「アヴァロン」とは何か
多くの押井守ファンと同じように、僕もまた押井映画に通底している独特の世界観や長大な台詞回し(いわゆる「押井節」と呼ばれるもの)に、昔から深く魅了されていました。加えて、これもよく知られているように、多くの押井映画には、たとえば現実世界と虚構世界の違いはどこにあるのかという、きわめて形而上学的な思弁が頻繁に挿入されており、僕もまたこういった問いの立て方を、押井映画を観ることを通じて学んでいったように思います。
ということで、狭義の文学作品というわけではないのですが、今回は押井守がポーランドで撮影したSF映画『アヴァロン』(日本ヘラルド、2001)を扱うことにしましょう。この作品は、たとえば『GHOST IN THE SHELL』(松竹、1995)や『イノセンス』(東宝、2004)など、他の有名な押井映画に比べると、ややマイナーな位置に属するものかもしれません。その大きな理由のひとつは、押井映画の大半がアニメーション作品であるのに対して、『アヴァロン』は部分的にCGが使用されながらも、基本的には実写映画として撮影されたものであるという点が挙げられるでしょう。その表現上の特質についても論じられるべき点は多くあるのですが、ここでは話題を主に物語内容にしぼり、本連載の議論とかかわる範囲で、その思想的意義を読み取ってみたいと思います。
映画『アヴァロン』は、「喪われた近未来──現実への失望を埋め合わせるべく若者たちは仮想戦闘ゲームに熱中していた」というモノローグで幕を開けます。作中の「アヴァロン」とは、「時に脳を破壊され未帰還者と呼ばれる廃人を生み出す」全身体感型のVRオンラインゲームのことであり、主人公アッシュはゲーム内で凄腕の女戦士として名を馳せていました。(✳)
物語が進んでいくなかで、アッシュは「クラスAの隠れキャラ」である「ゴースト」を討伐することで、「リセット不能の幻のフィールド」=「スペシャルA」へと到達できることを知らされます。「スペシャルA」を目指す他のメンバーとの共闘の末、アッシュは辛くも「ゴースト」を倒すのですが、その直後「Welcome to Class Real」という文字が眼前に浮かび上がり、まったく新しい別世界で、「アヴァロン」のゲームマスターに未帰還者を始末せよというミッションを命じられることになります。手がかりを求めてコンサートホールに赴くと、アッシュはかつて最強と呼ばれていたパーティ「ウィザード」の首領でありながら、もともとアッシュたちが暮らしていた世界で未帰還者となっていたマーフィーと再会を果たします。いくつかの応酬の後、最終的にアッシュはマーフィーを射殺し、物語はコンサートホール内に現れた「ゴースト」の不気味な笑顔と、「Welcome to Avalon」という文字が映し出されることで終焉を迎えます。
作中で解決されない大きな謎となっているのが、アッシュが後半にたどり着いた「Class Real」とはいったい何であったのかという問題です。そもそも「アヴァロン」というのは、現実世界の退屈さを紛らわせるための単なる仮装戦闘ゲームのはずでした。そのなかの「膨大なデータを要求するテストフィールド」に過ぎないはずの「Class Real」が、後述するようないくつかの仕掛けによって、作中で生き生きとした「リアル」な質感を獲得しているのだとすれば、それは何か理屈に合わないような気がします。つまり、ここでは「アヴァロン」という仮想世界のなかに拡がる「Class Real」こそが、真なる現実世界として〝誤認〟されるという奇妙な転倒が生じているのです。
このことは、アッシュとマーフィーが邂逅を果たした後の対話のなかで顕著に示されます。「世界とは思い込みに過ぎない 違うか? ここが現実だとしてどんな不都合がある?」と問うマーフィーに対して、アッシュは「自分にそう言い聞かせて…ただの逃避よ」と応答します。マーフィーが「アヴァロン」内の「現実」を積極的に肯定する一方で、アッシュはそのような「思い込み」は「逃避」でしかないと喝破するのです。そして、「どちらかが死んでその死体が消滅しなければ」、自分たちの〝いる〟いま・こここそが真なる「現実」であると主張するマーフィーと銃口を向け合い、刹那の瞬間でアッシュはマーフィーを撃ち抜くことになります。
しかし、実はマーフィーの拳銃はあらかじめ弾丸が抜かれており、マーフィーは初めからアッシュに殺されるつもりであったことが明かされるのです。そして、死にゆくマーフィーは、アッシュに対して「事象に惑わされるな ここが…お前の現実だ」と呟き、直後にその身体は消滅していきます。要するに、結局「Class Real」は真なる現実世界ではなかったことが示唆されるわけですが、そのことについての明確な説明はなされないまま、アッシュの行方は鑑賞者の解釈に委ねられることになります。
実際のところ、「世界とは思い込みに過ぎない」と述べていたマーフィーが、本当の意味で「Class Real」を真なる現実世界であると信じていたのかは判然としなく、必ずしもその主張を字面どおりに受け取りにくいところがあります。ただ、「Class Real」がそうであったのかは問わないとしても、どこかに還るべき「現実」があるはずだという信念にマーフィーが貫かれていたことは確かでしょう。そうだとすれば、アッシュにせよマーフィーにせよ、結局はそれまで過ごしていた時空間のあり方こそが還るべき〝本来の〟現実世界なのだという、きわめて健全なノスタルジーを抱え込んだ人間たちであり、ゆえに『アヴァロン』は、仮想世界の外部にある〝本来の〟現実世界の唯一性・特権性を称揚する物語作品の一種ということになるのでしょうか。ただ『アヴァロン』には、どうもそれだけでは解ききれないような要素が埋め込まれているようにも思えるのです。
(✳)なお、あるインタビューのなかでも公言しているように、監督の押井自身がかなり年季の入ったゲーマーであるようです。ここで示したような『アヴァロン』の設定には、押井の趣味が多分に反映されていると思われ、同じひとりのゲーマーとしてとても微笑ましく感じます。
「Class Real」はなぜ「現実」と誤認されるのか
ここで重要なのは、後半における「Class Real」の「リアル」な質感が、作中でフルカラーでの映像というかたちで表現されていたことです。『アヴァロン』は、開始してから実に1時間以上ものあいだ、全体の色調がセピア色で統制されており、鑑賞者はおのずと「Class Real」にアッシュが到達した後の鮮やかな色彩変化に驚かされることになります。(✳✳)もちろん、それをある種の映画的な脚色として捉えることもできるわけですが、アッシュ自身もまた、訳が分からないまま投げ込まれた「Class Real」の世界の映り方に、初めは驚いているようにも見えるため、作中の登場人物の視点からも、前半の現実世界は色彩を欠いたものとして映っていたのではないかと推察されます。
しかし、そもそも色彩の変化というのは認識論的なものでしょうか、存在論的なものでしょうか。西欧哲学の領域では、古代からこの問いが絶えず議論されてきました。いま、双方の主張を細かにたどりなおすことはできませんが、ふたつの世界の差異が色彩変化という仕方で表現されているのは、やはり興味深い議論を誘発するものであったように思います。セピア色の世界からフルカラーの世界への変化が、登場人物たちの認識判断のうちに処理されるものであったとすれば、それはマーフィーの述べていた「世界とは思い込みに過ぎない」という主張と的確に符合するでしょう。しかし、上記の変化が、仮に登場人物たちの認識判断の外部で生じたものであったとすれば、それは何より世界そのものの質的な変化であり、「Class Real」がフルカラーになっていることには、何らかの説明がつけられる必要があるはずです。
この点について、最近刊行された一冊の著作を手がかりとしてみましょう。そもそも色彩が〝見える〟仕組みは、その大部分が光の反射に拠るものであり、ごく大雑把にまとめるならば、物体の表面に吸収されない特定の波長を、ある感覚器官が受容した結果として生じるものであることが明らかとなっています。ここから、ともあれ次のようなことが言えるでしょう。
したがって、ポストの赤を見るということは、ポストの表面と光とのあいだで複雑な相互作用が生じていることを原因とする出来事である。ここから、物体の色そのものを、その色の知覚の原因となりうる出来事と同一視すべきと論じることが可能になる。そうするならば、そうするならば、物体が色をもつことは、虹が出るのとよく似た出来事だということになる。つまり、ポストが赤いという出来事は、一方でポストの赤さを見るという知覚経験によって知られ、他方で、ポストの表面での光の吸収と放出という物理的出来事が対応しているというわけである。
(飯田隆『虹と空の存在論』ぷねうま舎、2019.11、引用内の参照文献への注釈は省略した──引用者注)
物体の色を、音と同様の出来事であるとするこの説が、はたして妥当であるかどうかは、いまは議論しない。ただこうした観点が示唆する、色と虹との類比をさらにおしすすめて、虹に関して、出来事としての虹に加えて、その特定の見えとしての虹を区別したように、出来事としてのポストの赤さと、その知覚に現れる見えとしてのポストの赤さを区別して、ポストを見るときにわれわれに見える赤さは、前節で特徴づけたような現象的存在だとすることは可能だろうか。
この「現象的存在」というのは「誰か、あるいは、何かに現れる(現象する)ことによってのみ存在する」ものであり、かつ「現れているその都度において、そのとき現れている(現象している)性質以外の性質をもたない」存在のことを指しています。つまり、ある何らかの物体と切り離された現象そのものとして、色彩の知覚経験を理解することができるのかという問いが、ここで提示されているのです。
この問いは、先の著書でも引用部のすぐ後で指摘されているように、通常の意味で考えればおそらく否と言わざるをえないでしょう。どのような色彩の〝見え〟であろうとも、その知覚経験は、色彩の反射源となっている物体自身の知覚を抜きにして考えることはできないからです。つまり、アッシュたちが直面した「Class Real」における色彩の変化は、仮想世界そのもの(=物体自身)に内在する属性と不可分に結びついている以上、その知覚経験だけを取り出して「Class Real」の「リアル」な質感を保証する根拠とみなすことは、論理的には適切ではないということになります。「アヴァロン」のゲーム内では、もともとの現実世界には存在しなかった物体や自然法則をいくらでも捏造することができるのだから、色彩の変化もその一環として処理可能なものでしかないというわけです。(事実、物語の結末付近で、マーフィーがアッシュに「そもそもお前の髪は何色だった? アッシュという名の由来だった銀色のメッシュはどうした?」と語りかけているように、「アヴァロン」のゲーム内では、もともとアバターの身体に自在な着色を施すことができると思われ、色彩の変化が何も「Class Real」に特権的なものではないことが示唆されています。)
結末でコンサートホール内に現れる「ゴースト」の存在は、その的確な寓喩となりえているのではないでしょうか。色彩の変化が、実のところゲームマスターによって仕組まれた「現実」らしさの演出効果であったように、「ゴースト」もまた「アヴァロン」におけるゲーム内プログラムでしかありませんでした。言わば、通常では理解できない「ゴースト」が〝見える〟ということ自体が、「Class Real」が真なる現実世界ではなく、あくまで「アヴァロン」というゲーム内の規則に準じた場所であることの証となっているわけであり、最後のシーンでの嘲笑とも取れる「ゴースト」の表情は、その意味で「Class Real」に真なる現実世界らしさを見いだそうとするプレイヤーたちへの意地の悪いアイロニーであったようにも思えます。
「Class Real」とは、結局のところものすごく解像度が高いだけの仮想世界であり、他の「アヴァロン」のゲーム空間と質的に差異があるものではないのでしょう。しかし、同時に問うてみたいのは、それにもかかわらず登場人物たちに、いま・ここが真なる現実世界なのではないかと思い込ませてしまう「Class Real」の仕掛けにこそあります。それは、確かに錯覚以外の何物でもないのですが、そこには私たち自身が特定の並行世界に抱きうる錯覚の在り処を検討するうえでも、なお重要な知見が含まれているように思うのです。
(✳✳)本論と関わりはないですが、物語の途中で色彩のあり方が変化する著名な映画作品としては、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』や、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』が想起されます。『アヴァロン』の後半における鮮やかな色彩変化も、こうした先行する映画作品にインスピレーションを得たものと推察されます。
リアリティを生み出す「狂気」
ドイツ文学者・哲学者の高橋透は「遠い昔、人間の心は、命令を下す『神』と呼ばれる部分と、それに従う『人間』と呼ばれる部分に二分されていた」というジュリアン・ジェインズの言葉を引用したうえで、その「二分心」的な精神の秩序体制が「現代の基準からすれば「狂気」と思われる」ことを指摘しつつ、次のように述べています。
ところで、『アヴァロン』の世界において、このような「狂気」を生み出すのは、ほかならぬ仮想現実空間を産出するテクノロジーである。だから、仮想現実テクノロジーは、「狂気」を生み出すのであり、そしてアヴァロンという楽園とは、この「狂気」のことなのである。仮想現実テクノロジーは、このような世界へとわたしたちを誘う。古代の二分心とは異なり、現代の二分心はテクノロジーが生み出すのだ。
(「ホモ・テクトニクス、ホモ・ナトゥーラ《10》押井守──アヴァロンという楽園、すなわち聖なる狂気」『水声通信』第16号、2007.3)
『アヴァロン』において、人びとの生のあり方を統御づけているのは「アヴァロン」という仮想戦闘ゲームであり、仮想世界へとアクセスし、ゲーム内の指令(=「神」)に従うことが、何よりもプレイヤーたちの行動の指針となる役割を果たしていました。それは、きわめて高度な仮想世界を構築できる「仮想現実テクノロジー」の進展と無関係ではありえません。どのような仮想世界であろうとも、そこにみずからの生のあり方を託すことができるならば、それはそのひとにとって端的な「現実」にほかならないでしょう。つまり、アッシュをはじめとする「アヴァロン」のプレイヤーたちは、単なる退屈しのぎとして仮想世界に熱中しているわけではなく、むしろ「アヴァロン」のゲーム空間こそが真なる現実世界であると、積極的に〝誤認〟しようとしているのです。
それは、並行世界というものにある種のリアリティが与えられる仕組みが、結局のところ各々の信仰に属する問題であり、最終的には説明のできない「狂気」に支えられたものであることを暗示しています。どのような手法にせよ、当事者たちにとって本当の世界はこのようであったのだと思わせる錯誤こそが、各々にとってその世界のほかならぬ「現実」らしさ(=「この」性)の核心を根拠づけていると言い換えてもよいかもしれません。『アヴァロン』において、もともとの世界が色彩を欠いていた理由は不明ですが(というより、アッシュの自宅に新鮮な野菜などが置いてあるシーンも映っていた以上、事物の色彩がまったく認知されないというのも、どこか不自然な印象を与えますが……)、「Class Real」における風景の鮮やかさは、自分が還るべき〝本来の〟現実世界という幻想を立ち上げるに充分なものだったのでしょう。そこに、実際はどうであったのかという論理的な事実はもはや重要ではないのです。
そうであるとすれば、「事象に惑わされるな ここが…お前の現実だ」というマーフィーの台詞は、いま・ここが〝本来の〟現実世界であるという根拠のない信仰を受け止めるための決意表明だったのではないでしょうか。「Class Real」において、おそらくは生まれて初めて色彩が〝見える〟という知覚体験に直面したマーフィーは、そこにある種の神秘を見いだしてしまったのであり、その幻覚作用こそが、マーフィーにとって「Class Real」の「現実」らしさを基礎づけていました。その意味で、おそらくは鑑賞者に向けて発せられていたであろう結末の「Welcome to Avalon」というメッセージもまた、並行世界というものに対する鑑賞者自身の「狂気」を肯定する意味を託されていたのかもしれません。たまたま「この」性を与える幻覚作用がいま・ここの現実世界と一致している人びとの健全さは、ただ単に幸運に拠るものでしかなかったのだということが、マーフィーの台詞を通じて暴き立てられているのです。(✳✳✳)
その後の押井守は、前出の『イノセンス』や『スカイ・クロラ』(ワーナーブラザーズ、2008)などで、さらに「現実」なるものの強度を試していくかのようなアニメーション映画を制作しつつ、一方で『アヴァロン』の実質的な続編となる『ASSAULT GIRLS』(東京テアトル、2009)や『ガルム・ウォーズ』(東宝、2014)など、引きつづき実写映画の撮影にも意欲的に挑戦していきます。名実ともに現代日本を代表する映画監督のひとりとなった押井ですが、その方法意識の中核には、いまもなお容易には解けえないような、仮想世界のリアリティをめぐる特有の〝割り切れなさ〟に対する屈託が刻まれているのです。
さて、次回以降は、ようやくゼロ年代の小説作品を論じることができそうです。まずは、青春ミステリーの旗手として名高い米澤穂信『ボトルネック』(新潮社、2006.8)を扱ってみようと思います。
(✳✳✳)ところで、モーリス・メルロ=ポンティという哲学者は、いかなる事物(=「図」)の〝見え〟であろうとも、それは潜在する「地」としての背景から分節化されることで生じたものであることを強調しつつ、そこから一人称的な世界認識にかかわる独自の探究を展開しています(中島盛夫訳『知覚の現象学』法政大学出版局、2015.12)。その発想は、『アヴァロン』における「Class Real」の知覚経験を考察する際に有効な手がかりとなるだけでなく、本連載で扱ってきたVR環境における人びとの認識の構造を理解するうえでも、きわめて重要な示唆を与えるものであろうと思われます。残念ながら、いまの僕自身にそのような哲学的射程を汲み取るだけの能力が備わっていないのですが、今後の本連載のなかでも、可能な限りこうした現象学的な観点からの洞察を導入していきたいと考えています。