関西と大人
重里 とはいえ、春樹が現役作家の中で、ずば抜けて魅力のある作家の一人であることは変わりません。春樹が今後、さらなる発展を遂げるためのポイントとして、思いつきで二つ挙げたいと思います。
一つは、関西人としての感性を全開にして、東京や名古屋以外の地域、とりわけ自分の地元である京阪神圏を舞台にして書くことです。京都か奈良か、しばらく関西に住んでもいい。大阪がいいかもしれません。『女のいない男たち』のなかの関西弁をしゃべる人物が登場する一編「イエスタデイ」も、とても面白かった。関西を舞台にすると日本の文化的伝統とも、まともに向き合わざるをえなくなるのです。
世評とは違って、村上春樹は日本文化の伝統に深く根ざす作家だと私は考えています。無常観、四季の移ろい、善悪がはっきりとしない多神教的な世界。それをもっと前面に出してもいいのじゃないかとも考えます。
私は大学では、村上春樹と宮崎駿をセットで教えることがあります。村上の「かえるくん、東京を救う」を読んだ後で、宮崎の『千と千尋の神隠し』を観る。すると、乱暴な言い方ですが、それぞれの理解が深まる面がある。両方ともカエルが出てきますし(笑)。
国際的に高く評価され、人気を集めている二人の表現の土壌に共通して、多神教的世界観があるのは興味深いことです。かえるくんが死んだ後、彼の身体が破裂して醜いものがいっぱい出てくるのはどうしてか。湯婆婆は果たして善なのか、悪なのか。そんな問いかけをしながら、両作品を読み込んでもらいます。
村上春樹へのもう一つの注文は、四十代以上の大人を主人公にした作品を書くことです。子供や孫のいる大人です。そうすると「壁」を書かざるをえなくなる。「卵」のままだと大人になれないですから。「壁」を書くというのは、加害者を書くということですね。被害者をどこまで追いかけても、権力の構造は明らかにならないです。「父親」を書いてこそ、加害者に光が当てられるでしょう。
両方とも勝手な注文ですが、わかりやすいでしょうか。大阪市か大阪市周辺の私鉄沿線を舞台にして、あるいは京都か、その周辺を舞台にして、子供か孫のいる中年男か老人を主人公にして、長編を書くことを期待したいです。助川さんは、村上と宗教の関係について鋭く指摘されていましたが、関西を舞台にすると、その意味でも面白いのではないでしょうか。
助川 春樹は、どうやら「日本のドストエフスキー」になることをめざしているようです。それじゃあ、どうしてドストエフスキーが死後百年以上たっても世界中で読みつづけられているのか。ロシアの近代化の問題を、ロシアに土着化したキリスト教を通して、いわば「反近代」の側から問いなおしたからです。
十九世紀の近代化と、二十一世紀のグローバリゼーションは、もちろんいろいろな点でちがっています。けれども、資本主義経済が世界にひろまる過程で、「経済やそれに奉仕する科学技術に基盤を置く普遍的原理」と、「土着の心性や生活習慣」の対立が浮きぼりとなり、それが十九世紀ぐらいからずっと地球的課題となってきたことはまちがいない。ドストエフスキーは、そこの部分を凝縮して表現しているゆえに、国境を越えて支持されているわけです。
春樹は、無国籍なところが魅力になって、アジアの新興国で読まれているともいわれます。ヨーロッパやアメリカの文化を、かっこよく消費するマニュアルとして、アジアの人びとは春樹の小説を読んでいるようなのです。
春樹の小説が、そういうカタチで受容されることを私は否定しませんし、興味ぶかい現象だなとも思っています。
ただし、一九六〇年代にいっぱいいた「前衛芸術家」たちと、ジェイムズ・ジョイスみたいな第二次大戦前に活躍したモダニストを比較すると、六〇年代の「前衛」はすっかり忘れられていて、ジョイスはいまだに読まれ、論じられています。このちがいはどこに由来するのか。六〇年代の芸術家の大半が、伝統的な文化を無視したり、取りいれるにしてもかなり曲解してそうしていたのに対し、ジョイスは、ギリシャ神話や聖書をしっかりと基盤にしたうえで、あたらしい試みに挑んだからではないでしょうか。
春樹も、「無国籍的で、アジアの小説なのに欧米アイテムがかっこよくつかわれている」という理由だけで評価されているようだと、風俗が一変する数十年後には忘れ去られる可能性があります。宗教もふくめた東アジア土着の問題をしっかりベースにしてこそ、死んで百年経っても読まれるドストエフスキーみたいな作家になれるのではないでしょうか。
重里 その点を踏まえて助川さんは、「春樹の仏教化に期待する」とお書きになったわけですね?
助川 おっしゃるとおりです。春樹の父親は高校教師であるとともに、僧侶でもありました。春樹にとって「仏教化」することは、日本の伝統につながるだけでなく、自身の出自と向きあうことにもなります。
重里 そうやって自身の足元を見つめる作業を進めると、さらに作品世界を深める鉱脈があると。
助川 村上春樹の影響を受けている新海誠が『君の名は。』をつくり、世界的にヒットさせました。『君の名は。』は、無国籍的な都会である東京と、徹底してローカルな架空の田舎町・糸守を往復しつつ物語が展開します。糸守みたいな風景は、日本以外のどこにもないはずなのですが、それが「喪われゆく土着性」を象徴していることは、国境を越えてつたわったのです。『君の名は。』は、ある意味、春樹の進むべき方向性を指ししめしているように思えます。
重里 あの作品、直接に関係ないかもしれませんが、主人公の男の子(立花瀧)のアルバイト先の美人の先輩がとても魅力的に描かれていました(笑)。
助川 あの先輩、長澤まさみが声を当てていましたよね(笑)。三葉(糸守に住む女子高校生)と中身が入れ替わった瀧に惹かれていくという、微妙な役どころでした。
重里 そこに意識を集中すると、三角関係を描いた物語とも読めるように思ったのです。
ところが、運命を巻きもどすために、主役の二人だけでなく、多くの仲間が協力する。個人の問題である三角関係は遠くに押しやられる。非常に平成後期的な作品ともいえるでしょうか。
助川 「少女漫画は恋愛を語り、少年漫画は仲間の連帯を描く」というのが伝統です。今の重里さんのお話を聞いて、前回お話した「少女漫画にこのごろあまり元気がない問題」は、平成後期の時代相と深くつながっている気がしてきました。
そして春樹の登場人物は、恋愛はするけれど、連帯はあまりしませんよね(笑)。
重里 「『大人』を主役にする」という点はどうでしょうか?
助川 たしかに春樹の長編小説の主人公は、三十代後半が年齢的な上限です。
重里 なぜ春樹は大人を描かないのでしょう。なぜ、子供のいる中高年を主要登場人物にしないのでしょう?
助川 オッサンになってよれよれする自分を認めたくないのではないですか。
脱三島由紀夫を
重里 それって露骨に、三島由紀夫に似ていますよね。春樹はボディビルはやらないみたいだけれど、せっせと走って肉体を鍛えている。すごくストイックな一面を持っていますね。それも三島と共通しています。
助川 三島由紀夫は、外での社交を夜の十二時で切りあげ、帰宅して午前二時ぐらいから書いていた。
春樹は「僕はほかの小説家の大半が夜型であるのに対し、朝型だ」といっていますが、長編小説を書いているとどんどん起きる時間が早くなって、夜九時に寝て午前二時とかから書くようになるそうです。
つまり、実際に執筆している時間は三島と春樹は同じ(笑)
重里 春樹も七十歳です。もうどう考えても若くはない。その「若くなくなった自分」の心身を率直に書いてもいいのじゃないか。それも、自分が生まれ育った言語環境(関西)を舞台に書けばいいと思うんです。日本文化とか宗教とか、いろいろなものを引き寄せて。それは「加害者=父親」の側を、当事者性を付与して描くことにつながるはずです。
助川 三島由紀夫は嫌いだと春樹は公言していますが、春樹は三島を意識しているし、二人には共通するところもたくさんあります。でも、これからの春樹には、三島と似ている部分にこだわって欲しくないですね。
重里 三島由紀夫とはぜひとも訣別してほしい、というのが、私たちから春樹に贈るエールということになりますか。
助川 三島的なものへのこだわりを捨てて、春樹にはさらにもうワンランク大きな作家になってもらいたいです。