平成期を代表する受賞作
重里徹也 いい小説ですね。平成の芥川賞作品を代表する小説という気がします。
助川幸逸郎 どういう意味あいになりますか。
重里 いくつかのエレメントを挙げられます。平成期の日本人の心の持ちようがいくつかの角度から、鮮やかに描かれています。それは、女性が企業において総合職で働くということに伴う問題でもあるし、恋愛ではない男女の友情というか、同士愛というか、職場の同僚というか、そういう関係も描かれている。もちろん、バブルからバブル崩壊、そして、ポストバブル時代の生き難さ、生き辛さというものも、小説の背景に感じられます。景気に振り回されて、翻弄される心情というのは、同時代を生きた多くの人が思い当たることでしょう。
一方で、生きること自体の希薄さ、生と死の境界がぼんやりとしている感覚も覚えがあるものです。突然に死者と交流する感じが平成的だなあと感じるのです。また、ネットが広がる中で、パソコンという機械が持っている冷ややかな感じ、無機質な感じも端的に表現されています。東京と地方の関係も無理なく出ていますね。それから、太っちゃんの夫婦を考えると、女性が年上で男性よりしっかりとしているカップルというのも非常に平成的だといえるでしょう。いろいろと話してしまいました。実に平成的な小説だと感じたのです。平成の世相と人々の心の底にあるものを鮮やかに代弁していると考えました。
昼間に出る幽霊
助川 本当にそうだと思います。特に生と死の境界の希薄さというのは、すごく面白いなあと思いました。若い女性の友人が、「村上春樹の幽霊は夜出るけれども、絲山秋子の幽霊は昼に出る」と言っていました。つまり、死者の世界とつながっているというのが、絲山の場合は非日常ではないのですね。日常空間の中に平気で幽霊が出てくる。村上春樹の小説に出てくる幽霊はやっぱり非日常的なんです。だけど幽霊が非日常にならないというところが、すごく平成っぽいのですね。
霊界だとか外部みたいなものがある種特別な空間として村上春樹の世界では信じられている。それはある意味では、村上春樹の感覚の古さなのかもしれない。幽霊が日常にポーンといる絲山作品の感じ、全然、違和感なく幽霊がすぐ側にいる感じっていうのが、むしろすごく現代的なのかなっていう感じがしましたね。
重里 二十世紀末から二十一世紀初頭の日本文学を代表する村上春樹や小川洋子の作品世界では、日常の裂け目に異界が生まれて、境界と日常の境界がはっきりとしているのですね。それは、坂だったり、エレベーターだったり、道路のカーブだったりするわけです。ホテルの特定の階であることもあれば、特殊な博物館だったりもするわけです。それで、登場人物(多くは主人公)たちが異界と現実を往還する感じなのです。ところが絲山秋子の場合は、異界即現実みたいなところがある。異界とも呼びにくいわけですね。現実と異界が入り混じって、混沌としている。この感覚がとても平成後期的なのだろうと思うわけです。新しいといってもいい。
助川 日常が退屈で、安定していて、それに対して非日常があるという生存感覚が、村上春樹とか小川洋子にはあるんだと思います。ところが、日常が安定を保証してくれないのが現代なのでしょう。すごく不安定な、上の世代から見ると日常とはいえないような空間、時間を日常的に生きているのが平成の生活実感なんだという感覚があるのでしょう。だから、普通に昼間に幽霊が出てくるわけです。これが平成期の若者の実感なんでしょうね。
重里 日常自体がもがき続けてないと生き続けられないようにできている。そんな世界で暮らしているのだという実感ですね。夜には怖いことが起こるかもしれないけれど、やがて朝がきて、そういう世界は消えてしまう、というのではないのですね。昼も夜もなく、死者たちが跳梁跋扈している。そんな中で、あせりながら、後ろを見ないようにしながら、必死にもがいて日常を生きるしかないという感覚ですね。
助川 我々が学生だった頃は、働いたらもうおしまいだとか、社畜になりたくないとか、言っていたわけです。でも、社畜になれたら上等じゃないですか、今の若者にとっては。
重里 正社員という社畜になりたいのだけれど、なかなか思うようになれないのが、今の若者が置かれている状態ですね。
助川 そうです。社畜になるのが夢なわけです。ちゃんと定職について、終身雇用に組み込まれるというのが我々にしてみるとディストピアだった。ところが、今では、そうなるのが憧れなんですね。もしかすると非正規で何カ月単位とか何年単位でしか雇ってもらえないかもしれない。正規でいてもいつリストラされるかわからない、いつ会社がつぶれるかわからない。企業のサイクルが今ものすごく短くなっています。この間読んだ本に書いてありましたけど、企業の平均存続年数って今、三十年ないんです。ということは、一人の人間が二十二歳で就職して、定年まで同じ組織で働けない率が高いわけです。企業の寿命の方が一人の人間の労働寿命よりもむしろ短い。以前は転職したりすると、あの人は腰が落ち着かないみたいな悪口を言われたりした。現在では、誰もが転職を絶えず考えないと生き延びられないわけです。
重里 これはリアルな現実ですね、今の。
助川 で、そうなると日常は幽霊が出ちゃうような不安なものになっていく。村上春樹とか小川洋子の感覚だと、定職に普通に就いて堅実に終身雇用がある。ところが、それでやっていけなくなる。人生に疑問を覚えたり、人間関係がまずくなったり、心を病んだり、身体を壊したり。そういう時に幽霊が出るわけですね。だけど、絲山の世代になってくると、もうそれが違うっていうことだと思います。
重里 そこは、日本人が陥っている新しい状況を上手く形にしているのだろうと思います。
助川 それから、少し前に大ベストセラーになった『君の膵臓を食べたい』もそうだったんですけれど、福岡が出てきますよね。どうしてこういう時に福岡が出てくるのかなっていうのは、福岡にお住まいだったことのある重里先生に語っていただきたいなと思ったんですけど。
重里 絲山自身が暮らしたことがあるから選んだ土地でしょう。ただ、小説として、絶好の選択だったような気がします。私は若い時に十年ぐらい福岡で暮らしました。とても住みやすい街ですね。イメージとしては明るくてラテン的な感じ。人が良くて、物価が安くて、魚も野菜も肉も美味い。これは客観的にそうでしょうね。首都圏には、関門海峡から向こうには行ったことがないという人もいるでしょうけれど、福岡に行ったら、こんなに都会だったのかと、この登場人物たちのように驚くかもしれません。方言が残っているのも土地柄を感じますね。
助川 結局東京に従属して東京の方を向かなくてもある種自立できるだけの経済力とか文化圏があるから方言が残るわけですよ。
重里 それから新聞記事みたいな言い方になりますが、台湾、中国、朝鮮半島、東南アジアとは東京を介さないで直接にやりとりができるという地理的優位さもあるでしょうね。それはこの何千年も日本列島の中で、博多や九州が果たしてきた役割でもあるのだろうと思います。
効率優先と女と男
助川 太っちゃんは効率が優先される今の時代に、完璧に背を向ける存在なわけですよね。そういう人間が、結局幽霊になっちゃう。効率に背を向けた人間の存在価値というもの、かけがえのなさみたいなものが、すごくきちんと描かれているなという感じもあります。
重里 太っちゃんはずっと福岡にいたら、死ななかったかもしれませんね。それから、太っちゃんの奥さんが凄くよく描けていると思います。肌感覚では一九九〇年代ぐらいから女性が年上のカップルが日本に増えてきた。その典型例かもしれません。それで、女性がとてもしっかりしていて、生き辛い世の中を何とか、乗り越えていく。
助川 女性の方が突っ張っていて頑張っている。効率化した世の中に適応して生きようとしている。ところが、この効率への適応化というもの自体が男社会の論理ですよね。人を能力とか機能に還元して評価していくという仕組み自体が、実は女性を踏みにじってきたシステムなわけです。自分を踏みにじってきたシステムに適合しないと自分が生き残れないという分裂がある社会で、太っちゃんみたいな自分を踏みにじっていくシステムには絶対に入り込めないような人間が女性から見ると癒やしになっていくというのはすごく上手く語られているという感じがします。
重里 だから太っちゃんの奥さんは、太っちゃんを見てビビッと来たのでしょう。そこは上手いし、よくわかるところですね。
助川 絲山さんは『薄情』とか、『夢も見ずに眠った。』とか、やっぱり効率化された社会からドロップアウトしていく男性とか、あと地方都市のライフスタイルとかを鮮やかに描きますね。この現代の先端的なものから零れ落ちていくようなものを描くのがうまい。それを抱えていく混乱を描きながら、結局そういうものを切り捨てていった生き方はいかに人間を干からびたものにしてかを描いているのですね。そこに合わせて生きていくと、鍋の中で煮られているカエルのようにいつの間にか心を病んでしまって生きていけなくなったりするんだと。
重里 『ばかもの』という忘れられない作品もありましたね。地方都市で暮らす豊かさみたいなものを肌でわかっている作家ですね。私はインタビューした時に日本の街で一番好きな街はどこですかって聞いたら、「唐津」とおっしゃっていました。佐賀県の唐津というのは、海洋都市というか、明るくて、海の近くにあって、開放的な感じがして、だけど伝統も生きていて、いい街ですよね。福岡市からも交通が便利だし。絲山がなぜ、熱心な阪神タイガースのファンなのかも、わかるような気がします。
大平か福田かという分かれ目
助川 大きな話になっちゃうんですけれども、大平正芳という政治家がいましたよね。あの人は何を目指したかって言うと、日本をドイツのような国にしたいと。どういう意味かというと、ドイツは小さな国家がいっぱい集まってできた国なので、地方都市の個性がそれぞれに強い。そういう「珠玉のごとく美しい地方都市が連なった国」に日本をしていきたいと大平は言っていた。でも、バブルがあり、日本はずっと中央集権化して一極集中の方にいっちゃったわけです。
大平は志半ばで病気で死んでしまったのですけれども、大平と福田赳夫の対立が一九七〇年代の末にあって、中央が地方を強力に統括するという、福田がめざしていた方向がその後主流になった。それで、安倍ちゃんなんかは福田の正統後継者でしょう。高度経済成長が終わった後、日本には、中央集権を強めていくのか、地方を活かすのか、という分かれ道があったような気がします。大平と福田、それぞれが代表していた政策のどちらを選ぶのか。実はそこが、日本の将来を分ける政策上の対立点だったんじゃないかと思っています。
重里 辻井喬(堤清二)は大平の評伝を書いています。インタビューをした時に、大平を「人間の顔をした資本主義」をめざしたと言っていましたね。「人間の顔をした社会主義」のもじりでしょうが、わかりやすい大平評だと思いました。魅力のある政治家だと思いますね。本人は確かキリスト教信者ですよね。
助川 英国国教会だったでしょうか。
重里 それもあって、国際的に物事を考えるという傾向があったのかもしれません。落ち着いた保守主義者ですね。自民党の保守本流を受け継ぐ政治家だったわけです。そこに日本の保守政治の一つの可能性があったのだろうと私も思います。
助川 大平と田中角栄は単に権力の数合わせでつるんでいたわけじゃなくて、中央集権に対する抵抗であり、もう一つは中国なんですね。中国と上手く付き合わないと地政学的にいってこの国は生き延びられないという問題。それからやっぱり東アジアの大きな主導権とかは人口から言っても中国が握っていくという中でどう対抗するかってことを冷静に考えなきゃいけないって問題。
地方分権と中央集権、どちらを選ぶかという問題は、アメリカへの隷属からの脱却をめざすか、アメリカにきっちり寄り添うことを国益の第一と考えるかという外交上の選択と連動しています。アメリカ最優先を外交の大原則にしていくには、中央が強力な統括力を発揮しなければならない。反対に、たとえば北海道民から「自分たちはロシアの影響をあれこれ受けざるを得ないので、ロシアを重視した外交をやってくれ」という声があがったとして、それに応えるには、何があってもアメリカ・ファーストの外交姿勢では無理なわけです。
大平や田中が抱えていた問題をその後の日本はものすごく軽視していたっていうことが今の日本の苦しさにつながっている面はあると思います。絲山がすくい上げている問題というのは、私はその大平の問題につながっているのではないかと感じています。
重里 私自身は日米を日本外交の基軸に置くのは当然だと思います。ただ、一方で「リベラル」を自称する人ほど、田中角栄の可能性、大平正芳の可能性を考えてほしいと思います。
助川 そこが日本のリベラルの限界っていう気がします。特に大平の持っていた地に足がついている一方で、すごく理想主義的なところもある考え方を見直したい思いです。絲山の話をしていて大平に話題を移せば、絲山に怒られるかもしれないけれど。
一九八〇年代前半に日本の分かれ目があったというのは、大きくいうと三島由紀夫が指摘していた問題ともつながってくると思うんです。日本というものの文化的なベースだとか、その地方の人間が持っていた地方都市の等身大の人と人のつながりみたいなものが全部崩れていく。そうしたなかで、鋭敏な文学者たちは古井由吉も、中上健次も、この八〇年代の前半に戦略の転換を図っています。
重里 ただね、大阪がここでいう「地方」なのかどうか、わからないけれど、地方に三十代の後半まで住んでいた人間としていうとですね、日本の首都圏以外の地域の持っているポテンシャルというものは、ほんとうはものすごく高いと思いますね。それは知的な力、思想を生み出す力も高いものがあると感じます。潜在的な力でいえば、経済力も高いのだと思います。たとえば、何か問題が起こった時に、地方の方が頼りになるみたいところがあるわけですね。水俣病が起こっても、東大よりも熊本大学の方が頼りになるわけです。そういうことは頻繁にあるのじゃないか、と私は思っています。
働く人のメンタリティー
重里 ところで、話を戻すと、芥川賞の選評では黒井千次と河野多惠子が『沖で待つ』を絶賛しているのですね。これも印象的なことでした。この時期の選考委員としては頼りになる二人ですね。二人は小説において、「働く」ということがどのように描かれているかを大事にしている選考委員ですね。河野も黒井も、労働というものが持っている意味を考え続けた作家なのだと思います。その二人がきちんと反応しているのも印象的でした。
助川 働いている人間のメンタリティーのリアリティーがすごく出た小説ですね。
重里 特に大手メーカーの営業で働く人のリアリティーですね。ものを売る、つまり現実に手で触れるものを売る仕事のリアリティーですね。それはとても感じました。これは絲山自身の経験もあるのでしょうね。
助川 OLをやっていたんですね。
重里 早稲田の政経学部を出て、総合職でINAX(大手住宅設備機器メーカー)に入ったという経歴が存分に活かされているのだろうと思います。福岡県というのはライバル会社のTOTOの本拠地ですね。
助川 どこで働いていたかという以上に、そこでどんなことを考えたのかということが大事だと思うのです。いろいろな人と付き合っていて思うのは、働いた経験というのももちろん大事だけれども、一般企業にいても、この人官僚的だなっていう人はいるんですよね。要するにお金を儲けることとか、商品を売ることよりも、言われたことを忠実にやっていればいいやっていう体質の人っていますよね。経験もあるとは思うけれど、重里さんとこうやってお話しさせていただいていつも感じるのは、やっぱり古山高麗雄に高校生の時に反応するのってちょっと特別な感覚だと思いますよ。
重里 そうですかね。
助川 生活に根差している人間のリアリティーみたいなものについて、それを蔑ろにすることに対する偽善性を暴く感覚というのが、高校生とか中学生の頃から、もっというと子供のころから刷り込まれていたんじゃないか、という感じかあります。それは家庭環境だったり、生まれつきの体質だったりするのかもしれないけれども。根本的な生存感覚として、日常を生きていくことに対して、きれいごとをいっている奴は許さない、これは偽りなんだっていう感覚がすごくおありになったんだろうなって私は感じます。
重里 そうなのでしょうか。大阪の商売人の家に育ったからかもしれませんね。
助川 私なんかは逆に高校時代はそういうのに全然反応できなくて、それこそ働くようになった結果としてようやくそういうところに気づいたわけです。この点では、重里さんにくらべて天来、自分は鈍かったと感じます。