「なぞかけ」が教える「意外性」の魅力
幼稚園にかよっていたころから、私は『笑点』の大喜利のファンです。なかでも、
「〇〇とかけて、××と解く。そのココロは~」
とやる「なぞかけ」が好きでたまりません。
いっけん、何の関係もない「〇〇」と「××」のあいだに共通性を見つける。「なぞかけ」の醍醐味はそこにあります。
「食塩とかけて、うさぎと解く。そのココロは、どちらも白い」
カタチはそれらしくなっていても、これでは「なぞかけ」とはいえません。「〇〇」と「××」のつながりに、何の驚きもないからです。
「思いやりシートとかけて、フィギュアスケートと解く。そのココロは、『ゆずる』がいちばん。」
私がいま、即席で考えました。「思いやりシートと羽生結弦選手」のほうが、「食塩とうさぎ」より隔たりは大きい。そのぶん、「なぞかけ」っぽくなっていると思うのですが……(羽生くんは「ゆづる」だよ、というつっこみには、ごめんなさいと素直にあやまります)。
かけ離れて見えるものが接続されると、そこに「意外性」が発生する。「なぞかけ」がひろく好まれるのは、「意外性」に人を動かす力があるからです。
俵万智の短歌のすごさ
「意外性」がおもしろさの源泉になる。これは、「なぞかけ」にかぎった話ではありません。
次に掲げるのは、俵万智のデビュー作『サラダ記念日』のなかの一首です。
寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら
「ベストセラーになった歌集」は、歴史をつうじて、与謝野晶子の『みだれ髪』と『サラダ記念日』しかありません。
「等身大の若者の姿が、口語を駆使した素直な表現で詠まれている。だから多くのひとに親しまれた。」
『サラダ記念日』は刊行当時、そのように評されていました。しかし、今になって検討しなおすと、高度な手法が凝らされた歌が目立ちます。右にかかげたのも、そんな「技あり!」の一首です。
「寄せ返す波のしぐさの優しさに」という上の句には、静かなロマンティシズムが漂っている。たいていの読者は、この雰囲気が後半に持ちこされると予想します。そして、「スウィートな恋愛の情景を詠んだフレーズ」がつづくと考えるでしょう(たとえば、「いますぐ撫でて欲しい黒髪」みたいな。)
「いつ言われてもいいさようなら」という下の句は、こうした期待を完全に裏切ります。
「波の無償のやさしさに癒されたから、恋人と別れても大丈夫という自信がついた。別に今すぐ別れたいわけではないけれど・・・」
最後まで読むと、そんな「ドキリとするような思い」が託された歌であることがわかる。上の句がもたらす「穏やかさ」を、下の句がひっくり返しているわけです。
上の句がたとえば、「喧嘩して張られた頬がまだ疼く」だったとしたら――「いつ言われてもいいさようなら」という下の句は、あたり前すぎて何のインパクトもありません。
わずか三十一文字のなかで展開される「抒情の逆転劇」。俵万智のこの歌の、最大の魅力はそこにあります。巧妙に仕掛けられた「意外性」には、短歌を輝かせる力もあるのです。
「最善の案」を禁じてみる
「『意外性』がひとの心をゆさぶることはわかった。だからといって、俵万智みたいな『高等テクニック』は、じぶんにはつかいこなせない。」
そういう不満を抱く読者もいらっしゃるでしょう。たしかに、文章のなかに「意外性」を組みこむのは、容易な業ではありません。
私の父は、今年で九十四歳。陸軍士官学校の最後の卒業生です。士官学校には、作戦立案の授業もあり、その最初の日にこんなことを教えられたといっていました。
「いちばんいいと思う作戦はぜったいに採用するな。かならず敵もその作戦を予測して、対策を立てているから。」
作戦も、「意外性」があるほうがいいに決まっている。それを確保するために、「最善の案」をあえて避けることを、士官学校では推奨していたのでした。
このやりかたは、文章を書くときも参考になりそうです。
たとえば。
授業中に、「学習塾で国語講師のアルバイトに応募するときの自己PR文」を書いてもらったことがあります。
そのときあがってきた答案は、似たようなものばかりでした。
私は、小学生のころから本を読むのが好きで、年間の読書数は六年間、いつもクラスでトップでした。このため、国語の勉強を苦に思ったことはありません。作文も得意としていて、中学校のときは、県の読書感想文コンクールで入賞しました。
また、子どもが大好きで、弟や近所の年下の子のめんどうをよく見るので、近所の大人や親せきのおじさん、おばさんからいつも感心されていました。
以上の理由から、貴塾に採用していただけたら、文章を読む楽しさや、作文を書くおもしろさを、生徒に伝えることができると思います。また、子ども好きであることから、どんな生徒さんに対しても、誠心誠意接することができる自信があります。
ある学生さんが書いた自己PR文です。この学生さんにかぎらず、
1)じぶんは国語が得意(もしくは好き)
2)じぶんは子どもが好き
だいたいこの二点が、「自己アピール」の軸になっていました。
いかに国語の先生に適しているか――それを相手につたえる文章なのですから、そうなるのは当然といえばいえます。ただし、ほかの応募者とそっくりおなじことを書いていては、「自己アピール」になりません。
私は、この学生さんにつぎのようにアドバイスしました。
「あなたは、小学校のとき、どの科目がいちばん苦手だった?」
「えーと、体育ですけど。」
「なんで体育きらいだったの?」
「かけっこが、ほぼほぼ六年間ずっと、クラスでいちばん遅かったから。」
「どうしてずっと遅いままだったの? 先生、早くなる方法、教えてくれなかった?」
「短距離走なんて、ただ走ってタイムをはかるだけで、走り方なんかいちども教えてもらえませんでした……」
「なら、そのことを書けば? かけっこ遅くていやだったのに、早く走れる方法を教えてもらえなくて残念だった。だから誰よりも、『できるようになる方法』を教えるのにこだわりがある、って」
学生さんはすぐに、「改訂版」を書きあげました。
小学校時代、私は体育がきらいでした。ほぼ六年間、かけっこがクラスでいちばん遅かったからです。
早くなれる方法があるのなら、その方法を学んで早くなりたかったのに、小学校の先生は、一度もそれを教えてくれませんでした。
かけっこが早くなれなかった悔しさは、大学生になった今も引きずっています。
私の教える生徒には、私と同じ思いをさせたくありません。このため、私が貴塾で教える機会を持てたなら、『どのような工夫をすれば、国語の成績をあげられるか』を、具体的にわかりやすく伝えていくことにこだわります。
国語の先生に応募してきたのに、「体育がきらい」という話から、自己PR文がはじまる。ここにはたしかに「意外性」があります。「国語が得意で子どもが好き」と書くよりも、ずっとつよい印象を、採用担当者の心にのこすでしょう。
だれもが思いつく「最善の策」をあえて避ける。そして、長所を書くときには短所からはじめる、という具合に、「逆転の発想」を試してみる。
もちろん、こうしたやりかたがつねに有効とはかぎりません。
「これまでに見た中で、いちばん印象にのこった映画」
というテーマをあたえられたら、「最善の策」を避けることは不可能です。
それでも。
「最善の策」をわざと避けると、思いのほか簡単に、「人並み」を越える文章を書ける場合がある。このことを心の片隅にとどめておいて、損はないはずです。