(ひつじ)読みにおける国文学研究の特権性を、開放した場合、大学などのアカデミズムの優位性は、全くなくなってしまうのでしょうか。この質問には二つの意図があります。それは、国文学研 究者を排出しているアカデミズムの特権性はなくなるべきなのか、あるいはそのような研究によってたぶん規定されている中学・高校などの国語教育なるものは、なくなるべきなのか。もう一つは、 そもそもアカデミズムによる読解は、人々の読みを規定するほどの優位性を持っていたのでしょうか。
(和田)具体的な後の方の問いからお答えしたいのですが、アカデミズムによる読解は、私たちの読みを規定する力をもってきたし、現在でも持っていると考えます。
ただ、それが決定的な読みの決定要因になっているわけではなく、また、実際には学校、教科書、といった狭義の「アカデミズムによる読解」でもない、ということが重要です。諸種のメディア が情報の「解読の仕方」教育をしていますし、歴史学であれ社会学であれ、読みを規定する教育をしています。
そこで前の方の問いにもどることができるのですが、ただ単にアカデミズムの優位性を否定しているのではないし、そうしたところでそれらがなくなるわけでもありません。私が批判しているの は、ある読み方、読解方法を自明とする思考です。読み方そのものを国文学という分野にとらわれずに広い視野から考える、ということを求めています。また、読みについて考えるというスタンス が、分野を越える手がかりにもなると考えています。ですから国語教育がなくなれとか、国文学研究者がなくなれとかいってるんではなくて、そうした問題意識を求めているのです。現在の「国語 教育」や「国文学研究」と呼ばれている分野が、この問題意識に無関係でも不要というわけでもありません。
(ひつじ)国語科であれば、教科書に収録されるべき作品が、ある程度決められるということがあるわけです。読み方と同時にどういう文章を読むかということについても限定があったし、今でも あると思います。これについて、二つお聞きします。一つは、そうやって教科書に載る文学作品という位置づけが、文学作品にとってどういう意味を持ったのか、ということ。載る文学作品と載ら ない文学作品の間に境界線が引かれた場合、文学活動自体に何らかの影響を与えたのかということです。もう一つは、国語科の場合、文学教育が選ばれたことに何らかの必要性があったのか、とい うことです。国民の文書を読む能力を高めるというのが、国語科の使命だったとしたら別に、「芸術的な価値」がある文章である必要は、なかったのではないでしょうか?
(和田)また後の方から答えましょう。国民の読み書きの「能力を高める」、という言い方で質問されましたが、そこにすでに価値尺度が導入されています。能力が高い、低い、を誰が何を基準に してはかるのでしょう。その場合によりどころとする規範的なものが求められます。常にそうした規範は機能しているのです。文学という領域の自立と、その領域の社会的な評価の高まりに応じて、 その領域が規範として機能したのは不思議ではないでしょう。むろん、歴史的に見れば文学テクスト以外に規範が求められている場合もあります。ですから、文学という領域の自立と教育言説の関 わりについては、すぐに図式化せずにより詳細な調査を行う必要があります。
これは最初の問いにも言えることです。「文学活動」と言いますが、これ自体非常に広範な問題を含んでいますし、さらにその教育の領域との歴史的な依存関係はそうとう複雑で広範です。教科 書定番の小説や作家は、読者がその本を手に入れることも容易だし、研究者も研究書も多いし、例えば解説等の仕事も多い、ということもあり得ます。そのことがまた全集を出したり、知名度を上 げたり、各種メディアで取り上げられることにもなれば需要も増えます。また、そうした場合、教科書というある意味で非常に特殊な無菌パックとも言えるような規制枠があることが意識されずに、 評価が一人歩きしてしまうこともあるでしょう。これら諸々の問題は現在十分に調べられてもいないし、はっきりと問題化されてさえいないのが現状ですから、いずれにせよ調査、検討が今後必要だと思います。
(ひつじ)最後の質問です。読みの対象、あるいは批評の対象は、アカデミズムでも文学界と呼ばれているものでも、紙に書かれた文学作品に限定されていることが多いと思います。読む対象は、 もっと拡大されていくのでしょうか。たとえば、ロールプレイングゲームや様々なマルチメディアタイトルがあり、テレビで放映されているドラマがあります。コミックの類もあります。また、通 常には作品と見なされていない新聞の紙面や雑誌の記事などもあるわけですが、そういったものへ、読みの対象を広げていくことが、可能でしょうか。また、そういったものを読みの対象とした場 合、今までのアカデミズムや批評は変わっていくのでしょうか?
(和田)批評の対象は現在でもすでに拡大しています。少なくとも文芸雑誌以外に目を向ければ、読みの対象は現在でもきわめて多様ですし、文学の領域でもそうした傾向は顕著になると思います。 ただ重要なのは、研究対象の拡大や多様化が、研究領域自体の変貌に直結するわけではない、ということです。具体的に言えば漫画や映画を研究対象にしただけで文学の研究が変わるというのは当然のことながら幻想です。漫画にしろ、映画にしろ、その対象の論じ方自体が旧態依然とした文学研究のパラダイムにのっとったものでしかない批評を私たちは数多く目にしています。ところが多様な情報の型によって影響を受けているのはまさにその読み方そのものなのです。だからこそ、情報と、情報の受け入れ方、読み方自体をも視野に入れたスタンスが必要になってくるわけです。それはまた現在の文学研究の方法的な限界を露呈することにもなります。例えば一つの紙面の受容について考える場合にも、私たちの知覚や情報処理過程について多くの分野で研究されている仕事を 無視できなくなるでしょう。それが望ましいことだと思います。いささか逆説めいた言い回しになりますが、扱う研究対象の拡大は、その研究領域自体の方法的な限界に気づいてしまうようなやり かたで扱ってこそ、はじめて意味を持つと言えるのではないでしょうか。