1.1 ヒエログリフについて
本連載は読者の皆さんを古代エジプト文明で使われていた「エジプト語」と、その代表的な文字である「ヒエログリフ(聖刻文字)」の世界へとご案内する学術的な入門編です。ここで言うエジプト語は、現代エジプトで使われている「アラビア語エジプト方言」とは異なる、別の言語です。エジプト語の歴史を辿ると、紀元前3千数百年前の遺跡から見つかった発掘品に、まだ稚拙な字形ではありますが、ヒエログリフ(あるいは古拙エジプト文字)が刻まれています。それゆえ、エジプト語は最初期の書記記録を持つ言語だと言えるでしょう。一方、現在でも、コプト・キリスト教¹というキリスト教の教派で「コプト語」と呼ばれるエジプト語の最終形態が教会の典礼で使われています。それゆえエジプト語は少なくとも5千年以上に渡る記録が現代まで続いている世界的に稀な言語ということになります。
さて、ヒエログリフと聞いて何を思い浮かべるでしょうか。神秘性や古代文明へのロマンから本や広告のデザインで使われているのを見たり、「世界ふしぎ発見!」などのテレビ番組、「遊☆戯☆王」などの漫画やアニメ、「ハムナプトラ」シリーズなどの映画、「アサシン クリード」といったゲームなど、様々な場面で「古代エジプトの象形文字」として目にしているのではないでしょうか。しかし、実は古代エジプト以外の文脈でも「ヒエログリフ」と呼ばれる文字がいくつか存在しています。例えば、現在のトルコ南西部で紀元前2–1千年紀に栄えたルウィ人たちは「アナトリア・ヒエログリフ(Anatolian hieroglyphs)」という古代エジプトのものとは異なる文字を、メキシコのユカタン半島で栄えたマヤ文明では紀元2世紀頃から「マヤ・ヒエログリフ(Mayan hieroglyphs)」とも呼ばれるマヤ文字を使用していました。また、エストニアではこれらに類する文字として「漢字」をヒエログリフと呼ぶことがあります。
このようにヒエログリフと呼ばれる文字は古代エジプト以外にもありますが、歴史家ヘロドトスをはじめとする古代ギリシア人たちが古代エジプトの神殿の壁などで使われている文字をヒエログリュフィカ(ἱερογλυφικά)(「神聖な文字」の意味)と呼んだため、ヒエログリフと言えば古代エジプトのヒエログリフを意味する場合が多いでしょう。
物の形を象った文字が多いことからヒエログリフは「象形文字」と一般的によく呼ばれますが、実際に学んでいくとアルファベットのように音を表す文字が多く使われ、文字の形が表す物と意味が異なることも多いと気付かされます。また、ルビあるいは送り仮名のような表記や漢字の部首のような機能の文字もある複雑な文字体系なのですが、そういった概念に慣れている日本語話者にとっては学びやすい文字でもあります。
本連載の副題にもある「ロゼッタストーン」は現在イギリスの大英博物館に収蔵されている黒い石碑のことです。ヒエログリフと共に、デモティック(民衆文字)とギリシア文字で同じ内容の勅命が記録されています。ヒエログリフは古典的なエジプト語の表現を記録するために使われていますが、デモティックは当時のエジプト語を記すために使われています。作られたのは紀元前196年、プトレマイオス5世と呼ばれるファラオが統治していた時代です。フランスの学者ジャン・フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion、1790–1832)はこのロゼッタストーンを手がかりにヒエログリフの解読を成し遂げました。本連載ではロゼッタストーンに刻まれたヒエログリフの一部を初学者向けに解説しながら読み解いていきます。
ロゼッタ・ストーンの転写(Public Domain)。上部は、ヒエログリフで中エジプト語が、中央はデモティックで民衆文字エジプト語が、下部はギリシア文字で(コイネー・)ギリシア語が書かれている。
1.2 エジプト語の系統
ロゼッタストーンにヒエログリフとデモティックで記されている言語はどちらもエジプト語なのですが、日本語で言うと「古文」と「現代文」のように異なる言葉が使われています。ヒエログリフで書かれているのは「前期エジプト語(Earlier Egyptian)」に分類される、ロゼッタストーンが作られた時代から見ても既に2千年近く前に話された古典語です。そして、デモティックは当時の人々が日常的に話していた「後期エジプト語(Later Egyptian)」を記録するために使われていました。ちなみに後期エジプト語の中には冒頭で言及した「コプト語」が含まれており、今でもエジプトの総人口の約1割とアメリカ合衆国、カナダ、ドイツ、オーストラリアなどに暮らしている信者が典礼の中でコプト語を使用しています。
前期エジプト語と後期エジプト語は時代・文法・文字の観点からさらに細かく分類されています。次の表はベルリン・フンボルト大学のエジプト語学者であるカマーツェル(Kammerzell 2000: 97²)による区分にならったものです。文字に着目すると、前期エジプト語の古エジプト語と中エジプト語、そして後期エジプト語の新エジプト語は、ヒエログリフとヒエラティック(神官文字)で書かれています。それに対して、民衆文字エジプト語は主にデモティックで、コプト語はコプト文字で書かれています。
さらに、言語学、特に「比較言語学(comparative linguistics)」という近代言語学の中でも最も歴史のある研究分野⁴の研究者の研究成果に基づけば、文献に書かれているよりも、さらに古い時代の言語について知ることができます。複数の言語の歴史をさかのぼっていくと、「祖語(proto-language)」と呼ばれる共通の祖先にたどりつくことがあります。例えば、フランス語、イタリア語、スペイン語はもとをたどれば俗ラテン語という古代ローマ帝国の西半分で広く話されていた言語から派生したことが分かっています。この比較言語学によれば、エジプト語は、元をたどればアフロ・アジア祖語から分かれ出た言語です。このことは、次回の連載で詳しく説明します。
[注]
1 三代川寛子(編)(2017)『東方キリスト教諸教会 : 研究案内と基礎データ』明石書店、アズィズ・S・アティーヤ(著) 村山盛忠(訳)(2014『東方キリスト教の歴史』教文館などを参照せよ。
2 Kammerzell, Frank (2000) Egyptian possessive constructions: a diachronic typological perspective. STUF – Language Typology and Universals, 53(1), 97–108.
表の中で時代が被っている箇所は、複数の言語が併用されていたことを意味しています。
3 Kammerzell (2000)では紀元後3世紀から20世紀までとされているが、現在も限られた文脈とは言え使用されていることから、ここでは紀元後21世紀としています。
4 歴史比較言語学に関しては、吉田和彦 (2005)『比較言語学の視点―テキストの読解と分析』 (シリーズ・言語学フロンティア) 大修館書店、吉田和彦 (1996)『言葉を復元する―比較言語学の世界』 三省堂、高津春繁 (1992) 『比較言語学入門』 岩波書店、風間喜代三 (1987)『言語学の誕生―比較言語学小史』 岩波書店などを参照のこと。