喫茶店の「物語」
『珈琲の世界史』で紹介されていた「物語」は、コーヒーをめぐる「事実」としての「歴史」でした。著者の旦部さんは誇張や脚色を交えた「物語」ではないものを追究されていましたが、一方で、小説やマンガ、アニメーションなど、フィクションとして作られた「物語」の中で食べ物が描かれることで、それがよりおいしそうに見えることはたしかにあります。
松重豊が演じるテレビドラマで人気になっている久住昌之原作・谷口ジロー作が『孤独のグルメ』(扶桑社、1997年、2015年)はやや対象年齢が高めですが、コトヤマ『だがしかし』(少年サンデーコミックス(小学館)、2014年~)のマンガ原作やアニメーションを見ると無性に駄菓子が食べたくなりますし、鳴見なる『ラーメン大好き小泉さん』(バンブーコミックス(竹書房)、2014年~)を見たあとで食べる深夜のラーメンは、罪悪感も入り混じりつつとてもおいしく感じられます。
もちろんコーヒーをめぐる「物語」も、以前からマンガや小説で多く書かれてきました。
たとえば最近の小説では、コーヒーを淹れる職人「バリスタ」をしている切間美星が日常の謎を解いていく岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿』シリーズ(宝島社文庫、2012年~)や、「カフェ六分儀」を舞台に人と人とを繋がっていくストーリーを描いた中村一『ココロ・ドリップ』シリーズ(メディアワークス文庫(KADOKAWA)、2014~2016年)、喫茶店を訪れたお客さんたちが自分の周りで起こった不思議なできごとを語る村山早紀『カフェかもめ亭』(ポプラ文庫ピュアフル、2011年)など、読んだ読者があたたかい気持ちになれるような「ほっこり」系の作品で、舞台として喫茶店が使われることが多くなっています。
そんな中で特におすすめしたいのが、東川篤哉『純喫茶「一服堂」の四季』(講談社文庫、文庫版は2017年)です。
『週刊未来』という怪しい週刊誌の編集をしている二流出版社「放談社」の編集者・村崎蓮司(むらさき・れんじ)が、鎌倉でみつけた奇妙な古い喫茶店「一服堂」。そこの女性店主であるヨリ子は、およそ接客業に向いているとは思えないほど、口下手で人見知りな性格で、しかも、淹れるコーヒーはごく普通。むしろ「薄い」味の微妙もの。けれどもそんなヨリ子は、自分で淹れたコーヒーを飲みながら猟奇殺人事件についての他人の「薄い」推理を聞いているといきなり性格が変わり、切れ味鋭い推理を見せ、「深い」味わいのコーヒーを淹れられるようになります。
『謎解きはディナーのあとで』(小学館文庫、文庫版は2012~2015年)で大ヒットした著者のユーモアミステリですが、この小説の特徴は、コーヒーを推理小説としての構造を成り立たせるための道具立てとして使っていることです。
本当は「深い」味のおいしいコーヒーを淹れられるのに、ふだんは「薄い」コーヒーしか淹れられないというヨリ子の奇妙なキャラクターは、表面的な情報しか見ないで考えられる他の登場人物たちの「薄い」推理と、事件の真相に迫るヨリ子の「深い」推理というストーリーに結び付いています。
おいしいコーヒーが飲めるようになった瞬間に、推理が始まる。読者はその瞬間に小説に引き込まれて、ヨリ子による推理を一気に読み解きたくなる。それだけでなく、ヨリ子が淹れるコーヒーがいったいどういう味なのか、とても気になってしまう。そういった読者の心理を巧みに利用しているのです。
文章を読んだり、小説を読んだりするのが苦手な人でも手に取りやすい作品ですので、ぜひカフェや喫茶店でコーヒーを片手に読んでみてください。