ツンデレ清少納言
『源氏物語』を授業で扱うときに、大和和紀『あさきゆめみし』(講談社、「完全版」が2017年に刊行)を高校生に紹介するということは以前からよくありました。最近では、古典文学作品の内容をマンガでわかりやすく伝えてくれる本も、とても多くなっています。学研教育出版が刊行している「学研まんが日本の古典」シリーズや、小学館の「マンガ古典文学」シリーズ、くもん出版の「まんが古典文学館」シリーズなどは、学校図書館や公共図書館でも所蔵しているところがよく見られます。
その中で特におすすめしたいのが、かかし朝浩『暴れん坊少納言』(ガムコミックスプラス(ワニブックス)、2007~2010年)です。
このマンガは、清少納言を「ツンデレ」でツッコミ気質の女性として設定し、『枕草子』の各章段を現代風にアレンジしています。その分、実際に『枕草子』で描かれたものとは意図的にずらしているところや、歴史的な事実と違う部分もありますが、一方で『枕草子』で清少納言が語っている内容をとてもみごとに切り取っています。
たとえば、1巻に収められている「第六段 ひた隠せ若さまかせの初作品」は、中学校や高校の国語で必ず扱う『枕草子』第1段を扱った内容です。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
この章段は四季それぞれの「をかし」を順番に挙げていくという内容なので、古典の授業では「たなびきたる」の後に「をかし」を補うように、先生方は指導されています。
平安文学の解釈では、形容詞をどのようにとらえるかが、とても重要だと考えられてきました。そのため問題は、この「をかし」をどう現代語に置き換えるかということになります。
一般的には、『源氏物語』で多く使われている「あはれ(もののあはれ)」が「しみじみとした情感」を表すのに対して、「をかし」は知的な美意識を表し、「趣(おもむき)がある」「風情がある」と現代語訳するとされています。
けれども、「趣がある」と言われても、現代の私たちにはなかなかピンときません。しかも、ユーモアや皮肉を交えながら、宮廷生活の様子を活き活きと描いている『枕草子』の書き方から考えると、こうした堅苦しい言葉はむしろ違和感があります。
古典として何百年も残ってきた作品だから、きっと立派なことが書いてあるに違いない。そんな思い込みもあって、「趣」「風情」といった訳が使われてきているようにも思えます。
それを『暴れん坊少納言』では、次のように訳しました。
春は、あけぼの。辺りが少しずつ白んでいくうちに山の上が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいている感じが好き。
この現代語訳を見たとき、とても驚きました。清少納言が「ツンデレ」キャラとして設定されているからこそ出てきた表現なのですが、一方で、清少納言が『枕草子』で書いていた感覚は、もしかするとこの「好き」という表現がいちばん近いのではないかと思えてきたのです。
「をかし」について考えよう
鈴木日出男『高校生のための古文キーワード100』(ちくま新書、2006)は、心情語を中心に古文の読解方法を解説した本です。古典文学についてより深く勉強したい人にはぜひおすすめしたい入門書のひとつです。
この本では、古語辞典に載っているような言葉の「意味」を順番に暗記していく勉強をすすめてはいません。古文に出てくる言葉のひとつひとつがもともと持っているイメージとしての「語感」から考え、そこから古典文学の読み手が自分で解釈を作っていくという勉強のやり方について書かれています。
その中で平安時代で使われた「をかし」の語感は、次のように書かれています。
平安時代には、ほほえましいという気持ちから、興味が持てる、情趣がある、など多くの意として広く用いられるようになる。
この本によれば、物事から距離を取って好意的な、明るい気持ちを表すのが「をかし」、それに対して、主観的な感情をしみじみと表すのが「あはれ」だということになります。
このように考えると、春の風景を「好き」とあっさり言い切ってしまう『暴れん坊少納言』の清少納言は、「をかし」という言葉が持つ感覚、何かを見たときにほほえましく思いながら好感を持つ瞬間を、非常によくとらえていると言えるのです。
著者の鈴木日出男先生から、私は大学を卒業して大学院に入学した最初の2年間、一緒に『源氏物語』を読んでいくという授業を受けていました。そのときにとても印象に残っているのが、「らうたし」「うつくし」という言葉のとらえ方です。
「らうたし」は、自分よりも弱いものをかばってやりたい気持ち、「うつくし」は小さいものに対して、愛情を注ぎたい気持ちを表現する言葉です。
『源氏物語』ではこの言葉が、10歳で光源氏に拾われ、養われるようになった若紫に対して使われています。光源氏が彼女を引き受けたときはまだ子どもなので、光源氏から若紫を見れば、当然こういう表現になるわけです。
しかし、若紫が成長し、光源氏の妻となり、紫の上と呼ばれるようになってからも、源氏の視点に立つと必ず「うつくし」「らうたし」という表現が出てきてしまいます。たとえ妻になったとしても、光源氏にとって紫の上は、永遠に娘であり、少女であり続けなくてはならなかった、そこに紫の上という女性の悲劇があるのだと、鈴木先生はおっしゃっていました。
古典文学の文章は、現代文の論説文などが持っているような、接続詞で作っていく論理を必ずしも持っていません。けれども、このようにひとつひとつの言葉の中に、文章を読み進めていく上での論理が含まれています。古典を読むということは、こうした言葉そのものが持つ論理を読みとく力を身につけるということなのです。