自分を変えるためのエッセイ作成術|第12回 比喩は世界をたぐり寄せ、意味づける|重里徹也

あなたは晩秋の夜道を歩いていたとします。森のそばを通る細い一本道。街灯はあるにはあるけれど頼りなく、周辺は薄ぼんやりとしています。遠くで鳥か獣の鳴き声でしょうか、ホーッという音が聞こえる。心細いですが、とにかく歩くしかありません。あと5分もすれば、目的地である恋人の家にたどり着くはずです。

ところが異変に気づきます。向こうから何者かが歩いてくる。一体、何だろう。どうも、黒くてよくわからない。

この事態を後から文章で書くとしましょう。そんな時に役に立つのが比喩です。たとえば、こんな感じでしょうか。

・何か、黒いものが向こうから歩いてきた。突飛な話だが、歩き方はゾウかサイのようにゆっくりとしている。だったら、狩ってやろうと身構えた。
・キュルキュルという音とともに前からやってくる者がいる。逆光になってよく見えないのだが、背丈はかなりありそうだ。その暗い影は巨人のようだ。それにしても、このキュルキュルという乾いた音は何だろう。
・歩いて来たのは背の低い男だった。不審な感じがした。歩き方がどこというのは難しいのだけれど、変な印象があったのだ。この小柄な男はこんな時間にこんな場所で何をしているのだろう。男は口を開けている。それが洞窟の入り口のように暗かった。

私たちはわけのわからないものに出くわしても、とりあえず、それを言葉で表現しようとします。

その時に力を発揮するのが比喩です。「ゾウかサイのよう」といわれれば、多くの人は動物園で見たことのある四本脚の動物を思い浮かべるでしょう。「巨人」と表現されていると、身長2メートルぐらいの長身の男を思い描くのではないでしょうか。あるいはテレビで見た身体の大きなプロレスラーを想像するかもしれません。洞窟の入り口のような口とはどんなものでしょう。不気味さが伝わってきます。

比喩は世界に形を与え、世界を身近にたぐり寄せます。抽象的な「黒いもの」が、具体的な動物や巨人にたとえられることで、私たちの目に浮かぶようになるのです。

一方で、自分がどう思っているかを端的に説明できるのも、比喩の魅力です。不気味な感じ、わけのわからない印象を残しながらも、自分はそれを何かの大きな動物のように感じた、巨人のように見えた、口が洞窟のようだった、と形容することで、こちらの感情や驚きを自覚し、それを読んでいる人に伝えることができるのです。

ここで、村上春樹の話に転じましょう。私はこの連載を書くにあたって、早く村上の話題を出したかった。でも、ここまで我慢をしてきました。比喩について書く章で村上の名前を出そうと考えていたからです。

村上の小説はさまざまに特徴づけることができます。比喩はその一つです。

私はときどき「出前授業」と称して、高校に派遣され、授業をすることがあります。大学の学びを高校生に紹介するイベントです。それで何について授業をするか。

私が思いついたのは、デビュー以来、リアルタイムで読んできた村上春樹についての授業をやろうというものでした。村上の小説なら、舞台設定も、出てくるものも、高校生に比較的なじみやすいのではないか。物語はとても面白い。それでいて、深みもある。いろいろと論じるポイントも挙げやすい。

ただ、問題があります。1回の授業は40分から80分程度です。その時間で村上の小説を論じなければなりません。短編でも、読み通すのは難しい。作品の一部を読む方法もありますが、前後を説明しなければ、わかりにくいでしょう。そんな授業をして、果たして面白いでしょうか。

それで考えついたのが、村上の作品から比喩を取りだして、それを高校生たちに読んでもらうという方法でした。村上の小説には、個性的な比喩が多く出てくる。それは村上作品のきわだった魅力になっています。比喩をいくつか読んでもらえば、村上作品の雰囲気にも触れられるし、その特質も味わってもらえるのではないか。これなら、短時間で講義もできます。

そんな私には強力な参考書がありました。芳川泰久、西脇雅彦著『村上春樹 読める比喩事典』(ミネルヴァ書房)という本です。村上の長編小説に出てくる比喩をテーマや類似の項目ごとにまとめた一冊です。芳川はこの本の「はじめに」で、村上が比喩を多用するのは「極端に言えば、日本の小説言語の常態を変えてしまうという覚悟の表れ」と指摘しています。

芳川がいうには、日本の小説においては比喩の多用は禁じ手だった。比喩の多用は自然主義がつくりだした小説らしさとは別の小説言語の構築になっているというのです。

出前授業ではいくつもの比喩をみんなで読みながら、少しずつ、村上作品の特徴を解説していきます。

村上の小説は深刻な魂の問題を真正面から描いていること。現代的な都市生活を描いているのは表層で、それを引きはがすと様々なものが隠れていること。日本の伝統的な文学や思想に根差していること。無常観、四季の移ろい、多神教的な世界観、善悪がはっきりしない世界が語られていること。「理想的な共同体」が解体して、一人一人がむき身で生きる世界が描かれていること。

こういったことを説明するのに、比喩の例はとても有効です。最初に「後で自分が最も気に入った比喩をききますので、考えながら読んでくださいね」とお願いします。熱心にメモを取りながら、比喩を読む高校生も少なくありません。

高校生たちに人気のあった比喩を3つぐらい引用しましょう。

 <わかっている>という風に彼女は手短かに肯いた。彼女の首筋にはオーデコロンの匂いがした。夏の朝のメロン畑に立っているような匂いだった。

   『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 夜の十時になると彼女は机の前に座る。熱いコーヒーをたっぷり入れたポットと、大きなマグカップ(……)と、マルボロの箱と、ガラスの灰皿が前にある。もちろんワードプロセッサーがある。ひとつのキーが、ひとつの文字を示している。

 そこには深い静寂がある。頭は冬の夜空のようにクリアだ。

『スプートニクの恋人』

 彼らはまるで涸れた井戸に石でも放り込むように僕に向って実に様々な話を語り、そして語り終えると一様に満足して帰っていった。

 『1973年のピンボール』

 

いずれも、とてもイメージしやすい比喩です。

私は夏の朝のメロン畑の匂いをかいだことはありませんが、さわやかで清潔で、でも少し甘い匂いをかいだような気になります。メロンジュースやメロンソーダの記憶があるからでしょうか。

冬の夜空にはオリオン座が浮かんでいそうです。澄みきった空のように頭がクリアになる。星がきれいにまたたいている。これもわかりやすい比喩ですね。

井戸は村上がよく使う比喩のように思います。「涸れた井戸」というのは恐ろしいですね。上からのぞきこむと自分がどこまでも落下していきそうな感じです。涸れた井戸に共感する高校生に切なくなります。

村上春樹の比喩はいわば超絶技巧で、私たちがエッセイを書く時にそのまま参考にしていいかどうかは微妙です。イメージがかけ離れていてすべっては、説得力を持ちません。一方で、よくある類型的な比喩だとありきたりでイメージを喚起しません。でも、比喩を積極的に使って文章を豊かにしてほしいとも思います。

大学の日本語表現法の授業で、比喩を少し使えば面白くなるのにとか、この比喩はちょっとわかりにくいかなあとか、ありきたりな比喩なので、ほんの少し工夫すればいいのになあとか、思うことがあります。たとえば、こんな文章に出会ったとしましょう。課題は「とにかく大変だった」です。「阿佐谷駅」は東京都杉並区にあります。

私はあの日の冷たい雨を決して忘れない。ネバ河に浮かぶ氷のように冷たい雨だった。きっと死ぬまで覚えているだろう。みじめで、悲しかった。
「なんだか、飽きたんだよね」。その日、今でも信じられない言葉を聞いたのは、JR阿佐谷駅前のチェーン店のカフェだった。私のお気に入りの店で、2階に上がると改札口前を行きかう人々の姿が見える。黄色い傘を持った3歳ぐらいの小さな女の子が母親らしき女性に手を引かれて歩いていく。アヒルの親子のようだ。
「えっ、どういうこと」
彼も窓の外を眺めていた。冷たい目をしていた。

ネバ河はロシアを流れる大河です。ロシア文学を愛読している人にはおなじみの河ですが、そうでない人には「?」となってしまうのではないでしょうか。「アヒルの親子」はいかにもという感じで、類型的な印象を持ちます。最後の「冷たい目」は勝負どころなのだから少し工夫して楽しんでほしい。面白いエッセイなので、味わい深くしたい。こんなふうにしたら、どうでしょうか。

私はあの日の冷たい雨を決して忘れない。とがった氷のように私の肌を傷めた雨。シベリアを流れる大河には、あんな冷たい水が流れているのだろうか。きっと死ぬまで忘れない。みじめで、悲しかった。
「なんだか、飽きたんだよね」。その日、今でも信じられない言葉を聞いたのは、JR阿佐谷駅前のチェーン店のカフェだった。私のお気に入りの店で、2階に上がると改札口前を行きかう人々の姿が見える。黄色い傘を持った3歳ぐらいの女の子が母親らしき女性に手を引かれて歩いていく。よちよちと懸命に歩くようすを見ていると、中学の時に学校で飼っていたアヒルの親子を思い出した。いつも温かい毛をしていた。
「えっ、どういうこと」
彼は窓の外を眺めていた。ガラス玉のような瞳だった。私に決して表情を読み取らせない。ある種の爬虫類を思い出させた。

どうでしょうか。少しはマシになったでしょうか。

エッセイは自分の思いを他人に伝えるものです。でも、「自分の思い」って、どうもよくわからないところがありませんか。何か黒くてもやもやしていませんか。

夜道で向こうから来る「得体の知れない黒いもの」を形容するためには、比喩を駆使しましょう。あなたが「胸の中でもやもやしていたもの」も何かにたとえているうちに、それが形を持ち、色彩を帯び、音を奏で、においだってしてくるかもしれません。

そんな楽しみに夢中になっているうちに、「得体の知れない黒いもの」も案外、捨てたものではないように思えるかもしれません。「胸の中でもやもやしていたもの」も、距離を置いて眺めれば、実は生きる喜びの一つかもしれないのです。そうしているうちに、悲しみやみじめさは徐々に薄まり、クズのような男とだって、笑って別れられるというものです。

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