芥川賞作品を読む|第11回 大江健三郎『飼育』(第三十九回 1958年・上半期)|重里徹也・助川幸逸郎

イメージを喚起する叙情的な文体

助川幸逸郎 中上健次の『岬』と同様に圧倒的な才能というか、スケールの大きさを感じました。

重里徹也 硬質な叙情の力が印象的でした。イメージの喚起力に驚きます。畑正憲(ムツゴロウ・シリーズで知られるエッセイスト)が大江の作品を読んで、作家になることを断念したというのはよく知られていますが、なるほどと思いますね。ずば抜けた才能です。同時代にこういう作家がいることの幸せと、畑にとっては断念というか、諦念というか、そういうこともよくわかる気がしました。特に叙情の力が優れていると思います。

一方で数十年ぶりに読み返して、とても読みやすいと思いました。それが意外でした。何というか、普通の文体なのですね。これはどういうことなのでしょう。日本文学全体が大江の影響を受けて、我々も慣れてしまったのでしょうか。

助川 それもありますが、大江が若い時から、徐々に文体を変えたのではないでしょうか。若い時のままの文体だったら、行き詰まっていただろうと本人は言っています。大江自身の本来の資質が自然に流れるとこういう文体なんですよ、きっと。大江の奥さんがいつも言っているのは、最初に書いたのが一番、読みやすいということらしいです。最初に書いた時のまま出していれば、もっと売れたのにといつも言っていたようです(笑)。

母親と方言を排除した作品世界

重里 ところで、この小説で、気になることが三つあるのです。一つは、母親が出てこないことです。この母親の不在は一体、何なのだろう。大人の女性が出てこない。子供と大人の男しかでてこない。

助川 すごく面白い視点ですね。

重里 さらに不在なものがあります。方言です。登場人物たちが会話については抽象化されて描かれている。四国の山奥が舞台なのに、方言を出さない。母親と方言を排除した小説空間。非常に気になるところです。

助川 もう一つは? 

重里 主人公がいつも受け身だということですね。子供が大人になる小説はたくさんあります。それで、大きく二つのパターンがあって、被害者になって大人になるか、加害者になって大人になるか、です。

石原慎太郎の『太陽の季節』というのは、加害者になって何事かを知る話です。女の子を孕ませて堕胎させて死なせて、主人公が大事な経験をする。対照的に『飼育』の主人公は、暴力を受けて手を砕かれて大人になる。受け身なのです。象徴的ですね。大江と石原の違いがここにある。図式的ですが。

街から差別される共同体

助川 この子供たちが住んでいる地域自体がたぶん、被差別なんだと思います。街に出ていくとすごくジロジロ見られる。主人公の所属している共同体自体が嫌われて差別されている。それで、足の不自由な人だけが差別しないで寄ってきてくれる。その人は最後に死ぬわけです。街の方は敗戦のせいで、黒人兵どころの騒ぎじゃなくなっている。日本という国が崩壊していく状況に対して、呆然とするしかないという経験が書かれているんだと思います。

大江にとって、民主主義がやってきて、結果的には社会はよくなった。でも、敗戦はショックなことで、意味づけられないような呆然とした体験だった。こういう経験は、受け身的にしか書けない問題だし、一方で役場という存在が全くきっちり応対してくれないという状況は、大日本帝国のシステムが崩壊していく様子を示しているのでしょう。

たぶん、あの足の不自由な唯一自分のことを構ってくれた人があっけなく死んじゃうことによって、結局あの人だけが大日本帝国みたいな強大な統治システムと差別されている山奥の自分たちの間の結び目だったのだけれど、それがあっさり切れちゃうわけですよね、最後でね。八月十五日を経験した人間たちは何が起こったのかよくわからない。解釈ができない。けれども、とてもダメージを受けたのは確かだという感じが描かれている小説だな、と思いました。

母親が出てくると、母親って自分が体感的に接している存在ですから、戦争が終わって、巨大なシステムが崩壊したダメージをどう解釈するかみたいなことに関して、母親にすがってしまうのではないでしょうか。母親が不在であることで、呆然自失感がきちんと出るのかな、と話をうかがっていて感じました。この小説の要じゃないかな、母親を描いていないというのは。

重里 けれど、小説としてはどうですかね。すごく気になりました。母親はどうしているのだろうって。主人公とその弟を産んだ女性はどこにいるのだろう。とても疑問を持ちました。それは、最後に足の不自由な役場の書記が突然に事故で死ぬことの違和感と繋がっていますね。ずるいなって感じなのです。こんなに作家に都合よく物事が運ぶのは、おかしいでしょう。

助川 私も思います。

重里 いい気なものですね。誰かに殺されるとかね。そんな風にしないと。納得できないです。小説の中で死を描くのなら、殺したヤツの正体をさらすべきだし、火事を描きたいのなら、放火したヤツの内面を描くべきですね。

助川 小説を終わらせるために死んだって感じですね、書記は。母親の不在についてですが、作家論的にいうと、大江のお母さんが出てきて方言をしゃべりまくるじゃないですか、『懐かしい年への手紙』とか。方言を封じるということとお母さんを封じるっていうのも繋がっていると思います。

重里 なるほど。

助川 大江の中で四国の山奥の村の土着性だとか、そこに根付いた生活みたいなものというのは、母親と繋がっているんですね。方言とも、繋がっている。母親を出すことで、大江は自分の土着性をしっかり自覚できるわけですよ。

重里 初期大江には、それを出さないで、知識人として自分を読者に伝えたいというのがあったのではないですか。

助川 そうですね。と、同時に自分が経験した不条理状況、まさにある意味でサルトル的な、自分が何者であるか、わかる前に実存として存在してしまうんだみたいな感じを普遍性をもって描くためには、母親と方言がないことが必要だったのでしょう。

重里 ただ一方で、朝日新聞の百目鬼恭三郎がかつて書いていたけれど、大江は四国の山ではなく大江山を描いているんだと、山を描いても。川を描いても四国の川ではなくて大江川を描いている。いつも大江の世界を書いているということを否定的に指摘していたわけですが、そういうところがあるのかな、と思いますね。方言について何度も何度も地元の方言でしゃべった、とかそんな風に記述しています。それで、方言を具体的に書かない。いつもオブラートにくるんでいる。大江のリアリズムって何なのだろう、と思います。

土着性とおフランス

重里 障がい者を最初期から描いているというのも、今回の発見でした。足の不自由な役場職員はそうですし、もう一つは兎口ですね。気になりました。我々は大江のこの後の展開を知っているわけです。つまり、四国の村落と障がい児を根拠に小説を書いていくようになるわけです。

助川 この対談の中で何度も申し上げていますが、四国の山奥で野蛮人みたいに育った自分と、東京に出てフランス文学の最先端を学んだ知的エリートとしての自分というのは、矛盾葛藤しているわけですね。

大江の問題というのは、近代日本の知識人たちが隠蔽してきた自分の土着性みたいなものと、そのうえに移植したおフランスみたいなものと、どう切り結んでいけばいいかという問題ですね。この点をネグレクトして、おフランスの方だけでやっている作家や評論家も少なくないわけです。

重里 あるいは両者に分裂してしまう。

助川 そうなんです。

重里 芥川龍之介がわかりやすいですね。分裂して、もたなくなってしまう。

助川 大江の場合、『飼育』のような初期作品の段階から、日本の土着性みたいなものとおフランスみたいなものが、きっちり小説の中でつながっているんですね。状況の中に投企されてしまって、自分が置かれている現実を名づけられないというサルトル的な問題と、田舎の疎外された村に生きている子どもの原風景みたいなもの。いっけん対照的なこの両方が、大江作品においては重なっています。大江にとって、「最先端の近代」と「土着的なもの」は、ある部分では矛盾しつつも別ものではないのですね。

重里 『飼育』にはもう一つ出てこないものがあります。白人です。どうして、黒人にしたのでしょう。

助川 これは、差別されている者が逆にもっと下を作って差別していくという構造ですね。これが白人だと力関係的にいって、自分より上の人間を引きずりおろしてって感じになるんですけれど、黒人であることで、誤解を恐れずに言えば、動物を飼っているような感じを出せる。差別されている側は必ずしも差別しないわけではなくて、もっと差別する者を作っていくという痛切な構造を描いていると思います。

重里 差別の構造は、よくラッキョウの皮にたとえますよね。むいてもむいても、次の皮がある。

助川 差別されている側が差別の構造そのものを告発するのではなくて、俺らを差別しないでくれ、あいつらとは違うという構図を作っていく。差別の一筋縄でいかないところです。黒人を出すことで、そういう構造が描けているのではないでしょうか。

戦後日本人と重なる被害者意識

重里 最初の話に戻りますが、被害者として大人になる、被害を受けたことで成長するという構図が、とても大江的な感じがします。大江って、いつも被害者を描くわけです。それが非常に戦後日本的というか、戦後日本人の心性の反映でもあるのだろうと思います。

助川 大江に『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』という連作短編集があります。ぜんぶで五編からなる短編集で、どれも大江当人を思わせる作家が主人公で、「序章」とみなせる冒頭の一編をのぞくと、残りは全部、主人公の分身みたいな存在が罪を犯したり破滅したりする話です。自分は無垢で罪を犯さないんだけれど、自分の分身みたいなものが実は罪を犯して、加害者になる。大江ってそのパターンが多い。それから、大江自身の息子である光さんがモデルになっている障がい児の子どもに対し、罪を犯すんじゃないか、という不安を抱く小説も書いてますね。

重里 性に目覚めた後どうなるのか、とか。

助川 そうそう。だから、大江の中では自分とかあるいは自分の子供とかが罪を犯すところは書かないのだけれども、自分が加害者になるんじゃないか、とか、自分の子どもが加害者になるんじゃないかってことに対する恐怖みたいなものは常にある。

そこが戦後日本的ということでしょう。大江はたぶん、加害者になるわけにはいかないんですね。常に被害者面している。それを装いながら、実は自分が加害者になっているんじゃないかっていう意識というのは大江の中に、半ば無意識かもしれないけれど、ずっとあるような気がします。そこをどう評価するかなんです。

重里 大江の態度は、戦後日本人の姿を映し出しているように思います。

助川 自分の加害者性に関しては口を拭って、被害者としての立場に、戦後の日本人はずっととどまってきたわけですよね。軍部の一部の悪い奴が暴走して、国民は皆巻き込まれてしまった。

重里 そして原爆まで落とされました、と。

助川 でもアジアの国々に対しては加害者だったし、ヨーロッパ人の捕虜に対しても虐待していたわけです。

重里 軍を煽ったのは誰ですか、と問いたくなりますね。あなたたち(国民)の無意識とそれを反映したメディアでしょう。

助川 そういう意味では、大江は本当に戦後の日本を代表する作家ですね。大江の政治的発言については、よく馬鹿だ、と言われているけれど、それは「おフランス」の部分で言っているわけですよ。中村光夫とかと共通していて、それこそ近代知識人の進歩派みたいなところで言っているもので、それと土着の部分が大江の場合矛盾葛藤しつつも、どこかで結び付いていて、それが小説世界になっている。だから、大江の政治発言は大江の小説を理解する補助線として見るべきで、そのまま受けとってはいけない。大江の政治発言は、彼の半分だけが語っていることなのです。

重里 政治的発言は非常にお粗末ですね。それを本人は頭から信じている、みたいな態度で言うでしょう。そこには彼の自己責任がありますね。

助川 大江は自分の加害者性を自分が罪を犯した話として表現できない。あるいは、光さんがモデルになっているあの障がい児の性的な問題がどう解決しているのか、本当のところが書けていないですね。

重里 書こうとしないですね。

助川 矛盾はわかっている、自分の加害者性もわかっている。ただ自分が当事者として加害者の側に立って書いているのかっていう問題になると、そこを大江は書いていないわけです

重里 はい。しかもそれは、戦後のある種のインテリの甘さにもつながるのだろうと思います。

助川 おっしゃるとおりです。大江は才能のある作家だと思うし、私は熱烈に支持しています。しかし、自分や息子が「加害者となる可能性」を突きつめ切れていないところは大江の限界です。ただ、政治発言だけとって大江の小説を否定するのは間違っていると私は言いたいです。

読んでも元気の出ない小説

重里 せっかくの機会なので、もう一つ。私は若い頃から大江の小説を結構読んでいますが、なんていうか、いくら読んでも、あまり元気が出ないのですよね。素朴な言い方ですが。私は自分に元気を与えてくれる小説が好きなんです。大江ってなんか、気が滅入るっていうか、読んでいて。乱暴な話ですけれど。

助川 どんな残酷なことを書いていても、読んで、これは間違いなく真実だというときに人間は元気が出るじゃないですか。大江の場合、自分の加害者性を書いていなくて、寸止めで葛藤しているから元気が出ないんです。

重里 大江の小説って、なんか、辛いんです、読んでいて。どこにも行けない感じになる。私が一番好きな大江作品は『洪水はわが魂に及び』です。

助川 あれは最後、自分がもう暴力をふるう側に、腹をくくってなるわけじゃないですか。あれはまさにそうですよね。自分が被害者でばっかりいられないっていうことをあの小説はほとんど例外的に引き受けている。

重里 「自由航海団」の不良少年たちも、すごく魅力的だったですね。あの小説で、加害者を引き受けることと、祈りが初めてテーマの一つになったことは結びついていると思います。

助川 最終的に自分たちは加害者の側、テロリストの側に立つ覚悟をするわけじゃないですか。だからあの不良少年たちと自分は加害者か被害者かで揺れているのだけれど、最後に主人公はテロリストの立場を選ぶわけですよね、あの小説は。だから元気が出るのでしょう。

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