自分を変えるためのエッセイ作成術|第5回 「いちばん書きたい話題」ははじめに決めておこう|助川幸逸郎

 

文章の「書き出し」は、私にとっても「永遠の悩みのタネ」です。

「何を書くか」はだいたい決まっている。「書く順番」もほぼ見えている。それなのに、「どこから書くべきか」がわからない――そんな状態で頭をかかえることをくり返しています。

「最初の一行で読者をつかまないと、先を読んでもらえなくなる」

この種のフレーズは、「文章の書きかた」を説く際の「常套句」です。しかし、毎度冒頭でガツンと一発お見舞いするには、「熟練のプロ作家」の技量が要る。それだけの筆力が私にはありませんから、「華麗な幕開き」などもともと「狙いの外」です。

では、何を気に病んで私は筆を始動させられないのか。

「はじめに下手なことを書くと、あとになって身動きがどれなくなる」

これを恐れて、私は文章をなかなか書きはじめられないのです。

実例をあげましょう。

先日、「グローバリゼーションが文化におよぼす影響」について、各自の思うところを学生さんに書いてもらいました。大学1年生がおもに受講している授業でのことです。

「大相撲の横綱が全員、モンゴル人だとか、オリンピックのフィギュアスケートの金メダルを、日本人と韓国人で争うとか。そういう現象についてどう感じているのかを書いてくれればいい」

私はそう説明しました。

あと15分ほどで授業も終わろうかというころ、ひとりの男子学生が、泣きそうな顔で私のほうに近づいてきます。

「先生、途中から一行もすすまなくなってしまいました……」

私は書きかけの文章を見せてくれるように言いました。学生は、たずさえていた原稿用紙を「おそるおそる」という感じで差し出します。そこにはこう記されていました。

文化のグローバル化は素晴らしいことだと、つねづね僕は思っている。
僕は子どものころから相撲ファンで、ずっと大相撲中継を楽しみに見ているが、記憶に残っている最初の横綱は朝青龍だ。体はあまり大きくないのに、いつも優勝を争っていて、「この強い人はモンゴルから来た」と親に教えられ、相撲の国際化がいかに進んでいるかを感じた。そのあとに有名になったのは白鵬だったが、彼もモンゴルの出身だと親から聞いた。
外国人が力士になるために海外からどんどんやって来て、その中から強豪力士が育つ。それも朝青龍、白鵬と、2人続けて大横綱が出た。その後、日馬富士や鶴竜も横綱に昇進したが、彼らもモンゴルの出身者である。琴欧州のような、モンゴル以外から来て、人気者になった力士もいる。
日本の国技である相撲が、海外の人からも「やってみたい」と思われているのでこういう風になるのだと思うと、僕は誇らしい気持ちがする。
相撲がもっと発展していくには、日本人の力士がさらに強くなる必要があると感じる。この前ようやく、19年ぶりに稀勢の里が日本人横綱になった。この調子では、相撲はモンゴルのスポーツのようになってしまい、「日本の競技が外国人を引きつけている」と、日本人が誇れる感じではなくなるかもしれない。それを防ぐために必要なのは

学生の文章は、ここで途切れていました。

私は訊ねます。

「きみがいちばん書きたかったことは、何?」

「日本人の横綱がいないと、相撲が日本の国技とはいえなくなるということです。」

「じゃあ、相撲のグローバル化には反対なの?」

「日本人の横綱や大関のいるなかに、外国人の横綱もいるというのが理想だと思います。まったく国際化しないというのでは、時代に取りのこされて危険な気がしますから」

彼はおそらく、じぶんの主張が「国際化絶対反対」と受けとられるのを恐れたのでしょう。それを避けるために、「外国人横綱がいる状況」を全面的に肯定するかたちで話をはじめた。結果、「外国人ばかりが横綱であることから生まれる問題点」を詳細に書くと、ツジツマがあわない流れになった。それで、「グローバル化の弊害に対する解決策」をしめそうとしたところで、暗礁に乗りあげてしまったというわけです。

「最初の文のアタマに『たしかに』を入れたら? そうすると、あとで『グローバリゼーションのマイナス面』も書くって予告したことになるよ。そのほうが『肝心なこと』を書きやすくない?」

「そうかもしれません。」

「あと、『相撲のグローバル化』のよい部分について書いているところは、『肝心なこと』をいうための前置きだよね。『外国人が横綱になることを、全面的に否定しているわけではない』っていう『言いわけ』でしょ? だったらそこはみじかめにして、はやく本題に入るほうがいい」

残り10分ほどの授業時間と、それにつづく「15分休憩」を使って、彼は「改訂版」を完成させました。

 

たしかに、文化のグローバル化には素晴らしい点がある。
僕は大相撲が好きで子どものころから見ているが、最初に記憶に残っている横綱は朝青龍だ。そして彼もふくめ、僕が現役時代を知っている横綱は、全員出身がモンゴルである。外国人の横綱がいるのは、「日本の国技」をやってみたいと望む人が、海外にもたくさんいる証拠だ。このことを日本人は誇っていい。
しかし、力士のなかの外国人比率がさらに高まり、幕内力士に日本人が一人もいなくなったらどうだろうか? その場合、相撲を「自分たちのもの」と日本人は思えなくなるだろう。具体的な「競技のあり方」も、伝統的な相撲とは別物になるはずだ。
稀勢の里の昇進によって最近ようやく解消されたとはいえ、日本人横綱は19年ものあいだ不在であった。力士の大型化の影響もあり、「かつてあたりまえだった決まり手」のなかには、現在ほとんど見かけなくなったものがあると聞く(「つり出し」や「うっちゃり」など)。「国技」としての相撲は、すでに損なわれかけている。
「強い日本人力士」が増えて、グローバル化の「行きすぎ」が正されること僕は望む。それを実現するために、日本国籍の力士の待遇を改善するのも一案だと思う。
モンゴルは物価が安いので、横綱として現役時代に稼いだ金だけで、生涯、上流の暮らしができるらしい。横綱の年収は5000万円程度。これを4、5年やっただけでは、「死ぬまで日本でぜいたくに暮らせる資金」は貯まらない。
たとえば日本人の横綱には、特別手当を払ってもいいのではないか。プロ野球の一流は3億円ぐらい貰っている。それにくらべると、横綱の報酬は安すぎる。「横綱になれば、他の分野のトップと並ぶ待遇を得られる」ということであれば、日本人力士もさらに努力するだろう。日本人の力士志望者そのものが増えることも期待できる。
ことは、大相撲だけに限らない。ある文化がグローバル化すること自体は、その文化の魅力の証明でもあり、歓迎されるべきだ。だが、一定の限度を越えてそれが進むと、その文化は別の何かに変わってしまう。このとき、土着的・伝統的要素を振興する策を施せば、「もともとの形」を壊さずにグローバル化していけるのではないか

最初に「じぶんが何を書きたいか」をはっきりさせる――その点を意識したおかげで学生は、滞りなく作文を仕あげることができました。

この学生を「指導」して以来、私自身、文章を書きはじめるのが前よりらくになったのを感じています。「ぜったいに触れたい話題」をあらかじめ意識するようにしたせいです。

「はじめの一歩」をどうするか。この点をあまり厳密に考えると、「書き出すまでの敷居」が高くなりすぎます。かといって、何の見とおしもなしに走り出すと、途中で行き場をなくすおそれがある。

「どうしても言いたいこと」を、おおよそ見きわめておく。筆を執るまえに、そこだけ気をつけるようにすれば、書いている途中で「迷子」になる心配は減ります。この程度の「心がまえ」なら、たいした負荷にはならないはずです。

 

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