3.1 表音文字とは
前回は言語学的視点からエジプト語の系統と親戚関係にある言語で用いられている文字について全体像を確認しました。ロゼッタストーン読解に向けて、今回からはエジプト語のヒエログリフを詳しく見ていきます。
ヒエログリフが持つ用法は、大別すると「表音文字(phonogram)」、「表語文字(ideogram)」、「決定符(determinative)」の3つに分類されます。古代エジプト人はこれら3つの用法を組み合わせてエジプト語を書いていました。
今回は、もっとも中心的な表音文字を見ていきましょう。表音文字は、音のみを表す文字で意味は表わしません。例えば、日本語のひらがなとカタカナ、様々な言語で使用されるラテン文字などが該当します。
カイロ
上記の単語の最初の文字「カ」は、カ行ア段の音である ”ka” という音節(syllable;1個の母音と0個以上の子音から構成される単位)を表しています。続く文字も同様に音のみを表しています。それゆえ、「カ」「イ」「ロ」の文字のそれぞれは音を表しているだけで、それ自体が意味を持っているわけではありません。
Tokyo
上記のようなラテン文字の単語でも音を表すのみであることは変わりませんが、例えば最初の ”T” は子音に分類される文字で、『歯茎に舌を当てた状態から、舌を離しつつ、声門を震えさせずに、肺呼吸で空気を口から出す時に出る音』(無声歯茎破裂音)を表わします。文字の表す音の単位がひらがなやカタカナよりも細かいと言うことができます。
表音文字の下位分類として、音節単位の音を表す文字を音節文字(syllabary)、子音や母音にそれぞれ対応する文字を持つ体系をアルファベット(alphabet)と呼びます。ひらがな・カタカナは、実際は拍(モーラ、mora)と呼ばれる単位で文字が割り振られていますが、音節単位のことも多いので、通常は音節文字にカテゴライズされ¹、ラテン文字はアルファベットに分類されています。
3.2 ヒエログリフの表音文字
ヒエログリフの表音文字について実際の文字を見ていきたいと思います。ヒエログリフの表音文字は、それが象ったものを意味する単語の最初の音を表しています。ヒエログリフのことを漢字のように意味を持った「象形文字」、あるいは「絵文字」だと思っていた方には意外かもしれません。
文字や絵図が象ったものの音だけを利用する方式をリーバス法(Rebus Principle)と呼びます。この方式は古代中東の楔形文字や、メソアメリカ地域の文字でも用いられました。ヒエログリフとは少し異なる例ですが、日本でも江戸時代に流行った判じ物²や、現代のネットスラング³でも見られるものです。
次の文字は、住居の平面図を象ったヒエログリフで ”h” の音を表しています。
しかし、この文字は「住居」を意味するわけではなく、”h” 「声門摩擦音」という『声門の筋肉を大きく揺らして鳴らす音』(日本語の「母(haha)」の最初の子音)を表す表音文字として使われます。
次の文字は、明らかに鳥、特にフクロウと思われる形状をしています。
しかし、やはりこれは鳥やフクロウを表す絵や単語ではなく、 “m” (「ママ (mama)」の最初の子音)を表す文字です。
次のラグビーボールのようにも見えるヒエログリフは「人の口」を象った “r” の表音文字です。コプト語でも「口」を表す単語は “ro” ですので、数千年に渡って子音の “r” が継承されています。
このようにヒエログリフには表音文字があります。ヒエログリフの表音文字の中でも、日本語話者にとって馴染みのある音を表す文字を抜き出したものが次の表です。
3.3 文字として現れない母音の問題
これからヒエログリフを用いた単語や文章を扱う上で知っておくべきことの一つが、誰にも「正確な発音が分からない」という事実です。例えば、次の簡単なエジプト語の単語を例に見てみましょう。
この単語は、日本語の「これ」(英語の this に相当)を表す単語の一つです。2つの表音文字から構成されており、は “t” 、は “n” を表しています。ヒエログリフは文字に大小だけでなく縦長・横長なものもあるため、横書きでも文字を縦に配置することが多々あります。基本的に縦配置の場合は上から下へ読みますので、この単語は tn という子音の連続からできていることが分かりますね。
音節文字に慣れている日本人に限らず、子音だけでは発音しにくいのですが、古代エジプト人たちはこの単語を母音付きで読んでいました。つまり、この単語には母音があるのです。しかしながら、ヒエログリフでは原則として母音が文字として書かれないという特徴があるため、私たちには実際にどのような母音があったのか分かっていません。
ヒエログリフの持つこの「子音だけを文字として表記する方式」を受け継いだ古代のセム語派の話者たちは、表音文字だけで構成される子音文字体系のアブジャド(abjad)を後に作り上げました。代表的な例はヘブライ語のヘブライ文字、フェニキア語のフェニキア文字、アラビア語のアラビア文字、シリア語のシリア文字などです。ただし、実際には完全に子音だけを表す文字体系は稀で、アラビア語のように記号を用いて特定の母音を表すことがあります。
数々のエジプト語学者が、母音を表記するコプト語⁴、他の文字で書かれたエジプト語の単語、アフロアジア語族の諸言語との比較といった様々な資料や分析を用いて、ヒエログリフなどの文字資料に書かれていないエジプト語の母音を再建しようと模索しています。この学問分野のことを「母音再建⁵」(vocalization)と呼びます。
しかし発音しにくいと学ぶ上ではどうしても支障が出るため、学問的には誤りであることを重々承知しながらも、エジプト語学者は子音の間に母音 “e” を入れて読んでいます。本連載では今後、ヒエログリフのローマ字による子音表記を「転写」⁶、便宜的な発音表記を「慣読」と表記します。例に出ている「これ」を意味する単語 tn は、ten(テン)と便宜的に読むことにしましょう。
= tn(転写)= ten(慣読)
今回は、日本語でも馴染みのある音を表す文字を取り扱いましたが、次回は日本語には無い音を含む一子音文字の全体へ進みたいと思います。
[注]
1 ひらがなやカタカナは一般的に音節文字に区分されることが多いのですが、より専門的な見方をすれば、拍(モーラ)単位で文字が当てはめられていることから、「モーラ文字」と呼ぶ方が適切だと考える研究者も少なくありません。
2 例えば、鎌と輪の絵に「ぬ」という文字を並べて「かまわぬ(構わぬ)」と表現しました。
3 例えば、「本田△」(ほんださんかっけい)で「本田さんカッコいい」の意味を表現する。英語でも ”ic” → “I see”、”gr8” → “great” というような例が多数存在している。
4 コプト文字は、ギリシア文字のアンシャル体にデモティック由来の文字を追加したものです。ギリシア文字はアルファベットですので、コプト文字には母音字があります。
5 直訳したら「母音化」だが、日本語としてわかりにくいので、意訳しました。
6 エジプト学では「翻字」(transliteration)とよく言われていますが、これは言語学的に言うと誤用と言えます。本来の翻字では元の文字と写した文字とが一対一に対応しないといけませんが、ヒエログリフの場合は決定符や発音補助文字が存在するため一対一には対応しなくなるためです。この点については本連載の中でも改めて取り上げていきます。