認知文法の思考法|第9回 意味を育む豊かな土壌|町田章

はじめに

 前回,AI研究における第一人者である松尾豊氏の「先に「概念」が獲得できれば,後から「言葉(記号表記)」を結び付けるのは簡単」(松尾2015:188)という記述を受けて,言語習得はそれほど単純なものではないと述べました。言語習得は外的状況に内在する概念(=意味)に言語形式(音声)というラベルを貼っていくだけの作業ではないと考えられるからです。

 実際,認知文法では,ことばの意味とは,概念化(conceptualization)であり,概念化とは概念内容(conceptual content)に話者の捉え方(construal)を加えたものであると考えられています(cf. Langacker 2008:43)。重要なのは,この「捉え方」はことばの意味に不可分に組み込まれているため,松尾氏が述べているように,概念だけを先に習得し,そこに言語形式を貼っていくということが原理的にできないということです。

 今回は,この概念化に焦点を当て,人々が伝えあっていることばの意味は,豊かな概念化の土壌の上に育まれるということについて考えていきたいと思います。

「着こなしチェック」って?

 前回,概念内容のことを,ことばに表される前の前言語的概念のようなものと説明しましたが,そのように説明したのは,仮に話者の捉え方を一切含まない純粋な概念のようなものがあるとしたら,それを概念内容と呼ぶことにするということを述べたかったからです。

 しかしながら,もちろん,実際の会話では,必ずしも概念内容と話者の捉え方を分離することができるとはかぎりません。なぜなら,概念内容と捉え方は厳密には区別しがたい存在だからです。例えば,(1)のようにまったく同じ状況を描く二つの表現があったとします。

(1)
a. 先生は太郎をほめた。
b. 太郎は先生にほめられた。

これらは同じ概念内容に対する異なった捉え方を表したものであると言っても差し支えないでしょう。実際,認知文法では,能動文と受動文の間に見られる態の交替現象は話者の「捉え方」の差異を反映したものであり,両者の違いは同じ概念内容の中のどの部分に焦点が当てられているかという捉え方の違いだけであると考えられています。

 ところが,次のような場合はどうでしょう。(2)は小学生の娘が実際に言ったセリフです。これを聞いて,僕は友だち同士でファッションを見せ合っているちょとおませな小学生をイメージしましたが,皆さんはどうでしょうか。実は,よく考えてみますと,うちの娘の小学校には指定の制服があります。そのため,お互いのファッションを見せ合うという僕の解釈は正しくないようです。しかも,この着こなしチェックは先生がやるというのです。先生が行う着こなしチェックとはいったいどんなものなのでしょうか。

(2) 今日,学校で着こなしチェックがあった。

もうお分かりでしょうか。実は,この「着こなしチェック」とは,いわゆる「服装検査」のことだったのです。学校での服装検査に関する賛否はさておき,この「着こなしチェック」と「服装検査」は同じ状況を指していることになります。ということは,(1)と同様に考えるならば,同じ概念内容に対する異なった捉え方だということになります。

(3) 今日,学校で服装検査があった。

皆さんは,(2)と(3)は同一の概念内容を表していると考えますか。僕には,むしろ,同じ状況が異なる概念内容として捉えられていると思えるのです。実際,聞き手の側からしてみれば,(2)と(3)では,イメージする状況が全く異なっているわけですから,(2)と(3)は異なった概念内容を聞き手に喚起していると言っても問題ないように思います。もちろん,この場合,「服装検査」が持つ硬いイメージを回避するために学校側があえてある種のことば遊びをしていると考えられるわけですが,ある状況をどのような概念内容として捉えるかという段階ですでに発信側の捉え方が深く関わっているわけです。

 もちろん,ここで議論したかったのは,(2)と(3)の差異は同じ概念内容に対する異なった捉え方を表しているのか,それとも,そもそも異なった概念内容として話し手が捉えているのかという問題ではありません。文法的な要素,語彙的な要素にかかわらず,ことばの意味(=概念化)には不可分に話し手の捉え方が含まれており,概念内容と捉え方はきれいには分解できないという事実です。

意味を育む土壌

 それから,もちろん,ことばの意味(=概念化)はそれ自体,独立して存在するものではありません。認知文法の提唱者であるLangackerに従えば,ことばの意味は,概念基層(conceptual substrate)と呼ばれるある種の意味の土壌の上に育まれた概念化であるということです(Langacker 2008:463)。要するに,ことばの意味は,それだけで独立して存在するものではなく,関連する広範な背景知識やメタファーなどの心的な構築物,話し手と聞き手の間でのことばのやり取り,文脈などに支えられているということです。

 例えば,「国債」という語の意味について考えてみましょう。ためしに,国家の財政に関する知識を一切持たない人に「国債」について説明してみてください。「国債」の意味に関して,国家の財政に関する知識がいかに必要不可欠であるかがわかると思います。おそらく直接説明することは無理なので,まず,国家の財政に関する仕組みを説明することから始めなければならないでしょう。そして,その説明によって得た知識を利用しながら「国債」という語の意味を理解することになります。そして,この場合,国家の財政に関する知識は「国債」という語の意味を育むための概念基層の一部であると考えられるわけです。

 興味深いのは,国家の財政のような高度で複雑な問題について語られる場合,一般的にはメタファーが用いられます(cf. 「概念メタファー」)。国家財政の場合は,「家計」に喩えられるのが通例です。一般家庭では,労働によって得た賃金を収入とし,それを超えないようにお金を使って生活することになりますが,何らかの事情で支出額が収入額を超えてしまうような場合は,通常,借金によってその場をしのぐことになります。これが僕らが持っている「家計」に関する知識です。この知識を国家財政の理解に喩えとして用いた場合,税収などが収入にあたり,国の事業にかかる費用などが支出となるわけです。そして,社会保障費やコロナ禍対策費などの増加で支出が収入を超えてしまった場合にする国の借金が「国債」ということになります。もちろん,国家と家庭,財政と家計は全く異なる性質のものですから,本来は,上記のように捉えるのには無理があるのですが,このように,「国債」を国の借金としてとらえる考え方が一般にとられています。そしてこの場合,「家計」のメタファーが概念基層の一部として「国債」の意味に深く関わってくるのです。

 話しは少しそれますが,一般の家庭では,借金が増えて返済できなくなると最終的には自己破産に追い込まれます。そして,このことからの類推によって,国債の増発はやがて国家財政破綻を招くという言説が広く行われているのは周知のとおりです。ところが,国家財政を家計に喩えるのはあくまでもメタファーにすぎませんから,この類推が妥当かどうかは実のところわかりません。実際,最近注目を集めている現代貨幣理論(MMT)は,そもそも国家の財政を上述のような家計のメタファーで捉えること自体が誤りであると主張しています。通貨発行権を持つ国家とそれができない個人の家計では多くの点で異なっているため,国家の財政を家計としてみなすことには無理があるというのです。ここでは,政治的立場は表明しませんが,メタファーが一国の運命を左右しているというのは興味深い問題です(メタファーと政治に関してはLakoffの一連の研究を参照)。話しを戻しますが,ここで述べたかったのは,「国債」ということばの意味には人間の心的構築物であるメタファーも関与しているということです。

 次に,(4)のような,大学の先生と学生の会話について考えてみましょう。この先生はどんなことについて話しているかわかるでしょうか。

(4)
学生: 先生,大学の教員って給料高いんでしょう?
先生: んー。僕も大学の先生になったら回らない寿司が食べられると思ってたんですけどねえ。最近は,回らないどころか皿の色まで気になるんですよ。

 もちろん,この先生は学生からの質問を無視して,お寿司に話題を変えているわけではありません。きちんと,学生の質問に答えています。しかも,お金や給料について言及せずに。この先生は,給料のような繊細な問題について学生に直接伝えることを避け,ユーモアを交えながら間接的に学生に伝えるという試みを行っています。そこでは,日本の寿司食に関する一般的な知識(回転寿司は安い,寿司が乗っている皿の色によって値段が異なる,等),お金に関するタブー(社会通念),学生と先生というお互いの立場,会話自体を楽しむ姿勢など,様々な要因が概念基層となっていることが分かります。(4)の会話が意味を成すのは,言語表現の意味が豊かな概念基層に支えられているからなのです。

私のような場所がこのような女の子の中で何をしているのか?

 また,概念基層には,言語それ自体に関するメタ的な知識も含まれていると考えられます。例えば,あなたの友人に飛行機の出発時間を尋ねる場合,(5)のどちらの表現を使ってもかまいません。もちろん,(5b)のyour planeはあなたの所有する飛行機(=自家用機)を意味する場合もありますが,必ずしも相手の所有物であることを意味する必要はありません。この場合のyourは「あなた」と「飛行機」の間に何らかの関係があることだけを表しているにすぎませんので,常識的に考えて「あなたの乗る飛行機」という解釈をしてもらえるでしょう。ですので,基本的には,(5)の両文は同じ内容を伝えるために用いることができます。

(5)
a. When does the plane depart?
b. When does your plane depart?

 では,今度は,困っている様子の友人を見たときのことを考えてみましょう。あなたは(6)のどちらの表現を使いますか?この場合はどちらでもかまわないとは言えませんね。(6a)と(6b)では明らかに異なる内容を伝えているからです。

(6)
a. What’s the problem?
b. What’s your problem?

(6a)は純粋に友達を心配して「どうしたの?」と聞くような感じですが,(6b)は,相手の表情などから読み取れる不満や相手の問題行動に対して,「何が気にくわないんだ?」「頭がおかしいんじゃないか。」という非難のニュアンスを伴った発話として解釈されます。では,なぜ(5)ではtheyourに置き換えてもほとんど支障がないのに,(6b)では相手を非難するようなニュアンスが生じてしまうのか。(5b)と同様に考えた場合,(6b)のyourも「あなた」と「問題」との間の何らかの関係だけを表すことは可能ですので,「あなたが直面している問題」という解釈もありうるはずなのです。ところが,(6b)は「あなたの身の上だけに起こっている問題」という解釈にほぼ限定されてしまうのです。

 これは,本来,普通の言い方があるのにもかかわらずあえて別の言い方をしたために,yourが強調されたためだと考えられます。つまり,(6a)のような言い方が本来普通であるにもかかわらずあえて(6b)の言い方をするのはyourを強調するためであり,そのため「(私と共有できる問題ではなく)あなたの身の上だけに起こっている問題は何ですか?」と解釈してほしいというメッセージが込められていると聞き手に解釈されるからだと考えられます。ここで重要なのは,相手を気遣って尋ねる場面では(6a)の言い方が普通であるという表現の使い方に関する知識(=言語使用に関するメタ言語的知識)を話し手と聞き手が共有しているということです。そして,このような表現の使い方に関する知識が(6b)の意味を生み出す概念基層として働いていると考えられるのです。

 さらに,メタ言語的知識を必要とする極端な例について紹介しておきましょう。(7)は,メタ言語知識を共有していないと全く理解不能な翻訳者泣かせの表現だと言えます。これは『ハムナプトラ(原題The Mummy)』という映画の中のセリフなのですが,これを文字通り「私のような場所がこのような女の子の中で何をしているのか?」と訳しても全く理解できません。それは,(7)を理解するためには,少なくともあるメタ言語的知識が必要だからです。

(7) What’s a place like me doing in a girl like this?

 実は,(7)の表現を聞いたときに英語母語話者が真っ先に思い浮かべるフレーズがあります。それは(8)のような「君のような素敵な女の子がどうしてこんなところにいるの?」という表現です。この表現は文字通りの質問を表す解釈の他に,男性が女性に声をかけるときにも用いられるある種の常套句です(『プログレッシブ英和中辞典 第4版』s.v. girl)。1963年にマーティン・スコセッシが制作した同名の短編映画もあります。

(8) What’s a nice girl like you doing in a place like this?

英語母語話者は,(7)の表現を聞いたときに真っ先に(8)の表現を思い浮かべるでしょう。そして,それを踏まえて(7)を解釈します。(7)は,砂漠の古代遺跡の発掘現場で野宿している主人公のオコーネルと知り合って日の浅いエヴリンがお酒を飲んでいる場面で発せられます。まず,オコーネルは,男たちが宝探しのために危険を冒すのは理解できるが,エヴリンのことが理解できないと言います。それを受けて,エヴリンは「きみはどうしてこんな場所にいるんだ」と言いたいんでしょ?と言おうとするのですが,酔いが回っているために(7)のように言ってしまうわけです。そして,このセリフは文字通りの質問の解釈の裏に「私のことを口説きたいんでしょ」という駆け引きも見え隠れしています。そして,(7)にこのような重層的な意味が生じるのは,(8)に関するメタ言語的知識を概念基層として用いているからだと言えます。(ちなみに,この(7)と(8)の理解にはKay and Fillmore (1999)が指摘したWhat’s X doing Y?という構文に関する知識も関わっています。)

 これまでの議論から,概念化を支える概念基層がいかに豊かなものであるかをご理解いただけたと思いますが,概念基層の中でも特に一般的知識に関する部分は,AI研究においても早くから指摘されています。松尾豊氏が第2次AIブームと呼んでいる時代はまさにこのような知識をどのようにAIに実装するかを追求した時代でもありました。概念基層はAI研究が長年取り組んできた重要課題であったわけです(cf. 松尾2015:第3章)。

 ここで特に注目したいのは,概念基層によって様々に発現しうる重層的な意味を人間はかなりの精度で確定することができるという事実です。もちろん,精度は100%というわけではありませんが,少なくとも,ことばによるコミュニケーションが崩壊しない程度には高い精度で確定しているはずです。そしてこの精度の高さには,他者の意図を理解できる人間の能力が深く関わっています。以下では,有名な歴史上の失敗例から意味理解には他者の意図を理解する必要があるということを確認したいと思います。

カンガルーは食べられるか分からない

 唐突ですが,カンガルーはなぜ「カンガルー」という名前になったかご存知でしょうか。読者の中には「分からない」と即答する人がいるかもしれません。もちろん,この「分からない」は,読者には答えが分からないという意味ではなく,カンガルーは現地語で「分からない」という意味だという意味です。この話は,一時期,日本の教科書にも載っていたようですので,多くの方々にとって馴染みのある話かもしれません。逸話の概要はこうです。イギリス人探検家のクック船長がオーストラリアにたどり着いた際,現地人の一人に「あれは何ですか?」と尋ねたところ,「カンガルー」と答えたというのです。その現地人は「分からない」と言っただけなのですが,フック船長は「カンガルー」がその動物の名称だと思い込み,それをイギリス本土に伝えたというのです。要するに,かの動物が英語でkangarooと呼ばれるようになったのは,クック船長の誤解が起源だというお話です。

 ただし,このカンガルーの語源に関する逸話には続きがあります。そもそも,「カンガルー」という音声がその動物の名称ではないことにどうやって気づいたのでしょうか。実は,その後,オーストラリアへ向かったキング船長という人物が現地人に「あの動物は何か?」と尋ねたところ,minnarもしくはmeenuahという答えが返ってきたというのです。このminnar/meenuahがその動物の名称であるとするならば,クック船長が記した「カンガルー」とはいったい何を表していたのか。そこで,様々な憶測が生まれたわけです。そして,その中で最も広まった憶測が「分からない」という意味の現地語をクック船長が誤解したというものだったわけです。実際はその後の調査でグーグ・イミディール語ハイイロカンガルーのことを指すganguruがクック船長の記した「カンガルー」の起源であったことが明らかにされているのですが,この話はさらに続きます。

 キング船長がクック船長の誤解説を提起したきっかけとなったminnar/meenuahも,なんと,誤解だったのです。キング船長が現地人から聞いたとされるminnar/meenuahは,今ではグーグ・イミディール語のmihhaであると考えられていますが,この単語は,なんと「肉」または「食べられる動物」という意味なのです。クック船長の誤解を明らかにした当の本人がなんと同じトリックに引っかかっていたわけです。さらに,カンガルーの語源であるとされているganguruにも放っておけない問題があります。それは,ganguruがカンガルー一般を指すことばではなく,カンガルーの下位カテゴリーであるハイイロカンガルーを指すことばだったということです。巡り巡って,結局,「カンガルー」は誤解に基づく命名だったということになりますね。(カンガルーの逸話については,ガイ・ドイッチャー『言語が違えば,世界も違って見えるわけ』pp. 197-201を参照)。AIによるネコの画像認識においても,同じことは起こるはずです。ある画像に対し「みーちゃん」「三毛猫」「ネコ」「動物」「生き物」などの様々な抽象度での捉え方が可能だからです。

 ここで紹介した例は,他者の意図を理解することに失敗したために,意味を取り違えた事例です。意味を育む概念基層は表にはなかなか現れないため,時折このような誤解が起こるのは仕方がないことです。特に,文化や一般知識を共有していない場合はその危険性が大きくなります。しかし,これはあくまでも例外的なことであって,普段はこのようなことはめったに起こりません。起こらないからこそ,こどもの言語習得が可能なのです。もちろん,起こる場合もありますが,その場合はそのうちに修正が行われます。

 AIはディープラーニングを得て,自ら一般的な知識を学んでゆくことができるようになりました。これは一つの大きな壁を越えたことを意味します。しかし,AIが話し手の意図を理解することができないのであれば,「カンガルー」の事例が示しているように,結局,形式と意味の対応関係を見つけることができないことになります。どうやら,AIが次に越えなければならない壁は他者の意図を読み解く能力となりそうです。

まとめ

 今回は,ことばの意味は話し手の捉え方も含んだ概念化であるという考え方を出発点に,そのような概念化を支える概念基層が非常に豊かであることを見ました。そして,そのような豊かな概念基層は表には現れないものの,ことばの意味をとらえるためには非常に重要であることも見ました。

 もちろん,AI研究においても背景知識や一般常識がことばの意味理解には非常に重要であることは古くから認識されており,これまでにも一般常識をプログラムに組み込む試みがなされてきました。そして,ディープラーニングが革命的であるのは,この一般常識を機械が自ら学習する可能性が開かれたことです。

 興味深いのは,この一般常識の中には,メタファーによって構成された概念が含まれていることです。メタファーは心的な構築物ですので,外界にある何物にも対応しません。このような人間の心の中だけに存在するある種の虚構をAIがどのように学習していくのか。個人的には,AIであっても具体的な言語表現を大量に学習することを通して,多くのメタファーを習得することができるのではないかと考えますが,今後の研究成果を待ちたいところです。

 見えない概念基層が豊かであればあるほど,ことばの意味を確定する作業は難しくなるはずです。それにもかかわらず,僕らが安定したコミュニケーションができるのは,聞き手が話し手の意図をかなりの精度で理解しているからに他なりません。相手の意図理解が誤っていれば,「カンガルー」の逸話のような誤解が蔓延して,ことばがコミュニケーションの機能を果たせなくなるからです。

 そして,個人的には,この他者の意図理解という難題がAIが越えなければならない最後の壁であり,これがヒトとヒト以外の動物を隔てる大きな溝だと考えています(ヒトと類人猿のコミュニケーション能力に関してはTomaselloの一連の研究を参照)。本連載第6回の最後の「理論言語学の課題」において,「ヒトだけが持つ“何か”」を明らかにすることの重要性について述べました。これに対して生成文法が出した答えは普遍文法(UG)であったわけですが,今回述べたような他者の意図を理解し共有することができる人間の能力の中にその答えの一部が隠されているのかもしれません。

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