4.1 日本語のハ行音に近い音
今回は日本語には無い音を含む一子音文字の解説へと進みます。これでヒエログリフの一子音文字は一通り網羅することになります。
ヒエログリフには日本語のハ行音に近い音を表す文字が実は6種類もあります。そのうちの1つが前回出てきた日本語のハの子音と同じ音の一子音文字「h」です。
転写:h
今回追加で覚えたいハ行系の5つを以下にあげていきます。
1つ目は「f」と転写する一子音文字で、北アフリカに生息するツノが生えた蛇を象っています。
転写:f
この音は日本語でも使われていると思われそうですが、日本語のフやファ行音の最初の子音は無声両唇摩擦音[ɸ]という別の音だとされています。日本語で使用されている[ɸ]は名前が示すとおり「上下両方の唇が摩擦して起こる音」ですが、エジプト語や様々な言語で使われる[f]は無声唇歯摩擦音という「下唇と上歯を軽く触れさせて間に空気を通して摩擦させて起こる音」なので異なる音になっています。
次のヒエログリフは動物を上から見た姿を象った一子音文字「ẖ」(hに下線)です。
転写:ẖ(またはPC入力上の便宜的表記で大文字のX)
この一子音文字が表す音は無声硬口蓋摩擦音[ç]と考えられており¹、日本語ではヒだけでなくヒャ、ヒュ、ヒェ、ヒョの音で使われています。
転写:ḫ(またはPC入力上の便宜的表記で小文字のx)
喉の軟口蓋をこすって音を出す無声軟口蓋摩擦音[x]で、ドイツ語のBach(バッハ)のchや、スコットランド英語のloch(ロッホ)のchの部分に当たります。文字自体は胎盤を表しているといわれています。
次は縄をかたどったヒエログリフで一子音文字「ḥ」(hの下に点)です。
転写:ḥ(またはPC入力上の便宜的表記で大文字のH)
先ほどの音よりもよりのどの奥、咽頭といわれる個所をこすって出す音、音声学的に言えば、無声咽頭摩擦音[ħ]です。アラビア語の話者ならこれらの音の区別ができますが、欧米の学者はたいていできないので、この音をさきほどのḫの音と同じ発音、それでも難しければ、kを用いる人が多いです。
おそらく多くの日本語母語話者はハ行音がこれほど様々な音の集まりであることをご存知ではないと思います。面白いことに歴史的に見ると日本語のハ行音は少なくとも平安時代から江戸時代頃まではɸの音による「ファ行音」だったようで、さかのぼって古代日本語ではpの音による「パ行音」であったとされています。音が変化することは珍しい現象ではないため、エジプト語でも時代によって実際の発音は異なっていたかもしれません。
また、最後の2つ(ḫとẖ)も物理的な音(音声学)のレベルで見ると、方言や個人的な特徴として使用されている可能性が十分にあります。
4.2 他の注意すべき一子音文字
次の文字はkに近い音で、転写はḳ(kの下に点)となります。
転写:ḳ (qと表記することもあります)
のどの奥、正確には口蓋垂(のどひこ)を舌の付け根につけてカ行を発音する、無声口蓋垂破裂音[q]です。もし読者にアラビア語を学習されている方がいらっしゃれば馴染みがあるかもしれませんが、欧米や日本では学者でも発音が苦手な方も多いのでカ行音で発音する場合が多い音です。
次は人工的な溜池を象ったと考えられるヒエログリフでš(sの上に小さなV字)で転写します。この小さなV字は専門用語でハーチェク(小さな鈎)と呼ばれています。
転写: š(またはPC入力上の便宜的表記で大文字のS)
šで転写されるこの文字の音は無声後部歯茎摩擦音[ʃ]です。日本語のシャ、シ、シュ、シェ、ショの最初の子音[ɕ]の調音点を少し前にした音ですが、シャ、シュ、ショで発音してもらって構いません。
次の文字は投げ縄を象ったものです。
転写: ṯ(またはPC入力上の便宜的表記で大文字のT)
この文字の音は専門的に言えば、無声硬口蓋破裂音[c]ですが、チャ、チュ、チョ、の子音で発音していただいて構いません。
次の文字は、何を象っているのか、想像ができるかと思います。そう、コブラです。
転写: ḏ(またはPC入力上の便宜的表記で大文字のD)
この転写で示される音は、1つ前のヒエログリフの転写に対応する有声音[ɟ]です。日本語にはありませんが、近い音で言えば、ジャ、ジュ、ジョの子音です。
さて、この次は何を象った文字でしょうか?図形からはなかなか想像が難しいかもしれませんが、これはドアの閂(かんぬき)です。
転写:z または s
かなり古い時代では違う音でそのことを表すためにzで転写する場合もありますが、古典期の発音ではsと同じであるため、sで転写されることもあります。
これまで勉強してきた一子音文字の発音は、あくまで便宜的なものであり、実際の音声の再建は、時代ごとに異なるし、おそらくは地域的な異なりもあったはずなので、実際、古代エジプト人がしていた発音とは異なる可能性があることを覚えておいてください。例えば、破裂音に放出音(ejective)と言うエチオピア、コーカサス、南北アメリカ大陸などの諸言語に見られる音を仮定する研究者もいます (Loprieno 2004:170)。
4.3 アフロ・アジア語族で用いられる表音文字
前回で、ヒエログリフには、表音文字、表語文字、決定符の3つの種類があること、および、表音文字のうち日本語の発音に近いもの、そして表音文字の性質、例えば子音を表す文字しか無いことを学びました。
基本は子音を表す文字しか無い(アブジャド)、ということはエジプト語と同じ言語系統(アフロ・アジア語族)に属するアラビア文字やヘブライ文字など、第2回目で学んだ諸文字と共通するものです。
ヒエログリフの例
言語:エジプト語
転写:ẖrd
慣読:ẖered (ヒェレド)
意味:男児
ヘブライ文字の例
言語:聖書ヘブライ語
転写(文字は右から左):y-l-d
読み方:yeled
意味:男児
アラビア文字の例
言語:アラビア語
転写(文字は右から左):w-l-d
読み方:walad
意味:男児
また、ウガリト語のウガリト楔形文字も、子音文字となります。
これに対し、同じアフロ・アジア語族の言語で使われる文字でも、アッカド楔形文字は母音の情報も含んでいます。ただし、アッカド楔形文字は、このような音節を表す表音文字だけでなく、語のカテゴリーを表す決定符や、シュメール語の語を書いてアッカド語で読み下すスメログラム(Sumerogram)、表語文字も有しています。
4.4 書字方向と読む方向について
ヒエログリフは左から右、右から左、上から下の3つの書字パターンがあります。読む方向は、シャバカ・ストーン²など特殊なテクストを除き、動物や人を象ったヒエログリフの顔が向いている方向から読む、と考えてください。これに対し、ヒエラティック、デモティックは右から左に向かって書かれます。これらの筆記体の文字が示しているように、エジプト文字の基本は右から左に向かう書字方向です。古王国時代には縦書きが多いのですが、新王国時代以降は横書きが多くなりました。それに対して、最終段階のコプト・エジプト語では、ギリシア文字と同じく左から右に横書きされました。
日本語も上から下、左から右に書かれるほか、戦前は右から左にも横書きされていました。ヒエログリフは、この点、日本語とよく似ていますね³。
ヒエログリフとヒエラティックの書字方向を考える際に重要なことは、スクエア・ライティング(square writing)⁴と呼ばれる文字の配置です。書記は、正方形の升目を想定して、その中に文字を配置して行きました。スクエアー・ライティングの中では上下に読んだり斜めに飛んだりしますが、基本は、上から下と顔が向いている方向から顔が向いていない方向へ、という2つ点を抑えておけば、読めるようになります。スクエアー・ライティングは、マヤ文字にも似たものがあります。また、文字ではなく、字素を単位とすれば、漢字やハングルにも似たところがあります。
[注]
1 Hoch (1997: 7) は発音は不明だとしています。
2 大英博物館に展示されている、第25王朝の碑文。第25王朝はクシュ系の外来王朝である。シャバカはこの王朝のファラオの名前。この碑文が刻まれた石は後代に石臼として用いられたため、独特な損傷がある。
3 エジプト文字を含め、世界の文字の書字方向については、永井正勝 (2005) にまとめられている。
4 Square writing. Englund (1995: ix–x) を参照。クアドラット・ライティング (quadrat writing; Glass et al. 2017などを参照)、あるいは、グループ・ライティング(Egyptian Hieroglyphs 2013などを参照)と呼ばれることもある。なお、グループ・ライティングという用語は、新エジプト語に顕著な外来語の綴りで用いられる音節表記法を指す用語として使用されることが多いので、注意が必要(伝統的な用法でのグループ・ライティングについては、Hoch 1994: 497ff、Allen 2014: 261、Gardiner 1957: §60、Quack 2009などを参照)。
参考文献
Allen, James P. (2014) Middle Egyptian literature: eight literary works of the Middle Kingdom. Cambridge: Cambridge University Press.
Egyptian Hieroglyphs (2013) “Egyptian Hieroglyphs: Lesson 1 Reading Hieroglyphs, Transliteration, Phonograms, Ideograms, Determinatives, Alphabet, and Pronunciation.” < http://www.egyptianhieroglyphs.net/egyptian-hieroglyphs/lesson-1/ >, accessed on 2018-11-18.
Englund, Gertie (1995) Middle Egyptian: An introduction. Second edition. Stockholm: Tryckeri Balder AB.
Gardiner, Sir Alan Henderson (1957) Egyptian Grammar. Revised edition. Oxford: Griffith Institute.
Glass, Andrew, Ingelore Hafemann, Mark-Jan Nederhof, Stéphane Polis, Bob Richmond, Serge Rosmorduc and Simon Schweitzer (2017) “A method for encoding Egyptian quadrats in Unicode.” <http://www.unicode.org/L2/L2017/17112-quadrat-encoding.pdf>, accessed on 2018-11-19.
Hoch, James E. (1994) Semitic Words in Egyptian Texts of the New Kingdom and Third Intermediate Period. Princeton, New Jersey: Princeton University Press.
Hoch, James E. (1997) Middle Egyptian Grammar. Vol. 15. Mississauga, Ont.: Benben Publications.
Loprieno, Antonio. (2004) “Ancient Egyptian and Coptic”. in Roger D. Woodard (ed.), The Cambridge Encyclopedia of the World’s Ancient Languages. Cambridge: Cambridge University Press. 160–217.
Quack, Joachim Friedrich. (2009) “From Group-Writing To Word Association: Representation And Integration Of Foreign Words In Egyptian Script.” In: Alex de Voogt and Irving L. Finkel (eds.), The Idea of Writing. Leiden: Brill. 71–92.
永井正勝 (2005)「古代エジプト聖刻文字の書字方向- 一般統字論構築の一助として-」『一般言語学論叢』第 8 号: 21–45.