私は「アンリエットとその村」と名づけたルネサンス風の歌物語のある場 所を知っている。私はそのなかにおまえをアンリエットと呼んで一しょには いって行ったのだ。
歌物語のなかでは美しい魂が浄げな部屋をいくつもつくり私たちを待ちう けていた。
私たちは、とりわけアンリエットは、白い壁にかこまれた明るい部屋でや わらかな椅子に凭れてその窓から無限に高い青空を深い夜の星空を眺めなが ら語りあったりうたったりするのがすきだった。しかしそれは大抵は疲れた ときだけで、私たちはいつも青空の下で草を藉いて坐っていたり高い山の方 へのぼって行ったりした。山の頂に立って、アンリエットは低いひろい地方 を眼のおよぶ限りとおく見わたして、そしてそのかすんでいる地平のあたり に、私たちのふるさとはあるのだと指さした。
ある夜、私たちは星の光にてらされて、小川のほとりをあそび歩いた。つ めたい水が、さわぐのをききながら、私たちは気持よい夜の空気を吸った。 闇のなかでだけ生きることの出来る繊細な生き物たちの気配が身のまわりに は感じられた。アンリエットは指を唇にあてて、私にそのひそひそ話を聴く ように注意した。しかし私たちは風が木の葉をざわめかせて過ぎるのや水が 岸に触れたり水たちが嘗めあうのやときどきとおくの方で夜の鳥が啼くのを きいたばっかりであった。アンリエットは夜の花を摘むと花環をつくった。 それは月の光で出来たような淡い色の花びらだったので、それがかの女の髪 に飾られると、私たちは或るときは黄いろとおもいまた或るときは青だとお もったほどだった。
しかし私たちが夜のなかをさすらうのも、それはただあの朝やけを見たい のみであった。囀りにみちたさわやかな潮風のなかで星の光を追いながら帰 って来る光と束の間にうつろう激しい色との一ときの時の供物を−−。
アンリエットの身体は音楽でつくられているのではないかと私にはいぶか しまれた。私の掌とかの女の掌とが結びつけられ、私たちの腕の輪が互にか らみあい、たったひとつの心臓がふたりに血を運ぶときに、それは何とあた たかにやわらかくこうばしい身体なのだろう! 私はそのなかに沈むことが 出来る、私はその身体の重さを知らない。そして私たちのさまざまの貴い瞬 間は運命なしにとどまるのだ。アンリエットの身体はすべてのほほえみを私 の身体中に注いでくれる。私が幾ら飲みほしても、蝉が樹液を吸うようだっ た、それは尽きずに、また尽きることすら考えられないこころよさなのだっ た。私たちは無限にゆたかなうれしさを紡ぎ出す。そしてそれらはひびきあ って顫えながらたったひとつのものに溶け去ってしまったのだ。……