百物語と文学史
こうした百物語は、江戸時代にイベントとして行われるようになり、明治時代の後半には小説家や文化人たちが集まって開催する形が流行するようになりました。
このあたりの事情については、東雅夫『百物語の怪談史』(角川ソフィア文庫、文庫版は2007年)にまとめられていますが、この本は少し読みにくいので、喜多崎親編『怪異を語る 伝承と創作のあいだで』(三元社、2017年)が図書館でみつかれば、そこに入っている東雅夫「百物語の歴史・形式・手法・可能性について」と、「日本『百物語』年表」とをあわせて見たほうがわかりやすいかもしれません。
この『怪異を語る』は、東雅夫さんと編者の喜多崎親さんのほか、『巷説百物語』シリーズ(角川文庫ほか。文庫版は2003年~2013年)などで知られる作家の京極夏彦さん、民俗学者の常光徹さん、英文学者の太田晋さんが集まって成城大学で行われたシンポジウムの様子を記した講演録ですが、怪談や妖怪といった怪異について知るためにとても興味深いトピックがいくつも示されていて、高校生くらいなら十分に読める内容になっています。
特に京極夏彦「語り手の『視点』という問題 怪異と怪談の発声:能楽・民話・自然主義をめぐって」では、「幽霊はいません」という前提に立って、それを能や歌舞伎、小説といった文化が、どのようにして「見える」形にしてきたのかを、「視点」という角度から説明しています。
ここでは、国語便覧や国語の教科書に出てくる作家たちがどのようにして小説を書いてきたのかが、京極さんなりの見方で示されています。特に、能や歌舞伎、小説で怪異を描くとはどういうことかを知ってから実際の作品を読んでみると、文学史がただ作家名や作品名を暗記するだけの無味乾燥なものではなくなっていくように思います。
現代の百物語
一方、実際に百物語をするのは、とても大変です。一話の持ち時間を五分としても一時間で十二話、九十九話までやるためには八時間十五分。午後八時に開始しても、終わるのは午前四時過ぎになってしまう計算です。
けれども本の形になったものを読むのであれば、時間を気にすることなく百物語に触れられるかもしれません。
百物語を題材にした小説は数多くありますが、その中で特におすすめしたいのが、小野不由美『鬼談百景』(角川文庫、文庫版は2015年)です。この本はまさに現代の百物語と言えるもので、99話の怪談が収められています。
地方都市のとある商業施設にある階段に作業服を着た幽霊が出るという「K怪談」。
玄関のドアの向こうから殺されたはずの母親の友人がドアを叩いて叫ぶ声が聞こえるという「助けて」。高速道路で奇妙なタクシー運転手に遭遇する「トンネル」。
そして、怪談の舞台としてまず思いつく場所といえば学校です。
水泳の時間にプールのコース八つを使って四十人のタイムを計ったのに、どういうわけか一人余ってしまったという「第七コース」。けっして開かないはずの放送室から音が聞こえるという「開かずの放送質」。狐狗狸(コックリ)さんをしていたら不思議な現象が起こったという「教えてくれたもの」などの話は、きっと身近に感じながら読むことができるでしょう(あまり身近に感じたくないかもしれませんが……)。
怪談の作られ方
怪談はただ怖い話をしただけでは成立しません。京極夏彦さんが指摘していた「視点」や、『巷説百物語』の「巷説(こうせつ)」という言葉とも深く関わるのですが、この『鬼談百景』では、怪談に欠かすことのできない要素がしっかりと押さえられています。
たとえば、「テント」という話の冒頭部分を読んでみましょう。
これはNさんが友達から聞いた話だ。同級生のAくんという男の子が、夏休み、お父さんと二人でキャンプに行った。
二人はキャンプ場に着いてすぐ、テントを張った。それから石を積んで竈(かまど)を作っている父親に言われて、Aくんは薪を集めに林の中に入っていった。
この部分を読むだけでも、この話がとても複雑な作りになっていることがわかります。
まず、この『鬼談百景』という本は、もともと作者の小野不由美さんが、読者から手紙で寄せられた怪談をもとに作り直したものを集めているそうです。
また、小説の世界の中で、小説の地の文を書く人を「作者」と切り分けて「語り手」と呼ぶというのは、今では中学2年生の国語の教科書でも説明に使われていますね。具体的には、作家が小説の中に、自分自身とは違う人格としての「語り手」を設定して登場させるというイメージになります。これは、小説やマンガなどでストーリーを作るときの、もっとも基本的な考え方の一つです。
したがってこの怪談は、作者である小野不由美さんの分身と言える「語り手」が、「Nさん」という人から話を聞いているという形に書き換えられています。実際に読者から手紙をもらったのは小野不由美さん自身なのですが、「語り手」が聞いたという形に書き換えたところに、この怪談の創作としての要素が生まれているわけです。
けれどもその「Nさん」も、「友達」から話を聞いたことになっています。さらに、「テント」で怪奇現象を目にしたのは、「Nさん」の「友達」の「同級生のAくん」。
つまり、この怪談は、「同級生のAくん」が話した内容を「友達」が聞き、それが「Nさん」に伝わったのを「作者」である小野不由美さんが聞いたわけですが、それを「語り手」に語らせることでもともとの話とは違う、より怪談として形の整ったものに書き換えるという手続きを踏んでいます。完全に伝言ゲームの世界です。
怪談が生み出す恐怖感
どうしてわざわざ、こんなに複雑な書き方をしなければいけないのでしょうか。実はこの伝言ゲームのような手続きこそが、怪談を成立させる上でとても重要な要素になっているからです。
この「テント」という話は、「Aくん」が父親と二人でキャンプに行ったところ、薪になりそうな枯れ枝を集めているときに不気味な女性を目にするというものです。けれどもそれを父親に話すことができないでいたところ、夜になって、テントの外側をホウキで掃いているような、不思議な音を耳にします。怖くなって入口の隙間を覗いてみると、昼間見かけた女の人が、逆さまにぶら下がってニヤッと笑う……そこで「Aくん」は意識を失ってしまいました。数日後に「Aくん」は、キャンプ場で実は一人の女性が首を吊って亡くなっていたという話を耳にした、というオチになっています。
こういう怖い体験をした「Aくん」。でももしかしたら、これはAくんが見た夢かもしれません。そしてもしかしたら、「Aくん」の作り話かもしれません。
けれども、その話を聞いた「Nさん」の「友達」は怖いと思ったので、「Nさん」に話しています。また、「Nさん」もこの話に恐怖を感じたので、小野不由美さんに手紙を送ったのでしょう。
この場合、「Aくん」が体験したことは本当か嘘かわからないのですが、「Nさん」とその「友達」がこの話を聞いて感じた恐怖感だけは、少なくとも本物です。そして、作者である小野不由美さんが「語り手」を介してよりまとまった形で語らせることで、この恐怖感が、読者へと伝わっていくようになります。
そのとき、恐怖を感じた読者や聞き手にとっては、この話が嘘であるか本当であるかは、もう関係がありません。恐怖を感じたという事実。また、もしかしたら本当にこういうことが起こるかもしれない、私たちの日常にも同じようなことが起こるかもしれないと思ってしまうこと。こうした想像力こそが、怪談の恐怖を作っています。
京極夏彦さんの『巷説百物語』の「巷説(こうせつ)」も、同じように「巷(ちまた)」で流れている噂話という意味です。最初にご紹介した『日本現代怪異事典』に収められたものも、そのほとんどが同じように、噂話としての要素を持っています。
怪談はこのように、他の人から聞いた噂話がもしかしたら事実かもしれない、自分たちの日常にも同じことが起こるかもしれないという聞き手の想像力にもとづいて生み出されていくものです。私たちの日常の中に不意に入り込んでくる不思議な現象と、それを聞いたときの恐怖感。日常の中に、もしかしたら本当に潜んでいるかもしれない闇の世界。
そういう意味で怪談の怖さは、いわゆるホラー映画やホラー小説、お化け屋敷のような怖さとは、少し違っています。そこで描かれる非日常的な、次々に襲いかかってくる怖さではなく、日常の中にひっそりと潜んでいる恐怖感。それを受け入れることが、怪談の楽しみ方の一つだと言えるでしょう。
今年の暑い夏はぜひそういう視点から、怪談で涼しくなってみてください。