在留外国人の数が多くなり、政府や地方公共団体も広報活動、公共施設での通訳・翻訳、緊急時の広報などの必要性が出てきた。そこで出てきたのが「やさしい日本語」である。「やさしい日本語」の意義・必要性などの理念を説明することに関しては政府や地方公共団体の得意とするところである。しかし、具体的に「やさしい日本語」をどのような言語形式で示せばいいかについては専門外である。言語学者の援助を得ていることは各公文書の後書きにも書かれているが、どの政府や地方公共団体の「やさしい日本語」を見ても大同小異である。独自で作り上げたというより、他府県の「やさしい日本語」を参照したと想像される。今こそ、言語学的な観点から「やさしい日本語」を考え直すべき時だと思われる。
第5回で述べたように、東京都国際交流委員会、国際交流・協力TOKYO連絡会は、2015年に全国の国際交流を行っている197の地方公共団体やNPOに対してアンケート調査を行って163団体から回答を得た。その中で、「「やさしい日本語」に取り組みたいがノウハウ・方法・進め方が分からない」という回答を寄せた団体が15%あった。「「やさしい日本語」に取り組む必要がある」という意識はあるが方法が分からない、したがって、他の地方公共団体の方法をそのまま模倣するということが一般的になっているのが現状だと想像する。真に有益な「やさしい日本語」に取り組むためには、実際に在留外国人に調査を行う必要があると思う。
1. ‘foreigner talk’ の視点から客観的に見ると、「やさしい日本語」は在留外国人に「やさしい」のか。
「やさしい日本語」には話し言葉と書き言葉の両面があり、まず、話し言葉について考える。Georgetown大学に留学中、社会言語学者Roger Shuy(1931年-)先生の授業を受けたことがある。授業の一環として ‘foreigner talk’ の実験を行った。具体的には、英語母語話者の学生と私のような留学生がペアになり、街に出て通りすがりの数人の英語母語話者に時間を空けて別々に道を聞く。ある程度説明を聞いた後、「よく理解できなかったので、もう一度話してくれ」という意味で、“Excuse me?” とか “I beg your pardon?” と聞き返し、その返事を比べるというものだった。母語話者と外国人との間で返事の仕方に差があるかを調べるという調査であった。母語話者の場合には、“Excuse me?” の前の重要な情報のみを繰り返して話してくれた。例えば、繰り返して言ってくれるのが「三番目の通りを右に~」の「三番目」とか「右」であるのに対し、私の場合には、最初からゆっくりと、ジェスチャーを加えて話してくれた。これが ‘foreigner talk’ である。英語母語話者が持っている「やさしい英語」の概念が示されている。しかし、これは外国人にとって本当に「やさしい英語」なのかは別問題である。
旅行中に親しくなったアメリカ人との実際の体験であるが、観光地のいわれが書いてあるボードがあり、私が読もうとすると、アメリカ人が代わりに読んでくれたのであった。第1回にも書いたが私にとって「やさしい英語」は書き言葉であり話し言葉ではない。よく考えると、アメリカに長年住んでいる外国人には話し言葉には不自由はないが読み書きに不自由な人が多いが、反対の例は少なく、そのアメリカ人は持っている「やさしい英語」の概念で親切に対処してくれたのだった。また、外国人が分かりやすいように英語母語話者はゆっくりと話してくれることもあるが、それぞれの語は普通の速さで、語と語の間のポーズをゆっくりともうけてくれるだけであるのが一般的であった。私にとっては、それぞれの語の音節をゆっくり話してくれた方が聞きやすかった。英語の発音はsyllable(音節)を単位にした言語で、音節の長さを変えて発音することはできないのであろう。このように「やさしい英語」も受け取る人によって違いがあるのだ。
1.1. 話し言葉としての「やさしい日本語」の発音について実地調査を行うべきである。
「やさしい日本語」についても、実際本当に「やさしい」のか実験的な調査を行うべきだと思う。発音に関して日本語はmora(拍)を単位にした言語で、等時拍と言われる通り理論的には全ての拍の長さは同じであるはずである。しかし、方言によって、世代によって拍の数え方が変ることもある。昔、東京の非常勤先の大学の授業で「日本」を、ニ/ッ/ポ/ンのように4拍で読むか、ニ/ッ/ポンやニッ/ポ/ンのように3拍で読むか、ニッ/ポンのように2拍で読むかを学生に調査したことがある。促音「ッ」も撥音「ン」も理論上では独立した1拍になる。ちょうど当時、応援手拍子の「日本チャチャチャ」と言うのがはやっており、調査を行った。果たして、ニッ/ポ/ンのように3拍とニッ/ポンのように2拍が多数であったように記憶している。人によって異なることも分かった。上智大学のスペイン人の先生は、「卒業単位が足らないよ」を「卒業谷が足らないよ」と発音しておられたのも記憶している。スペイン人の先生には拍の長さを保つのが難しいのがわかった。多くの外国人日本語学習者にとって、促音、撥音、長音を発音するのに問題があるのを経験している。
また、在留外国人にとって日本語の音韻を聞き分けられない場合も考えられる。私の英語の経験で言うと、‘right’と ‘light’ のような/r/と/l/の音韻的区別、/b/と/v/の音韻的区別は難しい。‘year’ と‘ear’ は同じように聞こえて/y/や ‘woman’ の/w/の音韻は聞き分けられない。‘woman’ の発音は /w/の発音ができなくて ‘human’ と間違われた。中・高の英語の授業で何度もテープの音声を聞かされ、「よく聴いて区別を習得しなさい」と言われたが、聞き分けられなかった。アメリカ留学中に、言語形成期を過ぎてアメリカに来て英語を毎日聞いて数十年住んでいる日本人を対象に実際に区別が出来るようになるのかを調査したことがある。結果は「言語形成期以降いくら訓練しても母語にない音韻的差異は習得できない」という結論であった。私の場合には文脈で判断している。“Turn to the light.” という英語はないので、“Turn to the right.” と言っていると/r/と/l/の音韻を判断していた。中国に1年間日本語教師として滞在していたが、破裂音の有気音と無気音の区別は困難であった。
豊橋市多文化共生・国際課『「やさしい日本語」を使ってみよう!』(2015年)では、
★ゆっくりはっきり発音する
ゆっくりはっきり発音することで理解しやくすなります。
京都市保健福祉局障害保健福祉推進室『「分かりやすく伝えるため」の手引き」』(2018年)でも、
(4)全体的にゆっくりと,一語一語はっきり発音する
のように、「やさしい日本語」を話す場合には、「文節ごとにポーズを置いてゆっくり話せ」とほとんどのマニュアルに書いてあるが、発音の問題も実験的な調査を行うべきだと思う。例えば、「日本」をニ/ッ/ポ/ンのように、ゆっくりと4モーラで話すことは日本人には困難であるし、外国人にモーラがどのように聞こえるかも不明である。また、韓国語母語話者にはいくらゆっくりとはっきりと発音しても清音と濁音の区別を聞き分けるのは困難、もしくは不可能であろう。「やさしい日本語」を話す場合には日本人の方から文脈などで分かるように配慮すべきであるように思う。日本人にとっての英語の/r/と/l/の区別のように、日本語にも外国人にとって習得不可能な音韻的区別があることが想像され、習得の訓練に時間を費やすことは無意味である。日本語教育の場では、それぞれの外国人の母語の干渉によって日本語の発音に問題がある時には発音の矯正が必要で、研究には時間が割かれてきたが、それぞれの母語に区別がないため日本語の聞き取りに問題があるかという点には注意が及んでこなかった。外国人学習者がどのような日本語の音韻が聞き分けられないか日本人教員には実感できないからである。外国人の母語によって聞き分けられない日本語の音韻があることが想像され、その場合の対応の仕方にも研究の余地がある。
1.2. 書き言葉としての「やさしい日本語」については、情報量を減らさない「やさしい日本語」を対象に実地調査を行うべきである。反対に、どこまで情報量を減らしても意思伝達に支障がないかも実地調査を行うべきである。
書き言葉としての「やさしい日本語」については、教室において留学生対象にいくつかの調査が行われているが、ほとんどの場合は一般的な日本語と情報量を減らした「やさしい日本語」を比べて、「やさしい日本語」の方が理解度が上がるという結論を出している。第7回で示したように情報量を減らせば分かりやすくなるのは当然で、‘plain English’ のように同じ情報量を盛り込んだ調査文で実験を行うべきであろう。実際に、在留外国人を対象にどのような日本語が読みやすいのか、また、聞きやすいのかを調査する必要があるのではないであろうか。また、反対に、どこまで情報量を減らしても意思伝達に支障がないかも、確固たる指標がないと思う。それぞれの地方公共団体が独自で判断しているように思う。この調査も行うべきである。
1.3. 「やさしい日本語」の漢字にはルビを振ってあるが、その有効性について実地調査を行うべきである。
地方公共団体が在留外国人向けにHPや公文書として提示している書き言葉としての「やさしい日本語」にはルビが振ってある。第4回で示したように、ルビの有効性には賛否両論があり、結論が出ていないというのが現状である。オールドカマーと呼ばれる永住者では、日本には長年暮らしていて、話し言葉には不自由がないが書き言葉は苦手だという人は多いであろう。しかし、就労ビザで短期で来日している在留外国人にとっては事情が異なると思われる。日常会話に使う一般語彙については読めないが聞けば分かるという漢字語彙は多いと思うが、専門語彙については漢字によって理解するために、読めないと聞いただけでは理解できないと想像する。私が教えた留学生は日本語能力試験試験に合格するために書き言葉中心に学習している。日本人には難しい漢字にルビを振るということは考えられるが、反対に就労ビザで短期で来日している在留外国人には一般語彙で使われている簡単な漢字に対するルビの方が有効なのかもしれない。専門的な職種に就きたい外国人には漢字学習を含んだ専門的日本語教育を与えることが必要なのかもしれない。実際に在留外国人に対して調査を行ってルビの有効性の検証を行うべきであろう。漢字を母語に使っている中国人にとっては漢字がある方が分かりやすい。中国滞在中、私は中国語は話せないが、漢字が使われているため読めば意味がわかるため書き言葉についてはあまり大きな問題は起らなかった。漢字を母語で使っているかどうかも重要な点である。
1.4. 外国人の話す「やさしい日本語」の訛りや間違いについて理解許容範囲を実地調査する必要がある。
また、日本の公的機関から一方的に在留外国人に「やさしい日本語」を使って意思交流を行うだけでなく、日本人にとって在留外国人が日本人と違う訛りのある、間違った「日本語」を使っていても、どこまでだったら理解可能なのかも知る必要があると思う。私は大学や日本語学校において留学生対象に日本語を教えてきた経験がある。訛りがあったり少々間違った日本語であったりしても、理解ができる限り指摘しないようにしていた。第1回で、「授業では英語で発言することはなかった。もし文法的にも発音の面でも間違った英語で話して笑われるのが怖いという恐怖心があったからである。」と述べたように、苦い経験があるからである。他の日本語教師を見ていると、誤りを指摘する教師や理解できれば許容する教師がいると思う。日本語として理解許容範囲を調査する必要があると思う。
英語については世界共通語として多くの国で学ばれ、使われている。英語では ‘World Englishes’ や ‘Global Englishes’ と言う考えもある。英語が世界の共通言語として使われている現在、アメリカ英語やイギリス英語等のように母語として話されている英語もあれば、インド英語やシンガポール英語のように第二言語として話されている英語もある。母語で話されている英語をまねて学習させるのが英語教育の目的でなく、それぞれの国の母語の影響があっても英語として認めてよいという考えである。しかし、訛りの残る英語であっても、他の英語を話す人々に通じなければならない。インドに留学していたことがあるが、インド英語は最初は独特の訛りがあって聞きづらかった。そこで、英語を母語とするアメリカ人に、「インド英語ってわかりにくいよね。」と聞くと、「そんなことはない。おまえの英語よりずっと聞きやすい。」と言われたことがあった。インドはイギリスの植民地としての歴史が長く、交流を行ってきた結果、イギリス英語とは異なるが、英語母語話者にも理解されるインド英語を完成させたのだろう。どこまで訛りがあっても理解可能かという点は重要であると研究者の間では指摘されているが、言語学的な客観的な基準はまだ示されていない。
かつて、台湾旅行中に、高砂族と呼ばれる原住民と台湾人・本省人と呼ばれる明や清の時代に移住してきた中国系移民の間で、また、韓国旅行中に、台湾から来た観光客と韓国人店主の間で日本語が共通語として使われているのを見て驚いた記憶がある。第二次世界大戦以前の植民地日本語教育の名残であった。台湾においては、原住民と中国系の本省人とは母語が異なり、共通語として使われたのが日本語であった。韓国においても日本語が公用語として使われた。しかし、「やさしい日本語」は国際共通語として非日本語母語話者、在留外国人の日本語という概念は無いと思う。「やさしい日本語」は現段階では、日本語母語話者から非日本語母語話者への意思疎通手段の役割しか持っていないと思う。
2. 「やさしい日本語」に多義語に対する考慮が必要である。
「やさしい日本語」に使う語彙として日本語能力試験のN3~N4で出題される語彙という制限があるので、何が難しいのかの基準を示す必要がある。そもそも日本語能力試験出題基準の語彙自体がどのような基準で制定されたのであろうか。押尾和美・秋元美晴・武田明子・阿部洋子・高梨美穂・柳澤好昭・岩元隆一・石毛順子「新しい日本語能力試験のための語彙表作成にむけて」(国際交流基金『日本語教育紀要』第4号、2008年)によると、辞書、会話コーパスなどをデータベースとして以下の基準で制定している。
ア 主に頻度を重視して採否を決める。
イ 機械的に頻度の高いものから採用するのではなく、日本語教育経験者の視点も加える。
ウ 現行試験の『出題基準』語彙表も参考にする。
エ 最終的な語数は、日本人成人の獲得語数などを参考にした上で決定する。
国広哲弥氏は『理想の国語辞典』(大修館書店、1997年)において、多義語と同音異義語の区別をどう判断すべきかにしても、多義語の配列法を①頻度順、②年代順、③意味関係という三つの原則のどれに重点を置くかにしても、各辞書によって異なり統一がないと述べている。そして、国広氏は意味関係による記述を試みているが、まだ研究途上であるとも述べている。
まず、行うべきは、多義語化している語彙の難易度を検証することだと思われる。本義から派生という道筋は認知言語学の研究成果で分かるが、難易度の判定は示されていない。認知言語学で示された本義から派生の道筋はどの言語でも同一なのかという疑問点が湧く。大神智春氏は次のように述べている。
中国語母語話者および韓国語母語話者を対象に,多義動詞「とる」で形成されるコロケーションの習得について調査した。まず(1)日本語母語話者が認識する「とる」の意味体系を整理した。次に(2)学習者が考える「とる」のプロトタイプ,(3)「とる」で形成されるコロケーションの理解について調査・分析した。その結果,(1)母語話者が考える意味体系と辞書的体系はおおよそ一致するが一部相違が見られる,(2)学習者と母語話者が考えるプロトタイプにはずれが見られ,学習者は独自の意味体系を構築していると考えられる,(3)学習者は多義性についてある程度習得するが,共起語として使用できる語の範囲は広がりに欠ける。各コロケーショ ンの用例を「点」として習得し,習得した知識は「面」として広がりにくいことが示唆された。
(cf. 大神智春「多義動詞を中心語とするコロケーションの習得」『日本語教育』166,2017年)
とあり、言語普遍的な多義語の習得過程は否定されている。そうなると、本義から派生への道筋を難易度の基準としては使えない。
使用頻度なのか、使用範囲なのか、どのような統計的な基準で基礎語彙の難易度を判定してよいのであろうか。貞光宮城氏(cf. 貞光宮城「認知言語学的観点から多義語の意味記述を考える──英単語trap を例に──」『追手門学院大学国際教養学部紀要5』、2012年)によると、『ロングマン英和辞典』(2007年)では頻度順に多義語の意味を記述している。日本語の国語辞書も語義記述については、分類の仕方、記述順など各辞書によって違いがあり、記述順と語義の重要度が対応していない。したがって、語の項目で最初に記述された語義を各語彙の本義として採用し、それによって「やさしい日本語」に使われるべき語の意味として選定することはできない。「基本的な日本語を理解することができる」程度の日本語能力N4級の出題基準には多義語について配慮がなく、多義語の中で外国人学習者にとってどの語義がやさしく、どの語義が難しいのか判断する基準はまだ研究成果として示されていない。
貞光氏は母語話者が多義語をどのような過程で習得していったかという認知言語学的な心理的実在に基づいて記述して教える方が有効的だと示している。しかし、この心理的実在を確かめることが出来るのであろうか。また、森山新氏は以下のように述べている。
動詞は共起する項が動詞自体の意味と密接な関係があることから、全般的に項構造を重視した意味記述を行うことが有効であるが、それぞれの動詞によって意味拡張のしかた(動機づけ)が異なっており、その点を十分考慮して内省分析を行う必要がある。
(cf.森山新「日本語学習辞典開発のための多義基本動詞の意味構造分析法の確立−内省分析を中心として−」『日本認知言語学会論文集17』 pp.402-408、 2017年)
コロケーションが重要で、また、主観的な内省に頼る必要性を説いている。私も第3回で日本語教育向けのコロケーション辞書の必要性を述べた。
大学院生時代、機械翻訳のための辞書作りのアルバイトをしていたことがあった。記載すべき基礎語彙の選択を行う必要があり、日本語教育の場で基礎語彙をどのように選択したかを調査した。専門家数人に集まってもらい、それぞれの内省に頼って「重要だ」と思う人数の多い語彙を選択したのがわかった。しかし、客観的な基準は制定することは困難なのであろうか。そうなると、「やさしい日本語」は日本語能力試験N4程度の語彙で書くという原則は、多義語については守ることが困難である 。
3. 専門用語を「やさしい日本語」に書き換えたり、「やさしい日本語」で説明したりすることは可能なのか。
専門用語については第4回で書き換えや説明について述べた。果たして、全ての語は書き換えや説明で外国人に知らせることができるかという問題を考えた。昔、辞書記述について考えたことがあるが、基礎的な語彙ほど定義が難しい。例えば、「右」を辞書で調べると「左」の反対、「左」を辞書で調べると「右」の反対のように巡回定義を行っている場合がある。「右」の定義について、『広辞苑』では「①南を向いた時、西にあたる方。<>左」、『明鏡国語辞典』では「①人体を対称線に沿って二分したとき、心臓のない方。体の右側。」とある。他にも、『新明解国語辞典』では「アナログ時計の1時~5時までの表示がある側。」、『岩波国語辞典』では「この辞書を開いて読むとき、偶数のページのある側」、『例解国語辞典』では、「人のからだで、心臓のない側。また、野球で言えば、キャッチャーから見て、一塁側にあたる方角。」、『大辞泉』では「大部分の人が食事の時、箸を持つ側。」のように説明している。要するに、「右」を言葉で説明することが難しく、方向、人体、時計、野球場のように外界に存在するもので説明をしている。昔、教科書でアン・サリバンが視覚と聴覚の重複障害者ヘレン・ケラーに「水」を教えようとして、実地体験で川に連れて行って水に手を触れさせて教えたというのを思い出した。「愛」とか「悲しさ」とか手に触れられない抽象的な概念は難しかったと書いてあった。
この例を見て、「やさしい日本語」でも書き換えや説明できない語を専門語彙として選定し、これらの語彙については、母語辞書に任せるべきであろう。例えば、出入国在留管理庁編の『生活・就労ガイドブック』(2019年)には13の外国語の翻訳版があり、外国人の母語を参照させることが可能である。また、現在ではコンピューターが普及しており、絵や写真をダウンロードして見せることも可能である。第4回で「警察」が説明されていないと述べたが、「警察」のない国はないと思われ、外国人の母語翻訳版で、例えば、英語で ‘police’ と翻訳するとすぐに理解されると思われる。また、日本に滞在している外国人であれば「警察署」や「警察官」を見たことがない人はなく警察官が立っている警察署の写真や動画を見せればすぐ分かってもらえると思われる。しかし、抽象的な概念の語彙は絵や写真で見せることはできない。どのような語を書き換えや説明できない語、専門語彙として選定するかの基準を作る問題は依然残っている。
本来日本語能力試験3~4 級の能力、すなわち「基本的な日本語を理解することができる」程度の日本語能力でも理解できる言語として「やさしい日本語」が考案されたが、専門用語をみると日本語母語話者でも説明が必要な語が使われていて、在留外国人には「やさしい日本語」の範囲内で理解・使用が困難なのではないのであろうか。そうなると、在留外国人の母語で翻訳するということが必要になる。しかし、英語のように翻訳者が見つかりやすい主要言語であれば良いが、日本には多くの国から労働力供給のために外国人が来日しており、全ての公文書を外国人の全ての母語に翻訳するのは難しいと思われる。そこで、機械翻訳が登場したのであるが、どこまでAI自動翻訳ソフトを信用できるのであろうか。機械翻訳の問題についても後の回で述べたい。
4. 「やさしい日本語」ではジェスチャーは使うべきではないのではないのか。
第8回で「ジェスチャーやサイン文字は世界共通ではなく、文化的個別性がある」と書いた。書き言葉の時には問題がないが、「やさしい日本語」を話し言葉として使う場合にははっきりと分かりやすくということで自然とジェスチャーが伴う場合が多い。問題は使う人がジェスチャーは意識的ではなく自然的に習得したものでどの国でも同じと思ってしまうことだ。大学院時代に ‘non-verbal communication’ (非言語行動)という研究が進み、身振りについても興味を持ったことがある。現在ジェスチャーに関して何冊の辞書が出されているかインターネットで検索したところ、6冊の本が出版されているのが分かった。そのうち4冊は日英対照であった。私もそのうちの数冊は買って読んだことがある。目的は英語を話す場合には英語のジェスチャーを使う必要があったからである。私が習ったWillem A. Grootaers 神父 (W. A. グロータース、1911年- 1999年)は、日本語の翻訳に誤訳が多いことに気づき『誤訳』という本を著わされた。誤訳の理由の一つとして、ジェスチャーについて次のように挙げている。
何かを表わそうとする人間の身ぶりというもの、そのものに問題がひそんでいる。人間のからだはすべて同じ形に作られているのに、身ぶりは必ずしも同じことを伝えない。身ぶりも社会慣習だからである。しかし、これは無意識的な慣習で、しかも、語が句や文に従属しているように、ある体系に従属するというものではない。だから、外国の身ぶりを意味別、国別に並べたような辞書がほしいものだ。また、これと別に、日本語の擬声語・擬態語を説明した辞書も作っておかなくてはならない。(p.20)
(cf. W.A.グロータース/柴田武訳 『誤訳 新版』三省堂、1979年)
「やさしい日本語」を外国人に対して話し言葉として使う日本人は、それぞれの外国人の母語のジェスチャーに合わせてジェスチャーを使うのであろうか。おそらく、無意識に日本語のジェスチャーを使っているものと思われる。そうなると、外国人の方から日本語のジェスチャーを習得する必要があるのであろうか。どちらも難しいと思われる。そうなると、使うべきではないというのが結論なのであろうか。
5. 「やさしい日本語」の使用範囲を限定して、充実を図るべきではないか。
第1回で次のように書いた。
「やさしい日本語」の問題が表に出て論議されるようになったのは、1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災をきっかけに、減災のための情報を外国人に分かりやすい日本語で発信しようと、弘前大学の社会言語学研究室の佐藤和之氏が考案したのが始まりであろうと思われる。それが最近では、多文化共生の問題として取り上げられることが多くなった。日本の少子化を補うために、労働力供給のために外国人が必要になったためである。
根本的には「やさしい日本語」は初期段階の日本語能力しかない外国人でも、緊急時にも日本に安全に住めるようにという思慮から起った活動であるように思える。緊急時の避難場所、ゴミ出しなどの生活のために基本的な日常生活を送れるように考え出された言語であったが、学校、役所、病院、警察署など公的な専門用語が必要とされる分野にも広まっていったのが問題なのではないだろうか。日本人にとっても専門用語を含む高等教育が必要とされる職場、役所、学校において、日本語能力試験N4程度の日本語を使って、日本語を母語としない在留外国人と意思交流を行うこと自体が不可能であると思う。仕事場での資格試験、例えば、介護福祉士の国家試験の簡易化が提案されたが、専門用語についてはそのままであり、病院での対応などでも専門用語が使われることがある。第7回で示したように、気象庁・内閣府・観光庁『緊急地震速報・津波警報の多言語辞書』でも、2015年には5言語と「やさしい日本語」であったのが、2020年には14言語に増えている。出入国在留管理庁編の『生活・就労ガイドブック』でも、2019年には日本語版、英語版、ベトナム語版の3言語しかなかったが、2020年には日本語・中文(中国語)・코리언(韓国語)・Português(ポルトガル語)・Tiếng Việt(ベトナム語)・ภาษาไทย(タイ語)・Bahasa Indonesia(インドネシア語)・ភាសាខ្មែរ(クメール(カンボジア)語)・Pilipino(フィリピノ語)・English(英語)・Español(スペイン語)・नेपाली भाषा(ネパール語)・မြန်မာဘာသာစကား(ミャンマー語)・Монгол(モンゴル語)の14言語に対応している。「やさしい日本語」は生活の基本的な場面に限定し、専門用語が必要とされる分野については、翻訳、通訳、上級日本語教育に任せるべきではないだろうか。「やさしい日本語」が提唱された一つの理由として、現在日本には数多くの言語を母語とする外国人が在日中であり、全ての母語に対して人間による翻訳が追いつかないので、「やさしい日本語」を仲介言語にするということが言われてきた。しかし、翻訳の分野では機械翻訳ソフトの発展のため役所等の公的な場面で近年使われるようになり始めた。機械翻訳が「やさしい日本語」に取って代わるのかもしれない。この問題は言語政策の問題と直結する問題であり、次回により深く考えたいと思う。
また、「やさしい日本語」が提唱された当初は警報、チラシ等の書き言葉だけであったが、外国人との共生の手段としての役割が重視されるようになって話し言葉としても「やさしい日本語」を活用しようとする動きがある。区別して討議されるべきであろう。これに関連して、かつては日本の公的機関から在留外国人に対する一方的な書き言葉としてしか「やさしい日本語」は考慮されていなかったが、次は相互的な話し言葉としての「やさしい日本語」を考えるべき時になったのであろうか。‘Foreigner talk’ の観点から「やさしい日本語」を考えるべき時になったのであろうか。私の日本語教師としての個人的経験からいうと、母語によって日本語の訛りが異なる。最初は何を言っているのか理解が困難だったが,慣れてくると理解ができるようになってきた。特に発音上の訛りは母語によって異なる。相互的な伝達手段としての「やさしい日本語」を考える場合には、在留外国人の日本語の訛りや誤用を考慮に入れる必要もあるだろう。
‘World Englishes’ や ‘Global Englishes’ のように、話者の母語に応じて違いはあるが世界共通語としての多様な英語を認めようという動きは英語に関してはある。しかし、日本語に関しては、外国人の日本語学習者の誤用に関しては研究が進んでいるが、間違いを正して正確な日本語を使うようにとさせるという日本語教育の観点からの研究である。‘World Japanese’ や ‘Global Japanese’ という観点はまだないが、このまま在留外国人の数が多くなると、世界共通語としての日本語を考えなければならない時が来るのであろうか。
‘Japanese Japanese’ (日本人の日本語)というようなものがあるとするのなら、それは日本社会に根ざした日本語であろうと思われる。日本人でない外国人が世界共通語としての日本語を使おうとすると、言語的には敬語、オノマトペ、非言語的にはジェスチャー、対人距離などは述べてきたように母語として習得していないと学習困難であろう。私の個人的な経験で言うと、英語を話す国には7年ほど住んでいたし、旅行、調査、教育などを入れると15年ほど英語を使ってきた。英語を話すときには英語母語話者の生活に入り込むので、ジェスチャー、対人距離など日本社会と異なる習慣に適応することもある。ある意味では、二重人格的な適応を行うこともあるが、やはり根本的には日本人である。世界共通語としての日本語、そこまで行かなくとも、日本人との共通言語としての「やさしい日本語」では敬語、オノマトペ、ジェスチャー、対人距離などは日本人と同じ習慣を求めることはできないであろう。求めるとすれば、日本人になれというのと同義であろうと思われる。世界共通語としての日本語を考えなければならない時が来るのであろうか。