文章を魅力的なもの、わかりやすいものにするための有効な方法の一つは、これまでも述べたように、場面を描くことです。そして、会話を使うと映画のワンシーンのように、印象的なものになる場合があります。
ところで、皆さんはどんな言葉で会話をしているのでしょうか。NHKのアナウンサーのような言葉(共通語)で会話をしているのでしょうか。
おそらく、微妙に(あるいは大きく)違うのではないでしょうか。「~じゃん」をはじめ、実際に話されているのは、首都圏でも共通語とは少し違う言葉です。
全国どこへいっても通じるというのではない言葉。それらを「ローカルな言葉」と呼びましょう。ローカルな言葉を文章で使うことは、いい面とそうではない面とがあります。
ローカルな言葉の魅力は豊かなニュアンスが出せることです。会話が妙なリアリティーを帯びます。それに共通語とローカルな言葉が併用されると、文章に立体感が出るということもあるでしょう。
一方で、その地域以外の人にはわかりにくいという側面もあります。また、表記もしにくい。アクセントやイントネーションは書き言葉では表現するのが難しいですから。
実は私は幼いころ、愚かしいことに、日本中の人たちが自分と同じ言葉をしゃべっているのだと勘違いしていました。自分の言葉が「共通語」ではなく、「大阪弁」と呼ばれる言葉だと痛感したのは小学校も高学年の時でした。
信州に旅行していて、私が「しんどい」と言ったのに対し、「それはどういう意味ですか」と観光バスのガイドさんにたずねられたのです。突然のことにしどろもどろになりながら、「疲れた、みたいな意味です」と答えたのでした。
自分が「ローカルな言葉」によって日常的に生活しているのだと自覚した原体験です。若いガイドさんがかわいい声で何度も「しんどい」「しんどい」と初めて知った言葉を1人で繰り返していたのを覚えています。
次に自分の「ローカルさ」を痛感したのは中学の国語のテストの時でした。助動詞の「れる」「られる」のどちらが適当かを答えさせる文法問題でした。
五段活用などの動詞には「れる」、上一段活用や下一段活用の動詞には「られる」が連なるというのが日本語文法で、それを答えさせる問題です。
ところが、私にとっては可能の意味で使う時は上一段活用の動詞でも下一段でも、「起きれる」「捨てれる」と「れる」を連ねるのが、生まれた時から聞いたり話したりしてきた言葉なのです。
テスト時間中に私は何度も何度も自分の心の底にたずねました。でも、どうしても「起きれる」という言葉は出てきても、「起きられる」というのは何だか、気持ちが悪い。「捨てれんねん(捨てることができるよ)」とは言っても、「捨てられる」というのを可能の意味で使うのは間違っているような気がする(受け身では使いますが)。
だいたい私の母も父も祖母も、みんな「起きれる」「捨てれる」と話す。「明日、朝6時に起きれんのんか?」と言うはずだ。
それで、私は自分の母語に従って答えました。するとすべて×をつけられ、テストはひどい点で返ってきました。自分の母語に×をつけられるという衝撃的な体験でした。大げさに言えば、自分の立っている地盤がガタガタと崩れていくような思いでした。
その後、「ら」抜き言葉が蔓延して「問題」になった時、「ざまあみろ」と思いました。私は漫才ブーム、お笑いブームによって、可能の助動詞には「られる」ではなく「れる」を使う関西言葉が全国に広がったためだと憶測しました。
しかし、この仮説は数年前にある日本語学研究者に全否定されました。「ら」抜き言葉はずっと以前からあったというのです。でも、私としては、根拠のない憶測にこだわりたい。全国に流通している日本語が変容して自分の母語に近づくのは、いいようのない快感です。
地方出身の人が進学や就職のために東京(あるいは故郷とは違う他の土地)で暮らすことになった時、ぶつかる問題の一つは言葉です。自分が今まで普通に使っていた言葉が、実はある地域に特有の言葉だと自覚することになる。
ショックで失語症に陥る人がいるかもしれません。言葉を使うのが怖くなってしまうかもしれません。
ただ、文章を書く現場では、実生活のマイナスはプラスになることが多いのです。これは不思議な鉄則です。方言を使えるということは、それだけ日本語の能力が豊かだということでもあるのです。
せっかくのアドバンテージです。実生活で苦しい思いをしているのだから、せめて文章を書くうえで役立てましょう。
例文で方言のパワーを考えてみます。一人称の語り手は女性です。女性から男性への別れの言葉です。好きだけれど、別れるという場面です。まず、共通語から。
「あなたが好き」。そう言いたかったが、私は我慢した。そんなことを口にしたら、これまで耐えてきたすべてのことが、無に帰してしまう。
「もう今夜、大阪に帰るから」と私は言った。 「もう、帰るの。もう少し、いたらいいよ。明日は銀座に行こうと思っていたのに」と彼は本気かどうかわからない感じで返す。 「それもいいと思うけれど。帰れなくなるのもいやだし」 「大阪に帰っても何もないでしょう。もう少し、東京にいたらいいよ」 「何もないけど、帰る。何もないから、帰るの。おかしな言い方で、あなたにはわからないかもしれないけれど」 |
文章全体が少し、よそよそしい感じがしませんか。でも、クールでいいという人もいるでしょう。これを「私」が大阪言葉を使う設定で書き替えてみましょう。
相手の男は高校の同級生。大阪出身ですが、大学から上京して、今は東京で働いています。大阪弁は通じるのですが、意識の中では東京人です。「ジブン」というのは二人称で「あなた」という意味です。
「ジブンが好きやねん」。そう言いたかったが、私は我慢した。そんなことを口にしたら、これまで耐えてきたすべてのことが、無に帰してしまう。
「もう今夜、帰んねん」と私は言った。 「もう帰るの。もう少しいたらいいよ。明日は銀座に行こうと思っていたのに」と彼は本気がどうかわからない感じで返す。 「それもええねんけど。帰れへんようになったら、いややし」 「大阪に帰っても何もないでしょう。もう少し、東京にいたらいいよ」 「そら何もないねんけど、もう帰んねん。何もあらへんから、帰んねん。おかしな言い方やろ。あんたにはわからへんかもしれへんけど」 |
「私」が福岡出身の女の子ではどうでしょうか。福岡も方言をしっかりと守っている地域のように思います。設定は前の文章と同様です。
「あんたん好いとう」。そう言いたかったが、私は我慢した。そんなことを口にしたら、これまで耐えてきたすべてのことが、無に帰してしまう。
「もう今夜、帰るけん」と私は言った。 「もう帰るの。もう少しいたらいいよ。明日は銀座に行こうと思っていたのに」と彼は本気かどうかわからない感じで返す。 「そいもよかとけど、帰れのーなったら、いやだし」 「博多に帰っても何もないでしょう。もう少し、東京にいたらいいよ」 「そいは何もなかよ、なかけど、帰るけん。何もなかから帰るとよ。おかしな言い方やろう。あんたにはわからんかも、しれんけんけど」 |
私は福岡市で10年近く暮らしました。でも、博多弁を話すことはできません。特に「ばってん(けれども)」という言葉が使えません。最後は「しれんけんばってん」にするかどうか迷いました。
どうでしょうか。大阪弁と博多弁でニュアンスは違いますが、クールな鋭さが丸くなって、体温や息遣いを力強く表現しています。逆に、こんなにコテコテの方言ではムードが出ないという読者もいるかもしれません。
どちらがいいとか悪いとかいう話ではありません。でも、共通語と方言の両方を使えるのが表現力を豊かにしているのは、わかっていただけるのではないでしょうか。
この例文の要点は、「何もないから、(地方へ)帰る」というところです。ここに論理的な理由は、少なくても表面的にはありません。「私」という女性は合理的に考えると、おかしな主張をしています。あるのは「情」か「意地」か「筋」です。
そして、論理的でない主張、理屈を超えた情を表現する時に、ローカルな言葉はパワーを発揮するように思います。信仰や愛を訴える時もそうでしょう。
ただ、いくつか留保をつけたいと思います。私は地の文は共通語の方がいいように思います。地の文まで方言だと、読みにくいからです。また、会話を方言にする場合、わかりにくそうな言葉には「ジブン(あなた)」というように、共通語訳を明示した方がいいように思います。
ところで、ローカルな言葉は方言に限りません。たとえば、職場の符丁は面白いニュアンスを持ったローカルな言葉です。
デパートやスーパーでは、スタッフ同士で符丁によって会話をします。トイレに行くことを「棚の整理に行く」と言ったり、万引きの発生を「鈴木さんがきました」と言ったりするわけです。こういう会話を文章で使うと臨場感が生まれます。
財布を買いたいという初老の男性の相手をしていると、店内放送が流れた。
「鈴木さんがいらっしゃっています。立花さんは事務所までいらっしゃってください」 「鈴木さん」とは万引きの符丁だ。盗難担当の私は、店の奥にある事務所へ急いだ。 |
会社や人を地名で呼ぶのも、文章に親密な感じをもたらします。東京都八王子市に住んでいる叔父を「八王子」と呼んだり、中央区築地にある新聞社を「築地」と呼んだりするものです。これも、会話の密度を濃くする場合があります。
他にも、家族や恋人同士で通じる言葉、会社内やサークル内で通用する言い回しなど、ローカルな言葉にはいくつもの種類があります。
これらの言葉は使いようです。文章作成に生かさない手はありません。共通語の平板さを破り、文章表現の豊かさにつなげたいものです。