自動翻訳、使ってみました
昨今では、コンピューターによる自動翻訳もその精度が高まってきています。数ある無料翻訳のなかでも、もっとも利用されているものの1つが、Google翻訳でしょう。同翻訳サービスは2016年11月に翻訳方式が見直され、それまでの単語単位から文単位での翻訳が可能となり飛躍的に精度が高まったそうです。
Google翻訳については、翻訳家の越前敏弥さんが自身の著作『日本人なら必ず誤訳する英文』(ディスカヴァー)で取り上げている英文のうち10文を、実際にGoogle翻訳に訳させ、その評価を「7問が完全な誤訳、3問が微妙なレベルで、使い物になるのはゼロ」と判定しています(こちらにTwitterのまとめがあります)。後に触れますが、この「使い物になる」というレベルをどのように捉えるかで「これからの英語教育について話す」方向性が変わります。
越前さんと同じことをしても仕方がないので、日本語から英語への翻訳について少し試してみました。その際、AERA dot.の「Google翻訳からネイティブっぽい英文を導く6つのコツ」と題した記事を参考にしました。同記事は、『英文“秒速”ライティング』(日本実業出版社)の著者・平田周さんへのインタビューをもとにしていますので、あわせてそちらもご覧ください。ここでは平田さんのご著書の「ネタばれ」を避けるために、上記のオンライン情報をもとに検証してみます。インタビューによれば、「一言でいえば、日本語を英語っぽくしてから翻訳ソフトを使うという方法」とのことです。
これは古くは中津燎子さんの『再びなんで英語やるの?』(文春文庫)にある「中間日本語」(p.178)の考え方と共通しています。実際、平田さんも「中間日本語」という文言を使っています。また、三森ゆりかさんの「翻訳しやすい日本語」を生み出す「言語技術」という考え方とも共通しています(『外国語を身につけるための日本語レッスン』、白水社)。私としては、欧米の言語技術教育の規範に準拠する傾向があまりにも強いことや、英語教育を単なる技能科目として位置付ける点などには違和感を抱いています(拙稿「言語観教育序論」、かどや・ひでのり/ましこ・ひでのり 編著『行動する社会言語学』所蔵)。しかしながら、日本語と英語との翻訳を考える上では共感できることも多いとも考えています。
越前さんがGoogle翻訳の実力チェックに用いた10文の中には、“Yesterday I met a novelist and poet.” というものがあります。越前さんの検証によれば、「昨日私は小説家と詩人に会った」というのがGoogle翻訳の結果です。私もやってみましたが、結果は同じでした。英文中の “a” は “novelist” と “poet” の両方にかかるわけですら、“a novelist and poet” の箇所は、正しくは「小説家でも詩人でもある人物」のはずです。
次に、この越前さんによる翻訳「きのう、小説家でも詩人でもある人物と会った」(同書、p.13)を「日本語を英語っぽくしてから」Google翻訳を使ってみました。中間日本語はいろいろ可能性がありますので、いくつか示しておきましょう。結果は次の通りです。
お題の英文 | Yesterday I met a novelist and poet. |
越前さん模範解答 | きのう、小説家でも詩人でもある人物と会った。 |
Google翻訳(1) | [中間日本語] 昨日、私は小説家で詩人の人物と会った。 |
[Google翻訳] Yesterday, I met a poet and a novelist. | |
Google翻訳(2) | [中間日本語]昨日、私は小説家かつ詩人の人物と会った。 |
[Google翻訳] Yesterday, I met a poet and a novelist. | |
Google翻訳(3) | [中間日本語]昨日私が会ったのは、小説家で詩人の人物だ。 |
[Google翻訳] Yesterday I met a novelist and a poet. |
結果から明らかなように、どのように日本語を工夫しても、“a novelist and a poet” となりました。これでは、“I(私)” が “met(会った)” のは、「小説家でも詩人でもある」同一人物ではなく、「小説家と詩人」という二人の人物ということになってしまいます。もしかすると、もっと日本語を工夫すればより正確な英文になったかもしれませんが、それだと時間的にあまり効率的とは言えません。
ところで、このように「 “a” がかかる範囲はどこまでか」を私が判断できたのは、英語の構造を正確に把握しているからです。また、日本語の意味を変えずに「中間日本語」を生み出すことができたのは、日本語の構造を理解できているからです。Google翻訳を介して生み出された英文を、正確に判断するためには、とどのつまり日本語と英語の構造の異同に関する理解が不可欠でしょう。
正直なところ、これができるのならば、Google翻訳を使わなくても、けっこう的確な翻訳を自力でできます。また、日英語の構造やその背景にある発想法・視点の違いを理解していれば、Google翻訳にはできない「 “a” の範囲」なども対処できると思います(「言語技術」の習得の程度によりますが)。
「誰」にとっての「使い物になる」というレベル?
ここまでなら、「自動翻訳は無能、不要」と思われるかもしれませんが、そう言うつもりはありません。他方で、このような「間違い」をどこまで気にするのか、という問題があるからです。翻訳家や英語の専門家でもない限り、「通じればいい」くらいの気持ちの人が大半ではないでしょうか。もちろん、少しの誤訳で大きな誤解を生んでしまい、取り返しのつかないこともあるでしょう(鳥飼玖美子さんの『歴史を変えた誤訳』(新潮文庫)とか、とても面白いです)。
しかし、そもそも自動翻訳に頼ろうとする人は、そのような語学のプロを目指しているわけではありません。それに単独の英文だけで意味の全体を把握することは、あまり現実的ではありません。前後の文脈をはじめ、さまざまな情報源を駆使して、私たちは意味を生み出します。先の “a novelist and poet” を仮に「二人の人物」と解釈したとしても、小説や物語のような場合であれば前後の文脈から、ドラマや映画などであれば登場人物などから、情報を補って正確な解釈を生み出します。対面コミュニケーションであれば身振りや手振りをはじめとして、発話から「意味」を見出す糸口はたくさんあります。それに、相手に誤解を与えている可能性があるならば、情報を補って意味の修正をすれば良いだけの話です。文書など、言語だけで一方通行的に、可能な限り正確な意味を伝えなければならないという状況に置かれない限り、言語面だけでコミュニケーションの意味構築が完結することは稀ではないでしょうか。
80歳からプログラミングを学び始め、iPhoneのアプリを開発した若宮正子さんは、CNNからのメールでの問い合わせに対して、Google翻訳を用いて英文を翻訳、その返信にも日本語で書いた文章を同じくGoogle翻訳で英訳し、そのまま送ったそうです。その結果、世界の開発者を集める会議が開催されたそうです。同記事を書いた脳科学者の茂木健一郎さんは、「このエピソードは、インターネットや人工知能といった技術インフラが整いつつある現代に適した『行動原理』を示唆する」と述べています。肝心なのは「英語力」ではなく、伝えるべき内容を持つことと行動力ということです。
自動翻訳の精度が高まり「言葉の壁」が低くなったりなくなったりした場合について考えてみましょう。その場合、伝達された言語情報を文脈に応じて適切に解釈できる力が大切になります。情報過多の時代ですし、未知の情報をうのみにせず、既知の情報と比べたり批判的に解釈できたりする力が求められることになります。M. Byramは、「異文化コミュニケーション能力」の一部として、このような側面の重要性を主張しています(Byram, M. Teaching and Assessing Intercultural Communicative Competence. Clevedon: Multilingual Matters)。
次節に見るように、自動翻訳を使えばある程度の翻訳は瞬時にできてしまいます。そのような場合、学習者たちが「学校」という場でこそ学ぶことのできるものとは何か、という点も考えるべきでしょう。
同じ教室内で英語を学んでいる学習者たちは、決して同じ考え方やものの見方をしているわけではありません。授業で扱う課題や教材に対して、どのように考えたり思ったりするのかは、本来的には「人それぞれ」のはずです。英語の「カタチ」にこだわったままだと、「言いたいこと」ではなく「言えること」で済ましてしまうことが多いでしょう。あるいは、「空気を読んで」英語教員が望む発話をする学習者もいるかもしれません。「自動翻訳ありき」だとすれば、同じ教室内の学習者同士が互いの考えやものの見方を、対話を通じて知る機会を提供するといった授業ができるでしょう。先に述べた日本語と英語の構造の異同という観点からは、自動翻訳で生成された英文・和文を学習者が書き直す・考え直すというタスクに繋げられます。このような授業のあり方が、自動翻訳を見据えた場合にはあり得るかもしれません。
中学英語レベルと自動翻訳
では、中学校段階で、どれほどGoogle翻訳が「正確」なのかを検証しましょう。
三省堂の New Crown の3年生用第8課は、“English for Me” というテーマです。「これからの英語教育の話」をするには、うってつけの題材と言えるでしょう。その最初のページには、“What do you think of learning other foreign languages?” とあります。これをそのまま、Google翻訳で和訳させました。
「他の外国語を勉強するとどう思いますか?」という日本語訳が出ました。うーん、惜しい。より正確には、「他の外国語を勉強することについて」です。もちろん、日本語の表記上は微妙な違いですが、意味はけっこう違います。Google翻訳では、「どう思うか」の対象があいまいです。とはいえ、「他の外国語を学ぶこと」と「あなたがどう思うか」という点については、伝わるでしょう。
次に、日本語から英語にしてみました。
「他の外国語を学ぶことについて、あなたはどう思いますか?」という日本語に対し、“What do you think about learning other foreign languages?” と訳出されました。“of” と “about” の違いこそあれ、“languages” と複数形にしています。日本語を入力すると、ほぼ同時に英文が提示されます。中学生が、この程度の英文を「話す・書く」ことができるようになるために必要な時間とは大きな差です。
もう少し試しておきましょう。同教材では、さまざまな登場人物が、上記の “English for me” というお題に対し、意見を述べています。その中の一つ、アメリカ人Paulの意見を例にします。
第1文目の “I thought I was a good English speaker.” に対し、「私は良い英語のスピーカーだと思った」という訳出になっています。この英文に対して、日本語では「思った」よりも「思っていた」の方が、より「しっくり」くるでしょう。「思った」を「過去の行為」とするならば、「思っていた」は「過去における状態」を表します。日本語ではアスペクトの観点から表現するのですが、英語では行為者とその行為により力点を置いた表現が好まれる傾向にあります。そのため、日本語に自動翻訳される際に、日本語のこのような違いが考慮されることはないようです。とはいえ、意味としては十分伝わるでしょうし、たいていの日本語話者は、たとえ「不自然」に感じたとしても意味を取り違えることはないのではないでしょうか。
自動翻訳ありき、とすれば…
このように、中学校レベルの英語であれば、Google翻訳はかなりの程度、「意味」の点において正確に訳出してくれそうです。この英文は、中学校の3年生のものです。おそらく、日本のすべての中学生が、Google翻訳のレベルに達するには、相当な時間と労力が必要でしょう。手元にスマートフォンがあり、Google翻訳を活用さえすれば、3年間の時間と労力を一瞬で越えてしまうわけです。だとすると、いったいどれほどの中学生が、「通じる英語」のための時間と労力を費やしたいと自発的に思うでしょうか。
もちろん、中学生は、普段の授業態度が「内申書」に反映されることが多いでしょうから、「Google翻訳でいいんじゃね?」と思いながらも、楽しく、一生懸命に授業を受けてくれるかもしれません。また、テストにおいて「スマートフォンの使用を禁じる」ことによって、生徒の努力を促すこともできるでしょう。しかしそれは、彼らの知的欲求を満たす行為でしょうか? 限られた時間を、手のひらですでに解決できることに費やすことを強いることは、「教育」として本当に望ましい道なのか、一度考えるべきではないでしょうか。
もう1つ大事なことがあります。それは、自動翻訳技術は今後ますます進化していくことが予想できることです。すなわち、今回述べている自動翻訳の実力は、私がこの原稿を書いている時点でのものに過ぎず、今後はもっと向上するでしょう。このように考えると、「英語を身につけること」「通じる英語を目指す」といった英語教育観のままであっては、もはや必要ないと「断捨離」されかねません。