松本 功
大学図書館には、コピー機がある。学生は当然、コピーをする。
そのことが、即座に著作権の侵害になるとか、出版権の侵害になるということをいうつもりはない。出版権というもの自体、実は、原則的には法律的に認められていない。図書館法によって、「複製」自体は、一定の限度の中で許容されている。大学図書館の立場は、複製の権利をタテにとって、出版権に対する使用料のようなものは払わなくてもよいということらしい。複写する権利は認められるべきだと思うが、出版社の生存権を奪うところまで行きすぎてもいいということであるはずがない。行きすぎれば、もとの本が作られなくなってしまうからだ。そうなれば、元も子もない。
(ただ、出版業界は反省すべき点は多い。出版社の権利を図書館が認めていないことを説明していない。たとえば、東京大学出版会の書籍の奥付けには複写権センターが設定したRマークがついている。複写権センターというものがあって、そんなマークまであれば、たいていの人は、図書館が、特に大学図書館が研究書に対するコピーの使用料を払っていないとは思わないだろう。)
編集者が、書き手を助け、企画し、原稿をお願いし、あるいは書き手からとの相談で、本を作ることを決める。企画が決まったといってもすぐに本ができるものでもなく、特に研究書の場合は、5年10年と待って原稿を手に入れて、本にすることもある。そうして、作った本には、編集の仕事が関わっているといっていいのではないか。そもそもその本を出すと決めるところから、編集の仕事ははじまっている。
企画を考え、原稿をもらうことの後には、本は、ページを組まなければできないのが原則だ。小説のようなものは、組むこと自体は、簡単だ。しかし、たとえば、われわれの作っている言語学の場合、発音記号あり、異体字あり、文字を作るところからはじめる場合もある。活版の時代には、1文字で1ページのコストが掛かったことがあった。そんな文字が、1ページに10個もあれば、100ページでも1000ページ分のコストが掛かることになる。実際にはそんなに毎ページあるということはないが、ページを作るのは簡単ではないのだ。言語学の場合は、例文があるし、単語の頭をそろえないといけない場合もあり、体裁は複雑になる。しかし、できあがったページを印刷したり、複製したりするということは、ページの中身には関係ない。コピーが1枚10円ならば、1ページの複製代は5円であるが、200ページの本を1000円で作ることは不可能であり、研究書はそもそも、コピーとは対抗できないことになる。200ページで1000円以下という本は、文庫やベストセラーをのぞきありえないのである。したがって、値段ということだけを考えた場合、そもそも、買ってもらえないことになる。
そんな中で、コピーに対して、大学図書館が何の補償も行わないということはどういうことだろうか。前回の未発で、申し上げたように、論文集の刊行はすでに困難を究めている。そもそも、本の一部しか、直接関係ない本の場合、必要な部分だけコピーして保存した方が、使いやすい。学生だけではなく、院生、へたをすると職を得ている人もコピーをしているだろう。図書館法では、本の一部は、コピーしてもよいことになっている。論文全部は許されるのかどうかは、判断が揺れているらしい。大学図書館は、全文であろうが、一部であろうが、いいわけ程度に注意書きを張り出す以外には、何もしていないから、コピーを黙認していると考えていい。(念のため、断っておくと、本ではなく、論文のばら売りということが中心でもいいと私は思っている。)
考えるまでもなくわかるはずだが、大学は研究を消費するところでもあるが、生産するところでもある。そのようにコピーされ続けて、本が出せなくなるのは、自分で自分の首をしめているようなものだと思わないだろうか。研究成果は、大学のアカウンタビリティが求められている時代に、むしろどんどん発信していくことが求められている。ところが、発信する基盤を壊しているのが現状だ。
図書館も予算がないから、という声が聞こえてくるが、それはおかしいことだと思う。大学の先生方も、職員の方々も、生きているわけで、自分たちの生存権はきちんと守っているはずだ。そんななかで、編集人は自分の生存権が守られなくてもいいといえるのだろうか。もちろん、編集者よりも実際の書き手の権利の方が重要だ。書く人は本をだせなくてもよく、原稿で生きていけなくてもよいというのだろうか。図書館が研究の基盤なら、それ相応の待遇をすべきではないのか。本にかかわる人の中にもとてつもなく頓珍漢な人がいて、出版社が企業であるというそのことだけで、大学などよりも利益を生む利益追求型のビジネスだと思う人がいるのには恐れ入る。冷静に考えると大学の方がよっぽど効率の良いビジネスなのである。(授業料が一コマ2000円だとして、200人クラスの授業では、一回で40万円が集まっていることになる。年間、20コマだと800万円。一人当たりでも、4万円。入試代なんて、恐るべきものではないだろうか。)
アメリカの大学の場合、ゼミで指定された本は、図書館で複数購入しないといけないという。日本の場合、1冊だけ購入して、コピーできない状態だと、学生から非難がくる。だから、本は1冊だけ購入し、コピーを黙認しているのではないか。アメリカの大学図書館は、24時間開いているところもあるという。課題の本が読めるように、部屋を空けておくからだ。コピーしてうちに帰って読んでもらえば、図書館をあけておく必要もないし、職員もつきあわなくてもいい。コストと時間と人手の節約になる。
複数の人間が読む本を1冊しか、購入されない場合、どうしても本の発行部数は少なくならざるを得ない。そうなれば、結果、高くなってしまう。そもそも、英語で書かれた本と違って、日本語が読める人しか、読めないという絶対的な人口が少ない上に、コピーまで推奨されてしまえば、本は高価な値段になるしかないことになる。
とはいうものの、アメリカの場合であれば、ライブラリーエディションというハードカバーのものがあり、そもそも、普及版よりもかなり高価である。アメリカでは複数ライセンスの値段を図書館用に作ることもできる。ところが、ひつじ書房で、佐治先生の『日本語の文法の研究』を出したときに、ハードカバーとペーパーバックで2000円の価格差だったけれども、図書館が安価な方を買ってしまって、この2種類刊行して期待した機能が、成立しなかった。図書館が、安い方を買ってしまうし、流通に図書館専用のルートがあるわけではないので、出荷の際に区別ができないのである。この点は日本の図書館の問題と同時に流通の問題がある。出版業界の問題としては、再販制というものがあって、値引きを基本的に禁じるとともに、一つの本は一つの値段を付けるという慣行があったことも原因の一つだった。
本当は、図書館用に複数ライセンスで計算した値段の本と個人が購入できる個人ライセンスの値段の2種類が付けられれば、話しはすっきりするのだが、この方法が使えないと、個人では買いにくい高価になるか、個人の購入を優先的に考えると採算の取れない値段にするしかないことになる。困るのは、特に先端的な研究の場合である。まだまだ、読者の人数が十分にいないだろうと思われる場合に本が出せなくなってしまうのだ。これが図書館版の値段を上げることができれば、長期的な読者を対象にすることができる。
今回、特にこのようなことを書いたのは、フィアラ先生の研究書が、いろいろな事情があって、非常にコストがかかっているのだが、内容的には先端的な要素が強いと思う。今、まさに時流である内容ならば、2000部程度は初版で作ることができるが、そうではなく、先端的内容である場合、部数は500部程度にならざるをえない。となると本当はハードカバーとペーパーバックの二つの値段の本を作りたいのだが、図書館がハードカバーを買ってくれないから、上手く行かないだろう。そうなると予想外にかかってしまった経費を回収する方法がないということになってしまう。
今回は、作るのはハードカバーのみにし、複数ライセンス的な値段を設定することにした。一方、個人の方で、ひつじ書房のお得意さんには、別料金を設定することにする。お得意さんは、ひつじ書房の刊行情報のメーリングリストに加盟している方とし、別途の料金は、電子メールでお伝えすることにする。書店の方で、個人料金で個人に売りたいという人は、松本まで問い合わせをしてほしい。個別に相談することにしたい。
私は、将来的には、流通が改善されるとともに大学図書館も図書館版を購入し、複写時のライセンスの支払いを認めることになるだろうと思っている。そうなれば、論文集を刊行して、コピーされたとしても、本を作るのに必要な経費を返してもらえるようになるだろう。そうなれば、論文集の復活の時代がくる。生きのいい若手の研究を組織した論文集を喜んで刊行する時代がくるにちがいない。コピーされるごとに、書き手と作り手にフィードバックすること、そのことを願っている。今は、本が売れなければ、人々が読んでいるのか、いないのか、その論文が必要とされているのかさえも分からない。せめて、この論文を読んで役にたったよというなにかの印だけでももらいたいものだ。(これが「投げ銭」を提唱している元の意味である。)
私は、出版社の知的財産権を声高に主張したいのではない。情報が、育まれる社会の仕組みを考えているのである。情報に対するパラダイムチェンジが求められていると思う。情報は消費するものではなく、作るものでもあるのだ。図書館は公開の原理だけを中心に考えられてきた。情報はすでに作られているから、それを公平に、お金持ちだけではなく、学生や資産の少ない人々にも情報を公平に公開することで、市民の情報へのアクセスの権利を守るという役割が強調されてきた。しかし、複製と通信の技術の進歩によって情報の複製と流通の区別がなくなってしまったこと、さらに市民はたんに情報にアクセスし、使う存在ではなく、情報を発信する側でもあるということを考えると、これからは、情報の消費だけではなく、情報をいっしょに作るという発想に転換する必要がある。アメリカのニューヨーク公共図書館には、アーティストや作家、研究者に生活費と研究費を与え、クリエーターの活動を支援する仕組みが組み込まれている。クリエーターだけではなく、これは多くのアメリカの公共図書館に言えることだが、これから起業する人への支援の起業講座やビジネス用の高価なデータベースを使えるようにし、経済的な基盤はなくとも発想の豊かな人間をすくい上げ、後押しする機能を持っている。
図書館が、消費から生産への支援に発想が変わるとき、大学図書館の書籍への考え方も変わるだろう。書き手と作り手を支援するという視点から、図書館の役割と仕事をとらえ直すことになるだろう。そうなる日は遠くない・・・。