奇妙な教育目的
寺沢:論争の成果として、もう一点指摘しておきたい。
太郎:何ですか?
寺沢:それは目的論が洗練されたこと。
太郎:「なぜ小学校で英語を教えるのか」という根拠ですか?
寺沢:そう。文科省や推進側は小学校英語を何としても必修化したかった。
太郎:言い方になんだか含みがありますね。
寺沢:そう? もうちょっと中立的に言うなら、何としても小学校英語の良さをみんなに知ってもらって、必修化が正当なものだとアピールしたかったという感じかな。
太郎:ふむ。
寺沢:で、真っ先に上げられたのは、「国際理解のために英語を教えよう」という根拠。
太郎:たしかに、総合学習の外国語会話はそういう根拠でスタートしたわけですからね。
寺沢:うん。でも、英語学習をする根拠としてはちょっと弱くない?
太郎:なぜですか?
寺沢:だって、外国語学習は必須じゃないわけでしょ?「日本語で異文化について学べばいい」という反論も成り立つ。
太郎:あー、たしかに。
寺沢:実際、そういう反論は山のようにされていた。
太郎:じゃあ、「なぜ外国語学習が必要なのか?」という疑問に答えなければいけませんよね。
寺沢:そう、そこで無難に「言語と文化は切っても切り離せない」とか「文化は言語を通して学ぶことがもっとも効果的」みたいな使い古されたレトリックを使えばよかったんだけど、当時の関係者はもっとすごいレトリックを発明した。
太郎:そんなにすごいんですか。
寺沢:うん。笑っちゃうくらいすごい。
太郎:そんなにすごいの!
寺沢:簡単に言うとこんな感じ。現代の子どもはコミュニケーション能力が欠如している。外国語のコミュニケーションを通して「うまく伝わらない」という経験をすれば、コミュニケーションの大切さがわかるはず、てな理屈。
太郎:なんですかそれ・・・。
寺沢:現役小学生からしてみたら失礼な話だよね(笑)
太郎:僕らはコミュニケーション能力が欠如してるんですか?
寺沢:僕はそう思わない。もちろん、若い人と年長世代でコミュニケーションのスタイルは大いに違うだろう。でも違いは違い。優劣じゃない。この手の人が言ってることは、自分たちの世代と違うスタイルのコミュニケーションを「劣っている」と決めつけているだけだからね。
太郎:コミュニケーション能力が欠如しているって言ってる人は、何か根拠があって言ってるんですか?
寺沢:本題からそれるけど面白いからいくつか紹介しよう。まず、元文科省教科調査官の管正隆さんの発言。発言時点では調査官は退職して大学の先生だよ。記事のタイトルがこちら。
「コミュニケーション能力の欠如」による、学校での暴力事件の増加が、「小学校外国語活動」の背景にある
太郎:すごいタイトルですね・・・。
寺沢:引用するね。
1980年代後半からは学校での暴力事件が増加し、いじめも増えてきていました。その大きな理由としてコミュニケーション能力の欠如があげられるのです。言葉を介して他者とコミュニケーションをとる能力が欠如しているから暴力に訴える、あるいは隠れていじめをする。その背後には、子どもたちの遊びがコミュニケーションの必要のないテレビゲームとなり、少子化が進んで異年齢の子どもとの交流もなくなってきたこと等が考えられます。そのため、他者と関わる機会が少なく、他者との距離感がとれないという課題が現れてきました。(中略)それらの課題を解決するためにも、小学校から英語活動が導入されることになりました。(『総合教育技術』2009年5月号、菅正隆氏インタビュー、p. 15)
太郎:現代の子どもに対する偏見がすごいですね。
寺沢:もう一個。現教科調査官の直山木綿子さん。さっきちょっとだけ触れた小学校英語シンポジウム第3回目での発言(当時、京都市の指導主事)。
私たちの生活を振り返ってみると、ますます言葉がなくても不便なく生活できる場面が増えてきました。コンビニエンスストアに行けば、何も言わずに商品をレジに差し出せば、買うことができます。電車に乗るには、言葉を使わずとも券売機で目的地までの切符を買うこともできます。このように人と言葉でかかわらなくても、生活ができる場面が増えてきています。子どもたちの生活を見ていても、うまく自分の思いが言葉で表せない場面が教室で多く見受けられます。このように、人と言葉でかかわることがだんだん少なくなるということは、生きていく力が弱くなっていくことだと考えます。(中略)そこで、子どもたちにあえて言葉で人とかかわる楽しさを体験させることが大切になってきます。(直山木綿子 (2006) 「小学校英語の必要性の主張のあとに必要なこと」大津由紀雄編『日本の英語教育に必要なこと』(pp. 229-230)慶應義塾大学出版会)
太郎:やっぱりコミュニケーション能力が欠如しているかどうかという「診断」のところは、単なる印象じゃないですか・・・。
寺沢:ワイドショーや週刊誌が年長者を怖がらせる(いや、喜ばせる?)ためにつくった「キレる子ども」みたいなイメージを再生産しているだけだろうね。
太郎:やっぱり。
寺沢:でも、問題は、この一見荒唐無稽な印象論が、文科省の公式見解にばっちり入っちゃったってことだよ。
太郎:そ、そうなんですか!?
寺沢:小学校学習指導要領・外国語活動編の解説(2008年8月)にばっちり載ってる。
太郎:じゃあ、大真面目に「コミュニケーション能力が欠如した子どもを鍛えるために英会話をやりましょう」と言ってるわけですね・・・。
寺沢:ま、さすがにそこまでストレートには書いてない。「子どものコミュニケーションが問題だ→鍛えるには外国語会話が最適→とくに英語がいい」という論理展開はすごく曖昧にぼかされている。たぶん意図的に。
太郎:行政文書ですからあまり露骨なことは書けないでしょうからね。
寺沢:とはいえ、「コミュニケーションに問題を抱えた子供が多いね~。こういう点も外国語活動の背景のひとつだよ~」という話はしっかり書いてある。あ、でも、そもそもなぜ日本語じゃなくて外国語が「コミュニケーションを鍛えるのに効く」のかとか、外国語の中でもなぜ特に英語が「効く」のかってことは何も説明されてないけどね。
太郎:ま、いずれにせよ、ヘンテコなことが書いてあるのは違いないわけですか。
寺沢:ただし、一見荒唐無稽な理屈だけど、これは実は、なかなかどうして、上手い工夫なんだ。
太郎:え、どこがですか?
寺沢:担任が教えたほうが良いという話につながるからだよ。
太郎:ちょっとよくわかりません。
寺沢:「子どもたちにコミュニケーションの大切さを教えるんだ」ということであれば、日頃の子どもたちの様子をよく知っている担任こそが適任だという話になる。
太郎:なるほど。
寺沢:これを、単に「言語と文化は切り離せないから外国語学習は大事」みたいな抽象論だったら、担任じゃなくても専科の先生が教えればよいという話になるじゃない。
太郎:むしろ、そういうことなら、英語が専門の先生のほうが得意そうですよね。
寺沢:担任の先生が専科の先生よりも圧倒的に優位にあること、それは子どもの日々の様子を知っていることだ。この優位を活かそうと思えば、「コミュニケーション能力が欠如した子どもたちを鍛えるために英語をやるよ~」という理屈のほうが好都合だ。
太郎:でも、なんだかこじつけっぽいなあ。
寺沢:そうそう、こじつけもこじつけ。そもそも「子どものコミュニケーション能力が欠如している」という診断自体に根拠がないんだから。
太郎:でも、実はよく工夫されているということもわかりました。
寺沢:こういうアクロバティックな根拠を「発明」するのは文部官僚の十八番だからね。だてに難関の国家公務員試験をパスしていない。