論と整合的に思い描かれた過去」を、断片的で「たくさんの隙間が空いている」「デッサン画」に喩えつつ、次のように述べています。

 特定のデッサン画への「忠誠」は、なぜか今に特定のデッサン画が在ることに原理的に依存している。私は今、五感や思考が一体となった眼前の現象を捉えているが、描きかけのデッサン画もまた、そこにおいて立ち現れざるをえない。そして何より重要なのは、このとき、どのデッサン画を出発点とするかの選択はなしえないことである(他のデッサン画はないのだから)。今ここに、今朝パンを食べたことや千年前に平安貴族がいたことを描線とするデッサン画が在るなら、私はそれを出発点として過去を捉えていくしかない。たとえ、一部の記憶の間違いが明らかになる場合でも。
 過去についての信念の正当性は、今なぜか眼前に在るデッサン画との対照によって検討される。しかし、そのデッサン画自体を、他のデッサン画と比較して、捨て去ることは不可能だ。映画の『マトリックス』や『トゥルーマン・ショー』のように、一見、デッサン画が全体として交換されたかのような物語においてさえ、従来のデッサン画は新たなデッサン画の一部として、後述の意味で生き残っており、つまり、デッサン画は交換されたのではなくにすぎない。

(『心にとって時間とは何か』講談社現代新書、2019.12、傍点原文、引用部は以下同様)

   

 僕たちは、ともかくも眼前に与えられている「デッサン画」に準拠した仕方でしか、過去を過去として成り立たせるイメージのあり方を理解することはできません。それは、現在から過去へという「記憶」を紐帯とした〝時間的〟な隔たりではなく、現実世界(とされていたもの)から並行世界へという〝空間的〟な隔たりについても、同様の結論を導くことになります。この少し後の部分の引用をつづけましょう。

  『マトリックス』等のストーリーを覚えている方は、ぜひ次の点を確認してほしい。自分が本物だと信じていた世界がじつは造りものであったと知り、現実の世界へ抜け出そうとする物語では、その造りものの経験がどのように生み出されていたかの説明が(たとえば、脳への電気刺激によってそれが生み出されていたという説明が)現実の世界の何らかの機構に依拠するかたちで与えられている。この意味で、偽りであった過去のデッサン画は、現実の過去のデッサン画内に虚構という額縁を設けたうえで、捨てられることなく取り込まれている。
 だからこそ、私たちはああした物語を見て、現実の世界だと判明したものが、これまで信じていた世界に対して、たしかに立つと考える。もし、その現実の世界なるものが、これまで信じていた世界の像を取り込んでいることの説明がないなら、前者の世界を現実と見なす動機は大きく損なわれるだろう。

   

 ある世界(それこそ並行世界)に対して、それまで居た世界よりも〝本当らしさ〟を感じるとすれば、それはまったく新しいかたちで差し出されるということはありえなく、やはり「これまで信じていた世界」の秩序体系に、何かしらの仕方で紐づけられています。その入れ子構造のあり方は、先に見た並行世界のイメージをめぐる認識論的な制約の問題と、どこか重なり合ってはいないでしょうか。

 つまりは、青山の表現を借りるならば、『なめらかな世界と、その敵』における並行世界もまた、《移動ではなく「拡張」の譬喩によって説明されるべきなのです。「乗覚」の所有者たちは、いま・ここの時空間から完全に離脱して並行世界を気ままに航行しているわけではなく、その姿かたちは、すでに与えられた現行の「デッサン画」を基準として、そこから派生してきた現実世界の変奏系ヴァリエーションに過ぎません。「あちらにいる時は理解できても、こちらにいる時は理解できない」という物語上の設定は、そのような現実世界と並行世界の非対称な関係を含意しています。

 そうであればこそ、葉月たちはどこの世界を〝本当の〟現実世界だと理解していたのかという冒頭に示した問いについても、ひとつの解答が与えられることになるでしょう。どれほど並行世界が無数に拡がっているように見えても、各々の「デッサン画」を成り立たせる基準点としての現実世界はただひとつのものとしてあり、何ら特権性を喪失していなかったわけです。並行世界への移動という表現自体が、そのような機制を隠蔽することによって成り立つものであり、ゆえに物語結末における葉月の決断は、単に現実世界のかけがえのなさを引き受けようとしたのではなく、思考の基準点としてのいま・ここに、みずからの意識の照準を再び合わせようとする試みであったということができるでしょう。

 それは、結局のところ〝現実世界の唯一性・特権性に奉仕する並行世界〟という(お馴染みの)図式に収まるものだったのかもしれません。しかし、たとえ明確に企図されたものではなかったにせよ、そのプロセスの最中に立ちあらわれた並行世界に対する思考の節約エコノミーをめぐる一連の主題系は、少なくともある種の屈託を抱えた人びとにとって、という認識論的な問いを誘発せずにはおかないでしょう。そのような問いを発動させうるトリガーとして、2019年における『なめらかな世界と、その敵』の達成を理解することができるのではないでしょうか。

 その後の伴名は、『日本SFの臨界点』(ハヤカワ文庫JA 、2020.7)シリーズの編集責任を務めるなど、引き続き日本SFの復興に意欲的な協力を見せており、新作も次々と発表されています。伴名自身、「あとがきにかえて」(『SFマガジン』2019.10)で、熱烈に「SFへの限りない憧憬」を語っていたように、SFという文芸ジャンルに特権的な魅力を感じているのでしょう。確かに、本連載の問題意識に照らしてみても、SFという表現形式は、並行世界の問題系に対してさまざまな思考のレッスンを提供してくれるものでした。ゼロ年代以降、それまでになくSFの物語文化が再び擡頭してきたことは冒頭に述べた通りですが、それはSFに託された認識論的な思弁が、単なる娯楽としての側面を超えて、ある種の切迫したアクチュアリティを帯びはじめていたことの証左であるようにも思えるのです。

 次回は、これまでの議論を整理し、全体のまとめと展望めいたものを述べたいと思います。

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