太郎:あ、寺沢さん、こんにちは。
寺沢:あ、僕の家の近所に住んでいて、「一を聞いて十を知る」タイプの小学5年生、こと、太郎君だね。こんにちは。
太郎:そのすごく説明くさいセリフ、前回の記事・前々回の記事とまったく一緒ですね。
寺沢:ウェブマガジンはたとえ連載だったとしても、初めて読む人が多いからね。キャラ設定を改めて確認しておくことは重要だよ。
太郎:はあ・・・。
寺沢:夏休みをエンジョイしているかな?
太郎:はい、でも今心配なのは自由研究なんです。なかなかテーマが難しくて。
寺沢:どんなことを調べてるの?
太郎:タイトルは「なぜ私たちは英語を学ばなければならないのか? 英語教育の目的の一考察(仮)」です。
寺沢:ガチのやつ!
太郎:図書館に行って本を借りて読んでみたり、学校の先生にインタビューしたり、政府の文書を調べたりしているんですが、みんな言ってることがばらばらで。
寺沢:それって小学生に求められる自由研究なの・・・。
太郎:あと、みんなの言ってることが、わかるようでわからないんですよね。なんだか気持ち悪くて。
寺沢:なるほど。
太郎:そんなとき、ちょうどいいところに寺沢さんが現れたというわけです。
寺沢:ふむふむ。じゃあ、今日はこの問題についてじっくり説明してあげよう。
太郎:え、いいんですか、ありがとうございます。でも、ウェブマガジンで語るにはちょっとマニアック過ぎじゃないですか。
寺沢:だいじょうぶ! マニアックな内容でも「小学生と語る」形式にすると、わかりやすくなるらしいよ。
太郎:うわー、安易・・・。
なんのために英語を「教える」のか
寺沢:まず論点を絞ろう。今日の話は、日本の小学校・中学・高校で英語を教える目的だ。言い換えれば学校英語教育の目的。
太郎:大学は除外するわけですね。
寺沢:うん。制度的に異質だからね。で、教育目的ということはつまり、個人の英語学習目的──何のためにあなたは英語を学ぶのか──の話はしないということ。
太郎:え? 何が違うんですか?
寺沢:一言でいうと、強制性の違い。個人の英語学習は、結局のところ、個人の自由だよね。勉強するのも自由、しないのも自由。何のために学ぶのかだって、人によって違うのはむしろ当たり前。
太郎:なるほど。
寺沢:「僕は○○のために英語を学んでるんだ」「私は××が目的です」と言われたら、「そうですか、みんなちがってみんないいですね」で終了だね。
太郎:まあ、そうですね。
寺沢:でも、学校英語教育はそうじゃない。児童生徒が自分の意思で学んでいるわけではなくて、学習を強いている。強制的に学ばせているわけだから、その目的が個人の自由では許されないよね。公共性が高い目的が必要になる。
太郎:みんなが受け入れられる目的じゃなきゃ、ブーイングが出ちゃいますよね。
寺沢:というわけで、以下では英語を(強制的に)学習させる目的を考えていくよ。