平成文学総括対談|第7回 越境する作家たち|重里徹也・助川幸逸郎

 

ゲームが物語へ誘う

助川幸逸郎 平成期の文学は、他ジャンルの影響をさまざまなかたちで受けて発展してきました。ミュージシャンやミステリー作家が、純文学に越境してきて成果をあげる例も数多くあります。

 

重里徹也 純文学とエンターテインメント小説をどこで分けるかは難しい議論になりますね。ただ、日本の文芸業界の場合、文学賞も、雑誌も、出版社の部局も、編集者も分かれています。その区分を越境する作家が増えたのは平成期の現象といってもいいでしょうね。

 

助川 昭和のころは、純文学小説以外のフィクションといえば、娯楽小説と映画、テレビドラマ、マンガといったところだった。平成になってそこにゲームが加わった。このことの影響は無視できないように思えます。

 

たとえば、西尾維新に『りぽぐら』という作品があります。これは、おなじプロットの小説を五バージョンならべた作品集です。こういう小説は、ゲームを何回もやりなおす、という体験がないと着想されないし、読者からも受け入れられない気がします。

 

重里 それは物語というもの自体を相対化するという意味でも、「小説を書くことをめぐる小説」になっていますね。

 

助川 そうなんです。「小説を書くことをめぐる小説」って、いわゆるポストモダン小説ってヤツで、八〇年代ぐらいから世界的に流行りました。前衛的で、ハイブロウな感じの作家がよくそういうのを書いていたわけですが、それと構えの似た小説が、ゲーム体験から生まれてきたというのは興味深いです。

 

重里 舞城王太郎もそんな書き手の一人ですね。

 

助川 『好き好き大好き超愛してる』とか。舞城はミステリー畑でデビューして、三島賞を獲ったり、芥川賞候補になったりしました。平成の越境作家を代表する一人です。

 

重里 学生に「ポストモダン小説」を教えるとしたら、舞城の作品を題材にします。親しみやすい面もありますしね。

 

一方で、ゲームっていうのは物語の型が見えやすいので、フィクションに物語性を復権させるという役割も演じているような気もします。朝日新聞が平成三十一年三月七日付で「平成の三〇冊」というのを発表しました。

 

助川 村上春樹の『1Q84』が一位になっていましたね。私の周りではけっこう話題になりました。

 

カズオ・イシグロの指摘

重里 あのランキングで、カズオ・イシグロの『私を離さないで』が二位になって、「作者のコメント」をイシグロが寄せていました。こんなことをいっています。

 

「世紀が替わったころ、私の周辺で文学的な気候変動が起こったように思います。具体的には、SFや幻想小説からの影響に対して文学がもっとオープンになったということです。この変化には、村上春樹氏ら日本の偉大な諸作家や、アニメに漫画といった日本文化の力が少なからず関与していたでしょう。そしてそのおかげで、私はずっと書きたくて書けずにいたこの物語を最後まで書きとおす方法を見いだせました」(土屋政雄訳)

 

「アニメに漫画といった日本文化の力」のなかに、ゲームも含まれているのでしょう。イシグロはきわめて魅力的な小説家ですが、その創作の背後に日本のアニメやマンガも力を及ぼしているのなら、これは重い指摘ですね。

 

助川 日本のゲームは、海外のゲームにくらべると特殊らしく、「ガラゲー=ガラパゴス化したゲーム」と揶揄的にいわれることもあるようです。

 

欧米のゲームは、「実際にはできない体験」をプレイヤーに与えるよう設計されるのが基本です。アフリカのジャングルに丸腰で放りだされてサバイバルする、みたいなことを、どれだけリアルに体験させるかに眼目が置かれます。

 

これに対し日本のゲームでは、「プレイヤーがいかに物語に介入するか」が重視されます。ゲームのキャラクターを実在する人物みたいにあつかって、そのキャラとデートしたり、そのキャラの誕生祝いをやったりする。そして、その光景をSNSに投稿する。そんな「物語と日常を接続させる楽しみ方」をする人が、日本製ゲームの消費者には多いといわれます。

 

重里 ゲーム空間が現実に越境してくるというのは「ポケモンGO」を思い出させますね。

 

助川 プレイヤーが、ゲームのなかの物語を現実世界に持ちこむ、という点では、日本のゲームはポストモダン小説とおなじです。物語を操作する側と物語の内部の境目がなくなってしまうわけですから。

 

けれども、ポストモダン小説が、「物語のメタレベル」を問うことをめざしているのに対し、日本のゲームのプレイヤーは、「物語のメタレベル」から物語のただなかに飛びこんでいく。「物語を生きる欲求」が、日本のゲームのプレイヤーには猛烈にある。そこが、ポストモダン小説の読み手と違っているところだと私はおもいます。

 

重里 日本人の物語への欲望の強さを示す事例のように思えます。日本人と物語をめぐる私の持論が証明されるようで、愉快ですね(笑)。

 

助川 ただ、ミステリーやSFといった「ジャンル小説」から出発して、のちに純文学畑で評価される作家があらわれたのは、そんなに古い話ではないんですね。三島由紀夫や安部公房のように「ジャンル小説も書く純文学作家」はわりと昔からいたのですが。

 

重里 福永武彦が筆名を変えてミステリーを書いたりもしていましたね。一方、星新一や小松左京は社会的には評価は高くても、純文学の雑誌に書いたり、純文学の賞を獲ったりということにはあまり縁がなかった。

 

 

筒井康隆という先駆者

助川 舞城みたいな履歴をたどる作家としては、筒井康隆あたりが先駆者ではないでしょうか?

 

重里 筒井康隆の作品で何がおすすめですか、と訊かれると、私は三つの作品を挙げることにしています。『旅のラゴス』、『夢の木坂分岐点』、『驚愕の曠野』です。この三つを読んでもらうと、面白かった、といわれることが多いです。

 

助川 一流のSF作家の作品ですから、着想の奇抜さ、鮮やかさは当然といえますが、『旅のラゴス』なんか、プロットの組みたてがおどろくほど緻密です。キャラクター設定も考え抜かれています。

 

重里 三作品とも一九八〇年代後半の作品です。昭和末期の発表で、平成文学に入らないのですね。

 

助川 私が本格的に小説を読み始めた八〇年代前半には、筒井の影響力は圧倒的でした。賛同するにせよ批判するにせよ、避けて通れないという感じでしたね。

 

平成に入っても、一九九〇年(平成二年)の『文学部唯野教授』みたいな、いまでも話題になる作品を書いています。一九九二年(平成四年)刊行の『朝のガスパール』は、朝日新聞の連載小説で、連載をつづけながら、当時の最新メディアであったパソコン通信をつうじて読者の反応を受けとって、それを物語の展開に反映させたことで話題を集めました。そういう社会現象になるぐらいの作品が、ここ何年かの間にあるかというと、微妙な気はします。

 

重里 全盛期の作品が魅力的で、それと比べてしまうと、というのもあるのでしょう。

 

ただ、筒井が谷崎賞や川端賞など、純文学の賞を獲ったおかげで、舞城王太郎や円城塔が純文学の領域で認められやすくなったのは確かでしょう。その意味でも、筒井の功績は大きいですね。

 

もう一つ。筒井のあり方で無視できないのは三島由紀夫賞の創設時の選考委員で、以後、かなり長い間、この賞の選考委員をやったことですね。三島賞は新潮社が芥川賞に対抗してつくった賞で、文壇的にもそれなりの重さを持っている。筒井はいわば初期三島賞の顔で、その影響力が少しずつ大きくなったように感じます。

 

助川 筒井も「小説を書くことをめぐる小説」をたくさん手がけていて、その意味でも舞城や円城の先がけですね。

 

重里 ただ、先に挙げた三作品はそれだけではないのですね。物語というものを相対化して、小説を書くとはどういうことかを問いかけながら、きわめて魅力的な物語を書いているのです。人生の味わいや人間についての考察も楽しめるのですね。

 

助川 芥川賞受賞作の『道化師の蝶』をはじめ、円城も「書くことそのもの」に主題をあてていく作家です。ただ、円城は才能もスキルもすごいのに、「この作家はなぜ書いているのか」という根っこの部分を、つかませてくれない気がします。だから、円城の作品を読んでいると、「優秀な知識人の洗練された余技」という印象をもってしまう。その点、舞城のほうがサービス精神旺盛で、感動や興奮のツボを刺激してくれるぶん、私にはたのしめます。

 

ただ、円城の作品を読んでいると、この小説を楽しめるだけのSF的教養が、私には欠けているのでは……と不安になってくる瞬間があります(笑) 円城の置かれている文脈がよくわかるひとにとっては、魅力的な作家なのかもしれません。

 

伊藤計劃と三島由紀夫

助川 私の十選に挙げた伊藤計劃の『ハーモニー』は、自信をもって「好み」といえる小説です。伊藤計劃は円城と仲がよかったんですが。伊藤が作家デビューするに際しても円城はアシストしていますし、伊藤の遺作を補筆して完成させたのも円城でした。

 

円城は安部公房の影響を受けたといっています。いっぽう、伊藤計劃に私が感じるのは、三島由紀夫との類似性です。安部公房と三島由紀夫は「同志」ともいえる関係でしたが、私にとって安部はあまり得意な作家ではなく、三島のことはどう論じていいかわからなくなるほど愛しています(笑)。

 

重里 伊藤と三島が似ているというのは、どういうことでしょう?

 

助川 『ハーモニー』は、「個人的な意識というものをなくしてしまった人類に、私的なエモーションを体験させるための文書」という体裁で書かれています。「離人症的な感覚を表現した」としばしばこの作品は論評されますが、三島由紀夫の作品にも、「感情がナチュラルにわいて来ない存在」はよく出てきます。

 

重里 三島の『美しい星』は、あるとき自分たちが異星人だと気づいた一家を描いています。『青の時代』も、頭脳優秀だがうまく周囲と関係を持てない青年が破滅する話でした。

 

助川 三島自身も離人症的なところがあって、「自然な感情」を吐露することができなかったから、過剰に修辞的な文体をもちいたのでしょう。小学校の作文でほめられる「気持を素直にあらわした文章」なんて、三島は書けなかったのです。

 

伊藤の文章は、三島のように装飾的ではありませんが、三島がワープロ以降の時代まで生きのびていたら、伊藤のような文体で書いた可能性はあるとおもっています。手書きで文章をつづると、書き手の身体とか生理とかがどうしてものこってしまう。ワープロで書くと、そういう痕跡は薄まるのです。そのことが『ハーモニー』の場合、「離人感」を表出するうえでプラスにはたらいている。

 

ワープロ書きが可能だったら、自分の「存在感覚」を、『ハーモニー』のような文体で三島は表現したのではないか。そんな妄想をふくらませています。

 

重里 ワープロが作家の文体をどう変えたか。よく目にする議論ですが、難しいところですね。

 

助川 『ハーモニー』はジョージ・オーウェルの『動物牧場』とか『一九八四年』とか、J・G・バラードの『結晶世界』とか――そういう作品に通じるディストピア小説の面もあるといわれていて、たしかにそういう評価もうなずける面があります。伊藤のデビュー作である『虐殺器官』には、オーウェルが引用されていますしね。

 

それから、この作品のプロットを推進する原動力は、幼少期に性的虐待を受けた少女の「世界に対する悪意」です。この対談でもたびたび触れているように、「個人の怨念やトラウマ」に焦点化していく作品は平成前期に多く、平成後期のフィクションには「人間相互のつながり」が物語を押しすすめる傾向がある。その意味で、『ハーモニー』は平成前期的な作品です。

 

ディストピアがあらわにする「人間」

重里 ディストピア小説というのは魅力がありますね。ザミャーチンの『われら』、オーウェルの『一九八四年』。これらが書かれた直接の動機はスターリニズム批判にあるのでしょうが、それを超えて、人間という動物の正体を明らかにする力を感じます。それは、自ら不自由を求めてしまう傾向といえばいいでしょうか。だから、単なる社会主義批判にとどまらない。高度化した資本主義社会にも、共通したテーマは指摘できるでしょう。

 

助川 「システムの暴走」を描くのに、ディストピア小説というのはうってつけの枠組といえます。独裁体制とか、軍や官僚組織の横暴とか。バラードの場合は、少年期に上海で日本軍の捕虜になった体験が大きく影を落としているようです。先ほどもふれたイシグロの『私を離さないで』もディストピア小説といわれますが、この作品のテーマは、サッチャー以降の新自由主義に対する批判でしょう。

 

重里 人間という存在の根底には、放っておくととんでもない暴力にひきよせられていく属性があるのではないでしょうか。あるいは自分から自由を手放して、従属を楽しむような性向があるのではないか。善よりも悪にひかれ、倫理を踏みにじると快感を覚え、真理よりも虚偽に解放感を感じ、美を壊しては震えるように喜んでいるのではないか。

 

一方で、真善美を求めるのも人の性(さが)だし、道徳的に生きることで喜びや解放感を感じることもあります。魅力的なディストピア小説は、こういったギリギリのところをあらわにしているから、読み続けられるのでしょう。どちらかに重心を置きすぎると、うそっぽくなりますね。

 

助川 「むき出しの人間存在のとんでもなさ」というのは、井上靖や開高健がこだわっていたポイントではないかと、重里さんはくり返し指摘しておられますね。

 

重里 開高健は、オーウェルを高く評価していました。自分で翻訳をしていますね。オーウェルには小説以外にも、ノンフィクションに魅力的な仕事があります。開高と少し重なるところもあるでしょう。

 

助川 井上靖の『蒼き狼』に書かれたモンゴルなんて、ある意味ディストピアですしね。

 

重里 深いニヒリズムを持ちながら、それを相対化していないとああいう小説は書けないでしょうね。井上の根深いニヒリズムがどこに由来しているのか、興味深い問題です。両親と離れて血のつながりのない老女(曾祖父の妾)と暮らした幼少期なのか。少年時代から養われた鋭い観察眼の所産なのか。柔道に打ち込んだ旧制四高時代の経験から得たものが大きかったのか。やはり、敗戦の体験から心身に響いたものなのか。新聞記者という職業に十年以上携わった影響もあるかもしれません。若い時を関西で過ごしたことも考慮していいように思います。

 

ところで、「ジャンル小説から純文学に進出した作家」というと、ミステリー畑から出た作家たちが無視できません。この対談でもすでに触れましたが、高村薫と桐野夏生は、なかでも別格の存在ですね。

 

助川 ふたりとも社会に対する感度がたいへん鋭敏です。

 

原尞と村上春樹の師匠

重里 篠田節子や小池真理子といった書き手も実力のある人たちだと思います。特に篠田の『ゴサインタン』は読み応えのある小説でした。

 

さらにあと二人、ミステリー出身で名前を挙げたい作家がいます。ひとりは原尞。寡作な人ですが、作品のクオリティーは高いです。

 

原が直木賞を獲った『私が殺した少女』を読んで、なんて村上春樹の『羊をめぐる冒険』に似ているのだろうと驚きました。どちらの作品も、中年にさしかかった独身男が一人称の語り手です。彼が奇妙な依頼を受け、わけのわからないまま、迷路のような謎を生きることになる。そして、ミッションを遂行するうちに、さまざまな人間模様を目にする。最後に、主人公は徒労感に襲われる。両者は本当にそっくりなのです。

 

なぜだろうと考えたら、原尞も村上春樹も、レイモンド・チャンドラーの影響を受けているのですね。師匠が同じなのです。チャンドラーの小説も、中年の私立探偵による一人称語りで進行していきます。その語り手が不思議な依頼を受けて、物語が動き出し、さまざまな人間とかかわり合う。最後に徒労が待っている。こういう設定は、都市社会を描くのにとても適しているのではないでしょうか。

 

助川 「中年の独身男」というのは、いちばんいろんな場所に出入りできる存在なんですね。あやしい酒場から官公庁、大企業の役員室、高級ホテル、暴力団の事務所、どこへでもひとりで行って不自然にならない。小説世界の「水先案内人」として、汎用性があります。

 

重里 近代が成熟していくと、社会の多様化、多層化がどんどん加速していきます。バブルがおわったあとの日本も、そういう段階に突入したと思うのです。その状況をどうやって描くかと考えたときに、「中年の私立探偵(のような役割を担った人物)の一人称語り」というのは、非常に有効だと感じます。

 

原寮は、自分の作品を「探偵小説」と呼んでいるのですね。意識的にある型にはめて小説を書くことを選んでいる。ここにしたたかな意識を読むのは私だけでしょうか。相当な才能の持ち主だと思います。

 

島田荘司の筆力

助川 重里さんが注目なさっているもうひとりのミステリー作家というのは?

 

重里 島田荘司です。

 

社会派ミステリーが支配的だった八〇年代初頭に、島田は本格派っぽい作風でデビューしました。彼が路をひらいたおかげで、新本格といわれる人気作家が続々とあらわれて、日本のミステリー史の流れが変わったのは周知の通りです。

 

圧倒的な筆力のある人だと思います。ただ、もう少し自由に書いてもいいのかなと思わないでもありません。

 

助川 それはどういうことですか?

 

重里 本格推理を書くことにこだわりがあり過ぎるというか。もちろん、本格をめざすというところが彼の持ち味でもあるわけですが。

 

助川 それはわかる気がします。チャンドラーには、ミステリーマニア以外のファンも多いんです。英語にくわしいひとたちが、よく文章をほめていますし、「一人称の中年フリーランサーの語り」という設定は、さきほどおっしゃったとおり、現代の都市生活を描くのにとても適しています。都市小説だと思って読んでも、チャンドラーは魅力的なんです。

 

重里 官僚機構とか巨大企業とか、大組織の横暴を表現するのに、フリーランサーがわけもわからないまま事件に巻きこまれていくという展開は、とても読者に伝わりやすいですよね。

 

助川 原の『私が殺した少女』でも、刑事たちの理不尽な行動が描かれていました。

 

本格ミステリーが好きな読者って、まるで詰将棋を解くみたいに密室殺人のトリックにこだわったりしますよね。でも、将棋に詳しくない人は、詰将棋の段取りより、棋士と棋士との人間模様のほうに興味があったりして(笑)

 

重里 そうなのです。トリックの出来ばえよりも、犯人やそれをとりまく人びとがどれだけ深く書けているかを重視する読者もいるわけです。

 

島田の初期の代表作である『占星術殺人事件』は不滅でしょうね(笑)。トリックもすごいけれど、人間模様も非常によく書けています。本格路線を行きつつも、トリックの面白さだけではない作品を島田はどんどん生みだせるはずだった。

 

助川 むずかしいところですね。島田荘司は、大谷翔平みたいに「二刀流」をやれる才能だったけれど、結局「本格派」に特化して大成していく道をえらんだ。その大谷だって、二〇年前に生まれていたら、たぶん「二刀流」はやれなかったはずです。

 

重里 いや、「二刀流」ではなく、本格派を手放して、「小説」を書けばよかったのではないか、と考えたりします。

 

助川 平成になってからの小説についてこうして話していて、面白い小説が数多く書かれた時代だということを改めて実感しています。

 

ただ、文学だけが特権的に社会のありかたを反映するという風には、もはやいえなくなっているでしょう。九五年当時の、サリン事件と阪神大震災がもたらした閉塞感をいちばんよくあらわしていたのは、アニメの『新世紀エヴァンゲリオン』だとおもいますし。

 

ところで、『エヴァンゲリオン』の監督である庵野秀明は、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』で原画を描いたのがプロデビューで、宮崎は「元・教え子」がつくったエヴァへの応答として『もののけ姫』をつくりました。閉塞感のなかでズブズブ沈んでいくエヴァに対し、『もののけ姫』はそれでもとにかく生きろ、というメッセージを出したわけです。

 

重里 気になるのは、『もののけ姫』は結局、具体的な結論を何も出していないということです。これからアシタカはどうすべきなのか。タタラの人びとはどうやって環境と折りあいをつけるのか。エボシ御前はどのようにタタラの集落を運営していけばいいのか。全て未解決のままに終わってしまいます。「解決できない状況でも、とにかく生きてゆけ」ということなのかもしれませんが、「で、どうすんの?」と問いかけたくなります。「生きろ」「生きろ」と言われても(笑)。

 

助川 上映時間一三三分の映画では、複雑な問題にきっちりカタをつけるのには無理があるのでしょう。宮崎駿の例でいえば、コミック版の『ナウシカ』は、映画版とは比較にならないぐらい複雑でダークです。

 

重里 複雑でダーク。そういう問題を真正面から取り上げるのなら、コミックや長編小説が適しているかもしれませんね。

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