芥川賞作品を読む|第10回 大庭みな子『三匹の蟹』(第五十九回 1968年・上半期)|重里徹也・助川幸逸郎

映し出される女性の立ち位置

助川幸逸郎 この作品から、私はいろいろな芥川賞作品を連想しました。

重里徹也 たとえば、どんなものでしょうか。

助川 主人公の友だちで唇がいつも腫れていて吹き出物が出ている女性が登場するでしょう。この友だちと主人公のあいだに、同性愛的な感情があるという描写もあった。私は綿矢りさの『蹴りたい背中』で、主人公が男の子のひび割れた唇にキスする箇所を連想したんです。また、主人公がお菓子を作っていて気持ち悪くなるっていうところは、小川洋子の『妊娠カレンダー』にちょっと類似する場面があります。

やっぱり偽善的な共同体というか、その共同体とか家族とかのために奉仕することに対する嫌悪というのが書かれているのですね。そこには『妊娠カレンダー』と共通するところがあるのでしょう。似たようなモチーフが出てきながら、全然違った形になっている。そういうところで、たとえば小川洋子と大庭みな子の違い、綿矢りさと大庭みな子の違いっていうのが、日本における女性のポジショニングの変化を表しているように感じました。

重里 三人三様に優れた作家ですね。大庭みな子のこの作品については、デビュー当時に随分と話題になったようですね。鳴り物入りの登場でした。群像新人文学賞に続いて芥川賞を受賞して、ベストセラーになった。今は落ち着いて、この作品を読める感じです。

助川 当時はどんなふうに読まれたのでしょうね。

重里 私がずっと聞いていたのは、日本人女性がアメリカ人の男性と不倫をする話っていうことですよね。それが日本の戦後社会を映し出していたという言われ方をよくしませんか。けれども、主人公が関係を持つ相手というのは、アメリカ国家から疎外されている人間ですよね。

助川 ネイティブ・アメリカンの血が入っている人ですね。要するにマイノリティーの側に属する人といっていいでしょう。

重里 イヌイットの血も入っています。

助川 そうなんです。マイノリティーなわけです。

吹きだまりの人間模様

重里 そのあたりの事情は、講談社文芸文庫の解説でリービ英雄が的確に指摘しています。そういうアジア系のマイノリティーの人の血とスウェーデンなどの血が混じった人物なのだということで、アメリカ社会から疎外された存在だというのがポイントでしょう。同時に主人公の日本人女性もアメリカ社会から疎外されている。アメリカから疎外された二人が、アラスカという辺境の地で出会う話なのですね。それが大きな構図です。

表現が直接的ですが、いわば、人間の吹きだまりみたいなところが舞台になっていますよね。それが舞台として選ばれたアラスカです。アメリカとは何か、という問題になってしまいますが、いわばアメリカであってアメリカではないともいえる土地ですね。もちろん、これこそがアメリカなのだという言い方も可能ですが。そういう大きな構図がまず、あるのだと思います。

助川 私はとにかく、これはすごく女性小説だなと思ったんです。当時、女性は男性からどう見られるかっていうことでしか自己を社会の中に組み込めなかった。そうした中であらゆる男が自分を(人間というよりは)女性としてしか評価しないわけですよね。周りの男たちも。そして、あらゆる女性が自分の女性性をどういう風に男に評価させるのかっていう形でしか振る舞っていない。そうした中で自分を女性としてしか評価してくれない男が大嫌いなのに、その男の評価を気にしないでは生きていけないというこのブレーキとアクセを同時に踏んでいるみたいな疎外感っていうのが、すごく切実に表れている作品だな、と感じました。

重里 その疎外感というものが、照り返しで嫌悪感にもなっているのだと思います。その嫌悪感は、そういう自分に役割やレッテルを押し付けている男に対してもあるし、同性の女性に対しても、それなりにあるのじゃないか、と思います。

助川 そうなんです。

重里 男に媚びる女をネガティブに描いていますね。

根なし草たちの特性

助川 アラスカという辺境が舞台なのに、登場する人物たちは皆それなりにインテリじゃないですか。医者だったり、大学で教えていたり。そして、アラスカっていう、いわば人工的な空間で、生活に根づいたキャラクターは一人も出てこないですよね。

重里 みんなが空中で生きているっていうか。根無し草というか。

助川 そのために、余計にこういうことが起こるのです。男は女を欲望の対象としてしか見ないし、女自身が男からの評価しかあてにしていない。

男でも女でも、その場に根を下ろしている生活人が全く出て来ない。それで、余計に、男の欲望の対象でしかない女という構図が目立つということだと思うんですね。

重里 むしろ、根を下ろすことを馬鹿にしているというか、そういう感じもしますね。深読みすると。変ないい方ですが、根を下ろさないことがアイデンティティーになっている。そういう人たちの会話がずっと続き、そういう人間模様が描かれていく小説だと読みました。

助川 ずっといわれていることですけども、一九六〇年代に「進歩的」と言われた人たちが、今から振り返ると、いかに女性差別的だったかみたいなことですね。いわゆる根を下ろしているのじゃないライフスタイルこそが先進的なんだっていう、ある種グローバリズムの先駆けみたいになっている部分と、そういう存在だからこそ社会的な評価の文脈に依存してしまっても、時代のシステムとか、社会のシステムとか、制度の限界を絶対に超えられないところがあると思うのです。

重里 むしろとても無防備にそういうシステムに馴致されている、飼い馴らされている面が大きいと思います。それに合わせて生きているわけです。そこでいかに高い点数を取るのかに汲々としている。そういう人たちなのだと思います。

助川 娘と父親がどっちも同じような甲高い声でしゃべると女性主人公が言っています。自分の夫が作っているシステムみたいなものに娘がどんどん悪い意味でカッコつきの「女」になっていって、そのシステムの中で高い評価を得られる女として馴致されていく。この二人は主人公から見ると共犯関係です。要するにシステムの中に取り込まれて上手くやっている。主人公にはそのことに対する疎外感や嫌悪感があるんですね。

重里 ただ、一方で、それに対する別の生き方は主人公に見えてこない。そのために、無力感に襲われているわけです。その無力感を晴らすのは、その無力感を相対化して浮き彫りにするのは、たとえば文学しかないだろうと、私は思いますね。ここでもやっぱり小説というものの力を感じさせる作品だな、と思いました。

社会の闇は境界に表れる

助川 この小説を読んでいて、ジョン・カサヴェテスが監督した映画みたいだな、と思ったのです。私はカサヴェテスが大好きなのですが。

カサヴェテスっていう人自身はギリシャ系の移民なんです。それで、彼につるんでいた連中っていうのはいちおう白人なんですけれども、白人の中ではマイノリティーというのが多いんです。

たとえば、『刑事コロンボ』で有名なピーター・フォークは、カサヴェテスが監督した映画にしばしば出ていたし、カサヴェテスは俳優でもあったので、『コロンボ』のゲスト出演もしています。このピーター・フォークはユダヤ系です。

あと、ベン・ギャザラというオードリー・ヘップバーンなどと共演している俳優もカサヴェテスの映画によく出ています。この人はイタリア系の移民です。

アメリカ社会では、白人でプロテスタントで、という人びとがマジョリティーを形成しています。フランス人を例外として、プロテスタントでない白人の多い民族は、アメリカでは主流になりにくいのです。カトリックの多いイタリアとか、ポーランドとか、アイルランドの出身者は、アメリカでは苦しい立場に置かれます。カサヴェテスにとっての父祖の地であるギリシャも、ギリシャ正教の勢力がつよいので、やっぱりギリシャ人はアメリカ社会ではマジョリティーになりにくいらしいのです。

そして、カサヴェテスの監督デビュー作は、「アメリカの影」という作品です。この映画には、見た目は白人なのだけれど、実は黒人とのハーフという人物が出てきます。

面白いことに、カサヴェテスはあれだけマイノリティー問題を追求する映画作家なんですけれど、「一番面白いのはミドル・クラスの生活なんだ。そこに全部問題が出てくるから」ということを言っているのです。

多分マイノリティーを生み出していく社会の歪みというものは、マイノリティーそのものを描くよりも、むしろそのマイノリティーから少し遠いミドル・クラスの人間たちのある種社会システムの中で、マイノリティーが馴致されたり、はじかれたりする姿を描くことによって、その構造が見えてくるということだと思うのですね。

この小説もそうだなと考えました。むしろ自分はマイノリティーではなくてミドル・クラスで社会システムの中で比較的上手くやれているんだと思っている人たちの偽善的な生き方、社会に馴致されていく生き方が、社会のシステムから、はじかれていく人間を生み出していく構造をうまく描いている小説だと思ったのです。社会システムの闇は、実はそういうところに露出している。そのことが、すごくよくわかる作品だと。そこでカサヴェテスの映画と重なるなと感じたのです。

重里 社会の構造というものは、上流社会でもなく、下流社会でもなく、その境界のところに最も目立って表れるということなのでしょうね。その境界というのは、中流社会ともいえる。あるいは、比喩を使っていえば、支配者の心の陰りかもしれないし、被支配者の欲望や夢かもしれない。そういう形でより鮮明にあらわにされるということだと思います。

助川 そうですね。

二十ドル、ベトナム戦争、原爆

重里 この小説の細部で二つ指摘したいことがあります。

一つは二十ドルの使い方がとてもうまいなと思いました。現金をきちんと数字を出して描く小説には、いいものが多いように私は思います。この作品の場合も、二十ドル紙幣が非常に生きている感じを受けました。吹きだまりのどうしようもない男女の一夜の鮮やかな象徴になっている。うまいな、と思いました。

もう一つは、アラスカの住人たちの会話の中に、いろいろと懐かしい言葉が出てくるわけです。たとえば、ベトナム戦争ですね。あるいは、フォークナー。こういう言葉がちらちら出てくる。でも、深入りはしない。遠景になっている。これが非常に効いています。

ベトナム戦争そのものは描かれてはいない。ですが、この小説の前提にベトナム戦争というものがあって、それは話題にしてはいけないような雰囲気がある。ちらっと出てくるだけなのですが、妙に印象的です。

助川 フォークナーの使い方、ベトナム戦争の使い方。まるで六〇年代あるあるみたいな感じの使われ方で、逆に言うとすごく歴史認識として鋭いです。フォークナーは六〇年代では神のように評されていたわけですが、今となってはちょっと懐かしいわけです。そのフォークナーが、むしろ五十年経ったら懐かしいものになっているだろうな、とわかって使われているがごときですね。

重里 なるほど。もちろん、フォークナーの魅力は今も色あせていないと考えますが。

助川 歴史認識が鋭いなと思います。大庭みな子はそこまで計算していなかったとは思いますが。

重里 当時としてはオシャレというか、ある種知的流行に沿っていたのでしょうけれども。

助川 フォークナーとか、ベトナム戦争とかが、今となっては六〇年代あるあるみたいな感じで読めて、あの頃はこういうこと言うヤツいたよな、みたいな感じで使われている。

重里 それともう一つ気になることは、大庭みな子は広島の原爆の惨状を見ているわけですね。デビュー作でそれを書かなかったというのはかなりの覚悟という風に私は思いました。つまり、この人はデビューした後いくらでも書くものがあるということですよね。そこもちょっと私は感心しましたね。引き出しがいっぱいあって、そのうちの一つしか使っていないということですね。

助川 たぶん、原爆のことよりも、自分の抱えている違和感とか、社会に対する違和感みたいなものの方が描けるということだったんでしょうね。

重里 入り口にそういう虚無感や疎外感があって、その向こうに原爆が見えていたかもしれません。これは大器だという表れですね。はっきりいって。小さい器じゃないなって私は感じます。

助川 三島由紀夫の選評がすごく面白くって、構成がいいということを強く指摘しています。確かに読み始めた時はなんだかわからないのですけれど、読み終わった時にあの冒頭が。

重里 逆になっていたのだと。

助川 そうなのです。本当にむなしい一夜を明かした翌日の空気っていうのは、ものすごくよく出ていましたね、あの冒頭。

重里 選評を読んでいて、三島由紀夫と井上靖が一緒に選考をやっているというのは感動的ですね。それで、二人ともがきちんとこの作品に反応している。面白いなと思いました。

助川 同時受賞は丸谷才一ですね。

重里 大岡昇平は丸谷才一の方を評価しています。それも面白いところですね。

助川 大岡は戦争に行って見るものを見てしまったけれども、もともと半分は中村光夫ですから、あの人は。大庭の本当の凄さがわからなかったのじゃないかな。

重里 むしろ、永井龍男とか、瀧井孝作とかがしっかり評価しているのが印象的でした。

助川 私も瀧井孝作がほめているのがとても意外であるとともに、瀧井孝作の心に触れるぐらい、この小説は「根無し草」の生活が本当に書けているんだなと思いました。生活に根を下ろしてなくて生活感がないっていう風に言いましたけれど、生活感のなさがしっかり描けているということでしょうね。

重里 生活感におろして描けているということですね。

助川 生活感のなさが、生活そのものににじみ出るぐらい描かれている。それが生活なんだっていうことが、伝わるように描けているというのが、瀧井孝作の肯定的な選評になっているのだろうと思いました。

重里 あるいは、永井龍男の選評に繋がっている。瀧井や永井がきっちり評価できる作品だということが、一方にあると思います。

助川 逆に頭で小説の構図を作っちゃう作家の方が、大庭が身体感覚ではなくて、頭で考えたものだと誤解していますね。

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