終わりかたのカッコいい文章は、見ていて痛快です。いってみれば、「決め球できれいに狙ったとおりに奪った三振」や「サッカーのスーパーゴール」みたいなもの。
私自身、「みごとな一文」で全体を締めくくられるとグッと来てしまいます。
「Bだな」
そう思いながら読みすすめていたレポートの、最後の最後に「必殺フレーズ」に遭遇。思わずSやAをつけてしまった経験は一度や二度ではありません。
それでも。
「最後の一句」をキメルことにこだわりすぎるのは、文章を書くうえで危険です。
ピッチングでも、「決め球だのみ」で通用するのは、「魔球」を投げられるひと握りの投手のみ(最盛期の藤川球児とか)。それもほとんどが、みじかいイニングを担当するクローザーです。
サッカーにしても、「ファンタジスタ」独りの力では、レベルの高い大会を勝ちぬけません。
投手なら、配球パターンを考える。サッカーであれば、フォーメーションを練りあげる。そういった「全体の組み立てを視野に入れた工夫」が、成果を出しつづけるためには必須です。
文章についても、おなじことがいえます。「必殺の一行」を追いもとめるばかりでは、「読者の心をうごかす著述」はのこせない。
なまじ、「気の利いた落としどころ」を思いついたことが、「躓きの石」になる場合もありえます。話を無理に「想定していたゴール」へ引きずりこもうとすると、構成にほころびが生じるからです。
先日、『言の葉の庭』という映画を、私は授業で観てもらいました。『君の名は。』のヒットで「時の人」となった新海誠が、2013年に手がけた作品です。
生徒からのいじめに遭い、職場にいけなくなっている高校教師のユキノ。「自分が通っている学校の先生」とは知らないで、ユキノにひかれていくタカオ。ふたりの交流が、雨の新宿御苑をおもな舞台として描かれています。
映画が終わったあと、学生さんに感想文を書いてもらいました。次に掲げるのは、そのなかのひとつです。
私は、ユキノ先生を「淫乱ババア」呼ばわりした女子生徒に少し共感してしまった。ユキノ先生は、いくら自分が追いつめられているとはいえ、自分が教えている学校の生徒で、12歳年下のタカオに癒されて、少しもヤバいと思っていないところがヤバい。そういう匂いを若めの女の先生から感じると、中高生の女子は確実に反発する。
ユキノ先生を罪のない被害者みたいに描くストーリーには納得出来ないが、映像の綺麗さには感動した。とくに新宿御苑の風景は、いまどきのアニメはここまでやるのか! という細密描写だったと思う。
「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」
そう、小林秀雄は言った。
人は何かに魅了されても、どうしてそうなったのかを説明することはできない。新海監督はおそらくこの映画で、次のように主張したかったのではないか。
「美しい「恋」がある。「恋」の美しさという様なものはない」
これを書いた学生さんは、「2週間ほど前に、ゼミで小林秀雄について発表させられた」といっていました。その準備をすすめる過程で「美しい「花」がある」の一節と出会い、とても印象にのこったのだとか。
「人間は、恋愛の圧倒的な力にはさからえない。損得や善悪の判断を越えて、ひとは恋に落ちる」
この学生さんはおそらく「最後の一句」に、そういう意味を託したのでしょう。
だとすると、その前の部分で指摘されていることがらと、「結論」のつながりがあいまいです。
疑問の残る「ユキノ先生のキャラクター造型」と、有無を言わせない映像美。この「物語と絵の格差」が何を意味するか、学生さんの感想文は説明していません。
翌週の授業で、感想文を返却するついでに、私はこの学生さんに訊ねました。
「「ユキノ先生がヤバいこと」と小林秀雄がどうつながるか、いまいちわからなかったんだけど?」
学生さんは、一瞬、不意を突かれたような表情をうかべてから、こう応えました。
「そこのところは、〈萌え〉でつながってると思うんです。〈萌え〉って、「ことばでは説明できないけど、グッと心にせまってくる」って意味じゃないですか。
タカオくんはユキノ先生に〈萌え〉てるし、新海さんはその〈萌え〉をお客に共有してほしいとねがってる。ユキノ先生の表情やら新宿御苑の風景やらは、やたらこまかく描かれます。お客をユキノ先生に〈萌え〉させるようって魂胆がバレバレです。
ユキノ先生がたとえヤバい人でも、ユキノ先生に〈萌え〉てる人たちは、そんなの気にしません。ようするに、〈萌え〉てもらうことができれば、たいがいの罪はないことになる。
小林秀雄はぶっちゃけ、「〈萌え〉をリクツで説明するのはムリ」っていいたかったんじゃないでしょうか。あの映画で、新海さんが伝えようとしたのもそれではないかと。そして、リクツを越えた〈萌え〉による〈ゆるし〉があるって、新海さんはアピりたかったと思うんです」
学生さんは、『言の葉の庭』を観て、
「この映画と小林秀雄をむすびつけたら!」
というアイデアがひらめいた。その着想に心を奪われすぎ、『言の葉の庭』と小林秀雄をつなぐ部分の説明が、何段階か飛んでしまった。どうやらそれが、学生さんの感想文がわかりにくくなった原因のようです。
「あなたの考えてることは、とてもおもしろい。この感想文、このままじゃもったいなから、いま説明してくれた内容をつけたして、来週までに書きなおしてくれない? ただし、小林秀雄は登場させないこと。書きなおしてよくなってたら、期末にレポート出さなくてもSあげることにするから」
さらにその1週間後、学生さんは「書きなおし版」の感想文を持ってきました。
私は、ユキノ先生を「淫乱ババア」呼ばわりした女子生徒に少し共感してしまった。ユキノ先生は、いくら自分が追いつめられているとはいえ、自分が教えている学校の生徒で、12歳年下のタカオに癒されて、少しもヤバいと思っていないところがヤバい。そういう匂いを若めの女の先生から感じると、中高生の女子は確実に反発する。
ユキノ先生を罪のない被害者みたいに描くストーリーには納得出来ないが、映像の綺麗さには感動した。とくに新宿御苑の風景は、いまどきのアニメはここまでやるのか! という細密描写だったと思う。
新海監督は、リクツで考えたら「ヤバい人」であるユキノ先生を、美しい光景に立たせることで魅惑的に見せたかったんだと思う。「ヤバい人」が「ヤバい人」のまま、タカオに愛され、お客に受けいれられるのを観たかったんだと思う。
だから、「納得できないストーリー」と「緻密な映像」は、たぶん意図的に組み合わせられたのだ。
大胆に想像をめぐらせると、ユキノ先生の「ヤバさ」に、新海さんは自分の欠損を重ねている気がする。「ヤバい人」であるユキノ先生が、タカオとお客に萌えられ、求められるのを見て、監督自身も救われた感覚を体験したい。そういう隠れた願望を、私はこの映画のあちこちから感じる。
「必殺技」を封印した結果、「書きなおし版」の感想文がわかりやすくなったのはあきらかです。
私はそのことを当人にむかってほめ、「約束だから、期末レポートを出さなくてもSをあげるよ」といいました。
ところが、ほめられて気をよくしたのか、この学生さんは人一倍、気あいの入ったレポートを期末に提出したのです。そのレポートでは、「ユキノ先生は、なぜ『君の名は。』に再登場したか」かが詳しく論じられていました。