これからの英語教育の話を続けよう|第2回 「ネイティブ・スピーカー至上主義」は根が深い|仲潔

 

「講師は全員、ネイティブ・スピーカー」。このような謳い文句の外国語会話教室はたくさんあります。冷静になって考えてみれば、「何語の」ネイティブ・スピーカーなのか明言されていません。誰しもが何かしらの言語の「ネイティブ・スピーカー」なのですから、「嘘」をついているわけではありません。今回は、「ネイティブ・スピーカー」という言葉が、外国語会話教室の「ウリ」になっている状況について、考えてみたいと思います。

 

語学教育のプロより「っぽい」ことが優先?

私がまだ大学院生の頃の話です。イタリアから日本に留学に来た友人が、某外国語会話教室で「イタリア語」の講師としてアルバイトをしようとしました。ところが、彼は「英語」の講師として採用されました。彼は英語をあまり話せなかったのですが、見た目が「ガイジン」っぽいので、「アメリカ人」として働くように求められたそうです。もちろん、本人が言っていただけなので、その真偽は確かではありません。しかしながら、仮にこれが「冗談」だとしても、イタリアからの留学生がそのような発言をしたのは事実です。日本の異言語学習が「英語万歳、ガイジン万歳」であるという一例と言えるでしょう。

とにかく、「ネイティブ」と聞けば、「何語の」と語らずとも「英語の」、と連想してしまう人がいるようです。そしてこの「ネイティブ・スピーカー」は理想の英語教師として捉えられがちなようです。このようなイメージは、「どの外国語会話学校で学ぶか」を判断する際に影響を及ぼしかねません。そして、場合によっては、その言語がたとえできなくても、「っぽい」という見かけが、判断材料になってしまいます。

一般的に、生まれながら有する特性をもって他者と区別されたり優劣を決められたりすることは、差別問題につながり得ます。各個人の資格や能力、努力などではなく、「ネイティブ」であることによって利益を得る者と、そうではない者との差別が生じてしまうのです。

 

ある「英語村」にて、植民地化された精神の再生産を思う

先日、ある「英語村」を訪問しました。英語村とは、日本国内において、英語圏に留学しているかのような体験ができる場所です。韓国に遅れること数年、日本でも英語村のような施設ができはじめました。今回訪問した英語村は、大きなテーマパーク内の一角にあるものです。施設の充実具合という点で、韓国のそれより大きく劣っています。「ガイジン」の講師と施設内を、英語で会話をしながら散策する、という感じです。インターネットのホームページや公式パンフレットからは想像のつかないほど、「英語村」っぽくないものでした。

ちなみに、訪問した日は休日でしたが、私の滞在中に生徒はいませんでした(なお、夕刻からは予約者がいるとのことでした)。講師は常駐ではなく、予約者がいる場合に来るとのことで、日本人スタッフが1人だけいました。その英語村の名誉のために付け加えておきますが、多い日には300人ほどの利用者がいるそうです。また、全国のさまざまな地域から、学校などの団体での利用もあるとのことです。韓国の英語村のように、専用の施設が充実しているわけではありませんが、講師は全員「ネイティブ・スピーカー」です。ちなみに、「英語の」です。

それはさておき、その「講師」が問題です。上述のように、講師は全員、英語のネイティブ・スピーカーです。彼らは当該地域に在住する外国人です。より正確に言いますと、「米兵」です。もちろん、教師としての専門的な訓練を受けているわけではありません。職務がない時に、「熱意」をもって講師を務めているのです。ボランティアではなく、しっかり給料ももらっています。

もちろん、教師の資質を考える場合、「熱意」はあるべきだ、と考えることもできます。熱意の是非はおくとして、「英語を教える」という専門的な知識や技能、経験などよりも、「ネイティブ・スピーカーである」という事実が重視されている状況は、日本の英語教育について考える上で検証すべき問題でしょう。英語を学ぶ上で、英語を教えるプロよりも、ネイティブ・スピーカーであることを重んじる、日本人側のメンタリティの問題です。

ちなみに、第2次世界大戦時、アメリカの陸軍兵向けに開発された英語教授法として、「Army Specialized Training Program (ASTP)」というものがあります。これは、文法学習などの基礎は最小限に、大半をネイティブ・スピーカーの音声を徹底的に模倣・反復するというものでした。一種の直接法に属する教授法です。田中望さんと駒込武さんの対談(2005)によりますと、直接法は、植民地時代における言語教育を通じた同化的性質を持っています(「学習者を『日本人化』させないために」田中望『日本語教育のかなたに:異領域との対話』、アルク、p.114)。アメリカ軍兵からの英語による直接指導…私たちはいまだに英語学習を通じて、植民地化された精神の再生産(グギ・ワ・ジオンゴ(2010)『精神の非植民地化』、第三書館)を行なっているとも言えます。

 

時代錯誤なネイティブ信仰にサヨナラしよう!

本連載で前回の藤原さんは、JETプログラムを中心に、公教育における母語話者至上主義についての問題を指摘されました。多くの面で共感するとともに、公教育以外の場面での、広い意味での英語教育もまた、私たちの言語文化観に影響を及ぼしていることを言及しておくべきだと考えました。民間企業を相手に、その理念や経営方針をどうすべきだと論じるつもりはありません。

公教育の場面以外で、私たちの言語文化観が生産・再生産されるのであれば、それを是正したり、少しでも偏向しないようにするのは、学校教育の責務の一つだと考えます。実際、『学習指導要領』には、「教材」に関する箇所で「多様なものの見方や考え方を理解し、公正な判断力を養い豊かな心情を育てるのに役立つこと」と記述されています。

ところが「多様なものの見方…」という観点からは、文部科学省の検定済英語教科書にはいまだに問題が残っているように思えます。限られた言語材料(語彙や文法項目など)の中で、ずいぶんと内容における改善が見られるのは事実です。とはいえ、記述されている言語文化に対する見方を鵜呑みにするわけにはいかないのが現状です。

私たちの英語をはじめとした言語文化に対する見方(言語文化観)を多少なりとも是正し、より広い視野から多角的に考える機会を、民間企業はおそらく提供しません。利益に反するからです。だからこそ、公教育における言語文化観への介入は、「学校だからこそ」できる英語教育のあり方の一つだと考えます。そのためには、英語教師の言語文化観を広げることが、私たちの言語文化への見方を豊かにする1つの手段と考えられます。教員養成課程の講義や免許更新講習などの機会を利用して、英語教師の言語文化観に「ゆさぶり」をかけられれば、と思っています(拙稿「言語文化観を育成する『英語科教育法』の実践:言語文化観のゆさぶり」森住衛(監)『言語文化教育学の実践』、pp.47-67、金星堂)。

学校は通常、“school”と訳されます。この単語には、「学校」だけではなく、「学派」や「特定の教え」などの意味があります。なるほど、複数の人間が一堂に会して同じ方向を向き、ひとりだけが彼らと向き合うという場は、教会と学校が思い起こされます。学校が一種の教会、宗教の場なのであれば、「ネイティブ」信仰に陥るべきではありません。「非ネイティブ」を差別的に扱うことと裏返しの関係だからです。それに、現在では「ネイティブ」そのものも、言語能力面はもちろん、「人種」や「国籍」という面でも多様化していますしね。「○○人」とか「純粋な○○語」とか、そういう発想はもはや時代錯誤でしょう(cf. A. Pennycook & E. Otsuji, Metrolingualism)。そんなことしていたら、「英語のできる非グローバル人材」を育成しかねません。そろそろ、「ネイティブ」信仰から離れるべきではないでしょうか。

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