『日本の学校』(勝田守一・中内敏夫 著 岩波新書 1964年)より
以下に紹介する文章に感動しました。たまたま、地元の古本屋さんの特売コーナーにあったのです。期待もしないで読んでみたら、涙が出そうになりました。奥付けを見て、ビックリ。1964年です。問題の本質は、40年近く前に提唱されていながら、そのことが忘れられているとは、日本の教育、あるいは学校・大学、マスコミの知的レベルはどうなっているのでしょうか。
転載による公開については、中内さんに松本がお手紙を出し、電話でご承諾をいただきました。岩波書店にもご確認くださったということです。深く感謝します。この本は、序章と終章以外は、中内さんがご執筆されたとのことで、ここに書かれている視点は、現在、もっとも重要でありながら、忘れられているものではないでしょうか。学校の問題を解決するために、学校を強化するのでは解決しないと思うからです。ぜひ、古本屋さんや図書館で手にとってご覧になることをお勧めします。
中内さんにはぜひとも、戦前の教育史を単行本で書いていただきたいと思います。岩波書店さん、ぜひ、ご依頼してください。だめなら、ひつじでご依頼申し上げましょう。
今日の日本の大半の親たちは、たいへん教育熱心だといわれているけれども、よくみると、その家庭教育は不在に近い。そんなことはない、子どもは家でも勉強しているという人がいるかもしれない。しかしその家庭勉強は、大半が宿題や復習である。これは家庭教育ではない。学校教育の下請けを家庭がしているにすぎないのである。
すでにみてきたように、このような親の教育意識は、日本の学校の地域主義の産物であり、したがって、学校の教師の方も、大半は、このような親の態度に疑問を感じていなかった。それどころか、子どもが家庭や仲間集団で独自の生活や学習をすることを好まない傾向すらあった。実際には敬して遠ざけられたりしながらも、意識の上では、教師としてだけではなく親代りとして子どもにのぞみ、その全責任を負うのが、日本の教師のならわしにまでなった。かれらにとって、学校は「ウチの学校」であり、生徒は「ボクの生徒」である。
ここで注意したいのは、政府と名望家層が指導した近代の学校が国民の生活にわりこんでくるまでは、親の教育意識は必ずしもこんなことはなかったということである。
五、六〇年前ごろまでは、すべてがこうではなかった。『朝日新聞』(昭和二十九年八月二十七日付)の「ひととき」欄に、次のような四十歳代の主婦の投稿がのったことがある。
「小、中学生の知能テストの採点を見て、日常身近に始終用いる簡単な言葉が正しく使われていないのに驚きます。・・それにつけても、私は幼いころの父母のことを思い出します。父はすでに亡く、母ももう七十になります。夕焼の空に飛んでいくガンを一ワ、二ワと声をそろえて数えたり、田のあぜに腰をおろして、目の前の田の広さは何畝、何歩と教えてくれた父。海に行けば水平線や水の色のちがい、潮流のことなど、実地にいろいろ説明してくれました。母は台所で一合マスでわざわざ一杯はかって一升にして見せてくれ、魚を料理しながら、獲れたところやマナ板にのるまでの経路を面白く子供の私に話してくれました。虫干しの折には衣類にまつわる近親たちの面影など、またその布地の名称や産地について・・・父や母とともに語りあったことは数かぎりありません。この父母とて決して博学多才な人ではなく、山村の一凡夫にすぎません。ただ父母は子とともに学んでくれました。そしておとなのチエと愛で子をひっぱってくれたのです。・・・」
似たような話を、よく耳にする。このような事実は、公の学校が国民の生活慣行のシステムを変質させ消滅させてしまうまでは、日本の国民のあいだにも、子どもの教育についてそれなりの思想が、かなり広くゆきわたっていたことを物語っている。それこそ、「無学文盲」、「山村の凡夫」のあいだのことだから、世代から世代への伝承と経験の交流は、「耳学問」によったものにちがいない。だから、それについての直接的な文書資料は、完全なかたちでは残っていない。まして、為政者側の文書資料にはその痕跡すらとどめない。古代の資料は京都上流人の筆になるのだが、それでもかれらはまだ民俗のなかに生きていた。それが、中世五山の僧を経て近世の官学者になると、もっぱら異国漢学の知識をかりてきて別世界人のことのように高所から国民生活を説明するようになり、近代日本の主な資料の作成者である官僚、学者にいたってこの傾向は極限に達したのである。
それでも、為政者層からのなんの保護、干渉もなく、学者、知識人層のなんの指導もないところにつくりだされていた育児と教育の伝承の体系が、相当に自覚的なレヴェルでかつて実在していたことは否定できない。今日でも、その断片ならばひろい集めることができる。しかしそれらの多くは、意識のうす暗がりにおしこめられたままになったために、近代的方法による洗練の機会を失って著しく形骸化していたり、あるいは、藩校や官・公立学校の考え方に似せて作り直されたりして多くは原型をとどめていない。次に、二、三の例をあげてみよう。
中国・四国地方の一部で用いられている方言に「児やらひ」という育児を意味する言葉がある。筆者は、子どものころよくこの言葉を聞いたおぼえがある。昭和十年ごろ、恩賜財団愛育会によって、この「児やらひ」法を含む全国の都市および農山村における育児法の蒐集がおこなわれたことがある。ところが、集まってきたものは、近ごろの育児書のように満一歳までの子どもの、しかも身体のことばかりというのではなく、子どもの精神の指導まであつかっているものであったのはよいが、もうほとんど完全に、まつりもしくは手続きの型として形骸化されきっているものがほとんどであった、という。
ところが、「児やらひ」は児のヤラヒ、ヤラフであり、「遣る」という動詞の第二形にあたる。意味は、ものをうしろから追いたて、おし出し、見守るという行為の持続であって、奇しくも、ペダゴジー(教育学)の語原であるギリシャ語のパイダゴーゲオーと同意である。このことは、「児やらひ」法が、たづなをつけて前から無理やり子どもをひっぱっていくといった具合の近代の学校教育法とは正反対のものとして、庶民の親たちに理解されていたことを物語っている。そういう教育原理の具体的形態は、今日全くかたとしてしか残っていない。むしろ、同じ類の「しつける」というコトバも、今日まで伝えられ、広く用いられるようになると、なにかおしつけがましい、藩校=学校風の教育方法を意味するものとなっているありさまである。もう一つ例をあげよう。
それは、「夜話」をめぐる、日本の親たちの観念の変化である。柳田国男によると、「今でも形ばかりは山家などに残つて居るか知らぬが、夜会と称して老人は茶を呑みに、若盛りの男女は夜なべを持寄つて一つの明りの下で群れて夜を更すのは、もとは一種独特の学校」であり、ここに出席することによって、若者たちは、村での作法や生活技術のほかに、「人は何を悦び何を非難するかと云ふ風な」問題までを、実例によって教えられていた。ところが、「夜会」におけるこの教育の部分がいつかすっぽりどこかへもっていかれて、「一家の私事のみ」が多く論ぜられるようになり、今日みるように、「囲炉裡の端が公共で無くなり、趣味や感情の交換所で無くな」ってしまったという。(『農村雑話』大正十五年)
学校の再編成を条件づける家庭教育の再建は、まず、この失われた教育の脈絡をひろいなおすところから出発しなければならないだろう。