何を聴き、何を書き留めるのか: トランスクリプトから立ち上がる「発話の権利」(書評 『発話の権利』定延利之編)

吉田悦子
(三重大学人文学部教授)

僭越ながら、編者の「自称・追っかけ」としては、本書の書評を依頼されたことは身に余る光栄以外の何物でもない。最初に本書を手にとった時、まず表紙装丁の奇抜さに驚き、タイトルの周囲に散りばめられた「権利」のキーワードに想像を巡らせながら、高まる期待感に包まれた。本書は、「筆者1人が賢くなるために編まれた、極めて個人的な書籍」(p.8)と記されているが、編者の「発話の権利」の発案に応じて寄せられた7編の論考で構成されており、権利をめぐる発話の解明に挑む秀逸で個性的な研究論文の集大成である。

「発話の権利」とは何かという問いが生じるだろうが、留意すべきは、「発言権」(英語ではfloor)との違いだろう。本書が意図する内容は、「発言権」とはやや異なる捉え方を志向している。「発言権」がもっぱら人間言語の発話に属し、話者交代(turn-taking)に関して使われる用語であるのに対して、「発話の権利」はその領域を超えて、相互行為で自然に立ち上がる「権利」の実態を分析対象としている。それゆえ、人間以外の「発話」や、より多様な参与者が関わるインタラクションを射程に取り込み、インタラクションの中で起こる権利の問題について、切り込むことが可能となる。発話の権利、つまり、「ここで言うべき/するべき事柄か」あるいは、「ここで言う/するのはなぜか」という問題について、それぞれの発話行動のデータに基づき、7つの論考は議論を行っている。                                                                                                                                                                   

ここで評者が試みるのは、トランスクリプト(文字と記号で書き起こされたテキスト)を注視しつつ、これらの7つの論考で議論されている内容に迫ってみることである。トランスクリプトとその記号一覧を手がかりにすると、各研究者がどれだけの情報を話しことばから抽出しようとしているかを、かなり正確につかまえることができるだろう。トランスクリプトに何をどれだけ盛り込むかは、研究領域や研究目的によって異なっており、統一されたルールはない。本書でも、「音声」「行為」その他の付加情報の盛り込み具合は少しずつ異なっている。動物のインタラクションに注目した中村論文を除いて、すべての論考にはこのトランスクリプトが含まれている。

まず、この書き起こし作業を、最も細部まで行うのは、やはり会話分析であろう。言葉だけではなく、ポーズを発話の区切りとして、その長さ、先行発話との重複や、呼気、吸気、笑い、声の大きさや調子、発話速度、抑揚、ピッチ、強勢などの音声情報などわずかな特徴も見逃すまいと、記述に盛り込んでいる。こうした情報を駆使した分析の成果として、串田論文では、モーツアルトの話題に対する「優先的権利をめぐる駆け引き」の実態や、おっちゃんの会話のオーバーラップから立ち現れてくる権限の奪い取り連鎖を突き止めてみせた。さらに、身体的に作り出される発話の権利への意欲や、ビールを飲むタイミングまでも交渉に寄与するプロセスとして、鮮やかに解説している。

同じ会話分析の手法とはいえ、園田・木村論文は、言語の「民族誌的会話分析」と名付けられる分析手法から、バカ語話者の発話の繰り返しと重複に注目した貴重な成果である。異文化のフィールドの母語でない言語による転記・翻訳作業は大変な労力を要し、その困難さは想像に難くない。転記記号は少なく、繰り返しと重複が認められる発話部分のみが原語で書き起こされ、そのタイミングが持つ意味合いの重要性を議論している。こうした現象は「発話の借用」とみなされ、相互行為上の特殊な情報伝達を炙り出している。

さて、身振り手振りなどの行為が加わると、インタラクションはその発話の場面性との関連づけがより強くなることは、串田論文で見た。さらに、細馬論文では、アイドルを推す参与者による再現行為の現場をつぶさに観察し、発言と動作のタイミングをELANで忠実にコーディングしている(ビデオのショットと視線も加わり、複数項目の帯が並行する)。そして、刻々と移り変わるインタラクションの現場を、イラストを駆使して映画のコマ送りのような正確さで捉えようとする。多人数インタラクションから参加者の位置関係や距離、視線の配分(参加者は、モニターも注視する)を分析し、再現行為はアイドルを語る権利を顕在化させるという結論が、構築された重層的なトランスクリプトに基づく深い読みから導かれる。

一方、村田論文ではニュージーランド(NZ)と日本のビジネス場面での談話データを分析対象としており、付されたアノテーションは会話分析に比べるとかなり少ない。ここで注目されている現象は、ユーモアの発話とメンバー間での共有のしかたであり、必然的に笑いの出現部分とそのトリガーになっているユーモア部分を同定して分析されている。結論として、NZではユーモアがパワーのインバランスを調整するストラテジーになっているのに対して、日本の職場ではそうではない。つまり、ユーモアを言う権利は平等に開かれておらず、それは「場」に委ねられるという。データの観察から、ユーモアの発言に対する笑いが起きても「加勢する」動きが見られないのはそのためであるらしい。

村田論文とややジャンルは重なるが、話し合いに着目したビジネス談話場面を扱う高梨論文では、ある職能を持つ参与者が「カテゴリー付随活動」として発話を行う権限を義務ととらえ、話し合いを重ねる場面に焦点を当てる。そこでは局所的な隣接ペアに配慮しつつ、フェーズと名付けられた大局的な談話セグメント内で起こっている発話行動から段階的に議論の進行プロセス全体を見通して、客観的な分析が繰り広げられる。こうした分析から、コンサルタントが駆使するストラテジーとしての権利意識を垣間見ることが可能になっている。

ここで中村論文に移る。中村氏は、チンパンジーの場合には、その個体が属する集団の中で相対的な力関係に基づいて決まってくる権利と、ある行動が起こるコンテクストの中で生じてくる関係性によって生まれてくる権利があることを指摘している。後者は中村氏が「動物たち自身のインタラクションの内部で自発的に立ち上がる「権利」のようなもの」を問題とすることと同義であり、それはまた「えーと」「ね」「た」を発する権利は責任者の特権であると主張する編者の問題意識とも通じている。この中村論文にはトランスクリプトは含まれていない。しかし、ここまでみてきたようにトランスクリプトを駆使すれば、ひょっとしたらチンパンジーのインタラクション行動も書き起こしができるかもしれない。そして、編者のまとめの章にはトランスクリプトはわずかしか含まれていないが、会話場を拠り所としなければ生まれてこない、交渉の中の発話の権利の特徴が余すところなく示されている。

まさしく本書は、編者の予想を少し外れつつも、人間のインタラクションを超えながら、領域を横断しながら、「発話の権利」の実態に迫るものになっている。日々の営みである自然なインタラクションに埋め込まれて、気づかなかった権利という新たなトピックを掘り起こし、それが様々なジャンルで(まさに表紙のキーワードのように)働いていることを発見できたのだから、編者のみならず、一読者である私も賢くなったのは間違いない。


発話の権利
定延利之編
定価2900円+税
A5判 244頁
ISBN978-4-89476-983-0
ひつじ書房

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