現実的な提案
ではどうするか。タイトル通り、「大学入学共通テスト」を1)共通にするか、2)共通にしないか、はっきりさせましょう。いずれも課題は残りますが、このモヤモヤ感はスッキリするでしょう。
案1:共通にする:国がスピーキングとライティングの「共通テスト」を作成して実施。受験は英語に関わる外国語系、国際関係学部の進学希望者のみに課す。
今一度、立ち止まって考えるべきことは、「英語」の4技能が本当にみんなに必要なのかどうかです。寺沢さんが『「日本人と英語」の社会学―なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』(研究社)にてデータで示されたように、21世紀の日本でも「仕事における英語の必要性」は大変限定的で、さらにこれから英語ニーズが著しく増加するかどうかは不確かです。2010年より後のデータはまだ無いようですが、1割程、多くて2割未満でしょう。今後のAI技術の普及で、求められる英語力が質的、量的に変化する可能性もあります。
また中学から英語の勉強をはじめて4半世紀以上が経過した英語学習者として、中学、高校、中高一貫校、高専、大学、社会人とさまざまな教育現場を経験した英語教師として、そして末端ながら応用言語学と第二言語習得分野を追ってきた研究者として、「英語」、とくにアウトプットの「話す力」と「書く力」は日本の大学進学希望者、全員に一定以上の能力を期待していいのか、考えてしまいます⁶。
言いたいことは、「第二言語の習得と指導にかかる時間と労力をなめてはいけません」、です。声を大にして言いたい。平昌オリンピックで金メダルを獲得した羽生結弦選手が記者会見(2月18日)で「スケートにかけ、いろいろなものを捨てた」と仰っていました。羽生選手の事例は特別なケースですが、時間や労力は有限ですから、人間何かをとれば、何かがおろそかになるものです。この程度の英語使用ニーズで、大学進学希望者全員に英語のアウトプット能力を求める必要が本当にあるか。それを取ることで他の何かを捨てる覚悟はあるか。今一度、考えるべきではないでしょうか。
またセンター試験で計測される「2技能」の結果は、「4技能」の試験結果と十分なほど相関するという研究報告(Kamiya, 2017)もあります。つまり現行のセンター試験でも、彼らの「話す力」や「書く力」を予測できるのです。
もちろん波及効果も大事でしょう⁷。「テストがあるから、ライティングやスピーキングの練習をしよう」、そういう動機付けで勉強するケースは多々あります。「英語の勉強を一番したのはいつ?」と聞くと、学生の答えは決まって高校入試、大学入試です。
したがって外国語系、国際関係学部の進学希望者のみに「共通テスト」として実施する。上記のシンポジウムで、国大協でこの入試改革を進めてこられた片峰茂氏は、長崎大学共生文化社会学部の事例をスライドで示し、民間試験導入の「正」の波及効果を訴えていらっしゃいました。そういう「外国語系」は実施しましょう。当学部のHPによると、その教育理念はいわゆる「グローバル人材」の育成であり、アドミッション・ポリシー(入学者受け入れ方針)は「英語を主とする外国語の運用能力の基礎が充実している」、ディプロマ・ポリシー(学位授与方針)は「高度の英語力とコミュニケーション能力を持っている」です。
このような学部の進学希望者は「英語をやります。どんなに辛くても、人生かけて4技能を伸ばします。ぜひやらせてください。お願いします!」という人たちです。そういう人たちは大学卒業後、英語を活かせる職に就くかどうか分かりませんが、自分で選んだ道です。4技能試験の高額な受験料も必要な投資と理解してくれるでしょう。そのような外国語系の事例を用いて、全国立大学、文系、理系、芸術、スポーツなど、全学部の進学希望者に話を広げて、「4技能試験を導入しましょう。そうすれば英語力が高まりますよ」などと述べるのは、失礼ながら的外れです。
まとめると、「大学入学共通テスト」は「共通」にして、国がスピーキング、ライティングの「共通テスト」を作成し実施します。受験は英語に関わる外国語系、国際関係学部の進学希望者のみに課すことにします。もちろん教育学部の英語教員養成系は対象とします。スーパーグローバル大学も実施するのがいいかもしれません。
それだけ対象を絞れば、「書く力」、「話す力」の試験も物理的に実施可能ではないでしょうか。すでに国の「フィージビリティ調査」でライティングは8万人、スピーキングは1万6千人ぐらいに年に一度、実施してきたわけです。楽観的かもしれませんが、今の原案よりは現実味があると思います。
「2020年度に間に合いません!」という声が聞こえてきそうです。思い切って2020年度からの実施は延期の「英断」をし、「大学入学共通テスト スピーキング・ライティング」の開発期間と準備期間を十分にとってはいかがでしょう。高校の新学習指導要領が適用された教育課程を受けた学生から(2024年度卒業)、ないしは小学校で英語をやってきた学生から(2029年度卒業)の実施にしてもよいでしょう。
またその間に高校教員の大規模な海外研修、また英語授業の時間増やクラスサイズを半分にするなど、教員研修と授業運営の「抜本的改革」も欠かせません。シンポジウムで羽藤由美氏も述べられていましたが、今実施しても「話す力」「書く力」がないことが分かるだけです。テストが英語力を高めるのではありません。指導と学習が英語力を高めるのです。
国営テストの開発と実施には莫大なお金がかかります。4技能試験推進派の安河内哲也氏も紹介する韓国の4技能試験(NEAT)の事例をみると、上手く行くとは限りません。ですが、多くの識者が指摘してきたように、公平、公正な試験を求めるのであれば、国の「共通テスト」がよいでしょう。
案2:共通にしない:英語の「共通テスト」は廃止。英語の入試に関しては、国公私立を問わず各大学、学部の判断に委ねる。
ポイントは、民間に丸投げするのであれば、いっそのことすべて丸投げしよう、ということです。「すべて」とは1)英語を入試科目に含めるか、2)4技能の何をどの程度重視するか、3)自前試験か外部試験かまで、「すべて」、大学や学部の判断に任せましょう。
少子化ゆえに縮小が予想される日本の大学事情を鑑み、大学や学部はこれから地域、国や世界で期待される役割を熟慮して、「アドミッション・ポリシー」を決めたはずです。そのポリシーに則って、入試のあり方を考え、妥当な英語試験を実施すればよいでしょう。北海道から沖縄まで皆、「英語の必要性」が同じなはずがありません。寺沢さんの前掲書にも示されているように、英語のニーズは都市と地方、職種、産業などに応じて、かなり異なります。
求める人物像に英語力を一切求めない大学があってもかまいません。実際には卒業後もほとんど英語を使わない人が多い訳ですから。以下にいくつか参考例を示します。
- ビジネス系の英語の勉強をして欲しい→TOEICを利用してはどうでしょう。
- 本学は米国の大学の下請け機関です→TOEFLを採用してはいかがでしょう(もうそうしてますね。失礼しました)。
- うちの学生は英語がある程度読めて書ければよい→リーディングとライティングの試験だけでいいのでは。
- 民間の英語試験では本学が求める学生の英語力は測れない→自前で英語の試験を作成しましょう。
- うちは自前の試験もするけど、英検とGTECもアリにしたい→各大学のご判断でご自由にどうぞ。
そんな無茶苦茶な、、、と思われるかもしれません。ただ無茶苦茶ぶりで言えば『「共通テスト」としてさまざまな民間4技能試験を認定する。そして一部の民間試験の認定(=優遇)システムは続けながら、2024年度から共通テストは廃止』という原案に負けます。国立大学協会の基本方針(会長談話 平成29年11月10日)によれば、「本年度中を目途に国立大学共通のガイドラインを作成する」そうです。大学入試センターの判断を受けて、このガイドラインで正式に「英語入試クラブ」を作る。その後、「民間英語試験の業界に参入したい」と業者が考えたとしても、この「英語入試クラブ」の権威には勝てないと判断し、手を挙げないこともあるでしょう。つまり中途半端に統制しつつ丸投げすると、後から入試産業に手を挙げたい業者の利益を損ないます。
この共通にしない案の最大の問題点は、高校の先生方がテスト対策をとりにくいことと、「出願先の変更が難しくなり受験生が混乱する」(国立大学協会のコメント。毎日新聞2017年10月13日)ことです。ただ原案でも2024年度より廃止です。十分混乱します。さらにさまざまな試験の対策をせざるを得ないのです。文部科学省のお墨付きの権威ある「共通テスト」として。
それよりは、「国の共通テストはありません。したがって学習指導要領に則って、4技能の総合的な育成に尽力しよう」でいいのではないでしょうか。学校では学生に応じて汎用的な4技能を身に着けさせます。あとは各自が自分の進路に応じて、志望大学の要綱を調べて、テスト対策を行えばいいでしょう。学習指導要領に書かれている「コミュニケーション能力」はそもそもテストで測れない、という指摘もあります。繰り返しますが、高校は本質的にはテスト対策をするところではありません。この機に入試から独立した方がよいでしょう。
おわりに
以上、『「大学入学共通テスト」が英語のみ共通ではない問題』について検討してきました。ここまで読まれた後、「…もう現行のセンター試験のままでいいんじゃない? あとは各大学の判断に任せるってことで」と思われた方が多いのではないでしょうか。
言語テストの権威の一人であるテルアビブ大学のエラナ・ショハミー氏はテストの裏にある政治性に意識を高めるよう訴え、「批判的言語テスティング」(Critical Language Testing)という試みを勧めています。彼女が指摘するように、テストは客観的、科学的な顔をして、権威あるものとみなされますが、もとは不完全な人間が何らかの意図をもって作成、実施する社会的な営みです。それゆえ、人間の理性や倫理をもって、テストの背景や社会に与える影響の「妥当性」の考察が重要です。
上にも書いたように、大多数の方がコスパがよいAI技術に頼る時代は、遅かれ早かれ、来るでしょう。その影響で英語の使用ニーズはさらに大きな多様性をもつようになり、大学入学希望者、全体に同一の英語試験を実施する意味が薄れることが予測されます。また求められる英語力自体が変わる可能性もあります。賛成派も反対派も中立派も、「スピード感」は横において立ち止まって、これからの時代をしっかり見据え、英語の必要性や試験の在り方について話をすべきではないでしょうか。
注
6.「英語」、とくに知識面ではなく技能面は「体育」や「音楽」などの実技教科に近いといわれます。そうだとすると、たとえば大学進学希望者全員に体力テストCレベル(中のレベル)を期待することは妥当でしょうか。ハイキングを楽しむ体力は大勢に望まれるかもしれません。しかし、たとえば50m走8秒以内の体力を全員に求めてよいでしょうか。みなさん、走れますか? 技能面には適性の有無が強く関係するといわれています。
7. なお波及効果が十分にあるかは分かりません。やり方次第で期待できるという指摘(羽藤, 2018)もあれば、楽観的な期待はできないという指摘(日本言語テスト学会, 2017)もあります。結局のところ、いい意味でも悪い意味でも「やり方次第」なのでしょう。