新文化 2001.2.15号
問題提起 松本功(ひつじ書房代表取締役)
出版界に二つめの魔物が現れた。一つめの魔物は、新古本を定価以下で売る魔物で、二つめは、最近になって水面下から現れた。本を無料で貸し、さらに「無料」で複製させる魔物だ。一つめは、委託制度と再販制度に根本的な刃を突きつけ、二つめの魔物は、著作権を扱う仕組みが出版界では機能していない、という事実を明らかにしてしまった。ここでは、二つめの化け物について話をすることにする。この怪談が、十年後には、昔話か笑話になっていることを願いたい。
二つめの化け物というのは、現在、図書館で行われている著作権を無視したコピーのことだ。著作権の範囲内で複製を図書館が行うのではなく、セルフコピー機を置き、さらには自由にコピーして下さいといわんばかりのサービスを行っている。図書館が、無料貸本屋だという批判のさらに上をいく「無料」コピーサービスまではじめてしまったとなれば、ブックオフも真っ青ということだ。ブックオフなら、商売だから有料であるが、公立図書館の場合には、税金でなりたっているので、ブックオフなどはかわいいものだといえる。
さて、今回の論点を整理しておきたい。
1 図書館が無料コピーサービスを公然とはじめてしまったのは、自ら墓穴を掘る行為である
2 一方、その理由は利用者の要望に応えるというかたちになっている。利用者側の問題をどうするか
3 多くの図書館では、著作権法に配慮した仕事をしている。その仕事は利用者とに対する著作権法の説明や法外な要求に淡々と応えるという地道な行為であるが、そのことへの関心が出版界に低すぎる
4 利用者の中には、著作権に対する「対価」を払ってでも、利用したいという希望があるにもかかわらず、それに対応できる著作権処理の仕組みを図書館界と出版界は作ってこなかった
5 紙の複製の次には、デジタルの情報のコピーの問題が控えているが、その点についての両者の業界の認識が薄い
あらかじめお断りしておくが、私は書協の著作権・出版権委員会の幹事の一人であり、会議にいたことで情報の多くを得ているが、書協とは多くの点で異なる立場に立っており、今回の記事の内容は全く私個人の見解、提案であるということである。
10月に書協の幹事会で、国会図書館で編集・発行されているカレントアウェアネスの記事が紹介された。タイトルは「横浜市立図書館の「勇気ある」決断―著作権法第30条によるコピーサービスの実施―」(『カレントアウェアネス』No.248(2000.4.20)6-7p所収)というものであり、横浜市立図書館がフェアではないコピーを行っているという文脈での紹介でもあったこともあり、国会図書館の職員が、横浜方式を奨励するものであるかのように、受けとめられた。(その後、別の席でこの問題を取り上げた際に、ご本人とあい、横浜方式を推進するためではなく、批判するためであったとの本当の意図を聞いた)私は、企画の立案だけではなく、自分で、本をDTPで組み、出荷し、返品を受け取っているということもあって、本に対するいいかげんな対応については、ストレートに憤慨する。以前の新文化の記事でも、トーハンの返品に足跡が付いている問題で批判を行ったが、公開の紙面でやったのは私ぐらいであろう。話を元に戻そう。私は、即座に出荷停止を含んだ対応をとることを提案したが、幹事の方々の賛意を得られなかった。私は、自分で出荷をしているので、取扱書店が分かれば不可能ではないと思っているので、不思議なことだ。
図書館の公共性ということ、図書館が単に情報を消費するところではなく、研究や調査を支援することで、次世代の著者を育て、次世代の書籍を作るところであるという前提に、著作権法の第31条で、良識ある範囲での複製は認めている。ところが、利用者にも問題があるだが、図書館での複製は、利用者への情報消費サービスだと思っていて、何で新刊雑誌をコピーできないのだとか、コンビニでは10円で自由にコピーできるのに、いちいち申請書を書かなければいけないのはめんどくさい、などなどいろいろなことを言ってくる人が、少なくないのである。そこで、横浜市立図書館の司書資格を持っている管理職が、30条で複製をすることにすれば、勝手にやらせればいいので、ラクチンだと提案したようなのである。30条は私的複製ということで、自分のものは私的に複製することができるとしているのである。
図書館で借りた本を私的なものといえるはずはないと思うが、横浜市立図書館で建議を作った人はそう思わなかったようだ。しかも、私的複製を認めた30条には公衆の面前にある自動複製機を使ってはいけないと書いてある。CDの例の方がわかりやすいのでこれで、説明すると、自分で買ったCDを自分の所有するオーディオ機器のMDにおとすことは、許容されているが、コピーセンターのようなところで、MDに録音することは許していないのである。もし、そのようなことをする場合は、レンタル屋さんが、補償金を払わなけれなならないということだ。30条と考えても、図書館は公衆の面然にあるわけだから、複製することは許されていないのである。しかしながら、横浜の管理職は、専門性が高く、図版・文書に関しては、罰則は当分施行しないという付則第5条を知っていたので、裁判になっても、負けることはないという知恵をもっていたのである。つまり、現行の著作権法に乗っ取る限り、裁判をしても負けるということはない、あるいは脱法行為であると認定されたとしても実際に罰則を貸されることはない可能性が高いということだ。横浜のケースは、著作権法を良く知らない人が、たまたま、踏み外してセルフコピー機を置いたのではなく、著作権法を良く知っている人が、確信犯的に行っているということである。図書館界の人に聞いても、たまたまではない分、犯罪性は高いという意見が多い。
ここで、翻って、出版界の問題を考えたい。今でも多くの図書館は、著作権法31条の範囲内で、多くの利用者からの過剰な要望に図書館員が応対している。これは、せつない労働である。出版界は、毎日毎日、場合によっては理不尽な利用者と応対している図書館員の労に、想像を働かせたことがあっただろうか?その労を報いようと図書館の人々に感謝状を送ったことがあっただろうか?少なくともひつじ書房では行ったことはない。最前線で著作権を、守ってくれていたのは、法律の条項ではなく、彼らだったわけあり、尊敬を込めた何かをしてもよかったのではないかと私は思う。この時期になって、いままでもあったことなのに、今頃問題にするのはおかしいという図書館員がいるが、半分は正しい。半分は間違っているけれども。多摩市では、利用者から、裁判までおこされているが、その時の出版界はどういう対応をとっていたのだろうか?この点については、今回取材をしていないので、断言を避けるべきだが、この時にきちんとした対応を行っていれば、もう少し、違った対応があったのではないかということはやはり言っておくべきだろう。また、本はパッケージで無ければならないというのは、出版界の思いこみで、一部分だけ読みたいという希望を利用者はもっている。特に雑誌のようなものは、次の号がでてしまうと入手は極端に困難になる。新聞の論壇で、紹介がでるころには、雑誌はほとんど入手できない。であるならば、一月後れの雑誌の論文を読むための方法を出版社は考えるべきであるのに、実際には何もしていない。図書館で前月号の論文を読みたい。著作権料を払ってでも全文を手元に置きたいという利用者の希望を無視してきたのではないか。このことも徹底的に反省すべきだろう。
さて、なぜ、付則があるのか。付則の中身はこうである。「新法第三十条第一項第一号及び第百十九条第二号の規定の適用については、当分の間、これらの規定に規定する自動複製機器には、専ら文書又は図面の複製に供するものを含まないものとする」これは、『著作権法詳説』(三山裕三 著 東京布井出版 p.284)によると「文献複写に関する権利を集中的に処理する体制が整っていない現状の中では、権利者の権利行使が不可能で、利用者も許諾を求めようにもどのようにして誰の許諾を求めてよいのかわからず、よってこのような状態で公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製危機を用いてする複製を違法としても、いたずらに違法状態を作出するのみで実効性に欠けるので「当分の間」、右自動複製器による複製を許諾したものである。」つまり、複製を組織的・自動的にライセンス処理できないことが、本来的には不法なコピーを見過ごさなければならないということの原因であるということである。
この点については、複写権センターがあるものの、実働とはいえない状況であり、さらに、理系・医学書の出版社を中心に複写権センターの一律一頁2円というのでは、あまりにもひどいということと、そもそも、1頁20円とか50円とかの個別のライセンス処理については、2000年の年末ぎりぎりにさじを投げてしまったということで、日本著作出版権管理システムという会社が25日に設立された。振り出しに戻ってしまったというか、やっとスタートするところに立っているといえる。こちらは、きちんと著作権の処理を行える団体に育ってほしい。
横浜方式の問題は、紙の本の問題だけに止まらない。すぐ後ろにデジタルコンテンツの複製の問題が控えているのである。情報は共有されたがっているとするなら、情報は公共の場に置かれるべきだ。しかし、作り手の生存を配慮した仕組みが作られなければ、作り手が生きていけず、最終的に情報がでてこないことになる。このことを考えると横浜問題はさらに根が深いことが分かる。出版人も図書館人もそのことがどうもピンときていないようだ。情報の生産ということに関する意識の欠如。
情報のデジタル化に対する対応と言うことで新しい動きがある。東京大学教授の安田浩氏が主催するコンテンツIDフォーラム(www.cidf.org)という組織の活動である。安田氏は、動画の圧縮・配信技術であるMpegの仕様を決めた世界的な指導者の一人で、もともとは動画やイメージ、音楽などのデジタル化には著作権を処理する考えが必要であるということで、フォーラムをスタートした。この方法を文書コンテンツに応用するならば、一冊一冊のライセンス処理も可能になる。
たとえば、これは私がNTTの研究所と一緒に考えたものだが、本の柱に二次元バーコードを印刷しておく。そこには、書名、著者名、章名、章の何ページ目か、章の著者名や希望ライセンス処理方法(たとえば、1年間はコピー不可、5年間はページ20円、それ以降はコピーフリーなど)を刷り込んでおく。コピー機には偽札コピー防止機能が付いているから、画像を識別してコピー機をとめたりすることは不可能ではない。また、コンビニに導入されているゼロックスのコピー機には、今でもネットワーク機能がついているわけで、ライセンスをセンターに問い合わせる機能をコピー機に付けることも、容易なのである。この方法であれば、コンビニでのコピーは、最初のページから20円だが、図書館では、半分までは10円とか、図書館でのコピーの方が安い値段を設定することもできるわけだし、いちいち図書館員が、利用者に応答したり、著作権について、出版社に問い合わせしないでもすむ。私は、このような仕組みが10年後には実現すると思っている。
ただし、この仕組みになるのは10年後であるとして、それまではどうするか。私は、書籍に複数ライセンスあるいは米国などにあるライブラリー版という概念を導入し、図書館版については、補償金を付加した値段で納入し、コピーについてもフリーにするというふうにしたらいいのではないか。資料をコピーすることは、次の書籍を作り出すものでもある。それを単純に著作権法に反するから、といってすむことでもないだろう。図書館は情報を消費するところだけではなく、情報を作り出すところである。著作権というものは、そもそも、最初に考えた人を顕彰すると同時に、その知恵を社会が共有するためのもである。
そもそも、横浜が横紙破りを行わなければ、このようなことに気が付かなかったというのはうかつだ。出版界は図書館界の実状を理解せず、図書館界は、ものを書いたり、作ったりしている人々を理解しようとしていない。二つの業界に書き手を含めて、率直な議論ができる状況を作ってこなかったことにも今回の大きな問題の原因がある。これをきっかけにして、率直な議論を、本に関わる人々の中で行うべき時がきたということだろう。もし、新しい書き手の生業を尊重した、著作権の仕組みが、できるのであれば、横浜は笑話になる。そうならなければ、本の世界は死滅するだろう。
2001.2.20 itibu teisei