『発話の権利』の話しを再度
2020年12月25日(金)

『発話の権利』の話しを再度

12月23日のメール通信で配信した内容がもとになっています。

前々回で申しました『発話の権利』の話しを再度します。

この書籍はいろいろな意味で画期的な研究書です。

誤解されると困るのですが、「言語の恣意性」というものについても修正を求めるものになっています。恣意性というのは、シニフィエとシニフィアンは、固定したものではなく、恣意的に決まるというテーゼがあります。これは近代的な思想の根本にあるというか、前提になっていると思います。恣意的というのは固定的ではない、日本語で「犬」と呼ばれる生き物の名前は、それぞれの言語によって恣意的に決まるということです。恣意的というのは、固定的ではないということだと思いますが、強く言うと「自由」ということになると思います。たぶん、固定的ではないということはそのように拡張されて受け止められていると思います。しかし、ある言い方はある場合にしか言えない、ある言い方はある立場にある人にしか言えない、ということがあるとすると固定的ではないということはよいとして、どんなふうにも自由に決めることができるということまでは言えない、ということになります。

近代的な思想の前提に本質主義と社会構築主義という対立があって、かつての本質主義は否定されたということになっていると思います。しかし、本質主義はなりたたないにしろ、仮想的に本質主義を設定して議論した方がいいのではないか、という議論も起こっています。社会構築主義を設定する思想自体も、社会構築されてできたものではないか、普遍的な立場から、恣意的だという時、それは本質主義ではないと主張するその普遍的な観点自体も、社会構築された普遍主義だとすると普遍主義はなりたつのか、などなど。思弁的実在論と呼ばれているものが考えられているのもそうした批判ゆえだと思います。この立場にも議論が起こっています。また、社会構築主義にも、批判的アプローチと解釈的アプローチがあるという考え(箕浦康子2010 「本質主義と構築主義 : バイリンガルのアイデンティティ研究をするために」)もあります。このことに付随していうと言語教育を研究する人は、国とか人種などに対して反本質主義として社会構築主義の考え方を取る人が多いですが、社会構築主義が一つの視点ではなく、普遍的な真理として考えているように見えることがあります。普遍的な価値観は成り立つのかというような省察がなく普遍的な観点から、多文化共生ということを主張すると研究ではなく、ビジネスコンサルタントのキャッチフレーズの発言になってしまう危険があると思います。普遍的な価値を主張するのはよいと思いますが、キャッチフレーズ的な言語の使い方には注意が必要だと私は思います。

社会構築主義の起源の一つに、言語の恣意性の考えがあると思います。とすると言語の恣意性についての問い直しが行われるのであるのなら、社会構築主義も修正が必要になるのではないでしょうか。私の認識が、支持されるかどうかは分かりません。ぜひ、『発話の権利』をお読み下さり、お考え下されば幸いです。この本の最後の論文、定延先生の「「発話の権利」はどういう現象か」でアニマシーという考え方で議論されています。ここで述べているのは私の解釈ですので、定延先生がそのように主張されているわけではありません。

誤解されると困ると申しましたのは、リベラルな主張のもとには人間は自由に社会や文化を構築できるという前提があると思います。ここでは、人権を尊重するというようなリベラルな考え方を否定するものではないということです。現在の社会や文化に問題があったとして、それらを批判する場合に、社会や文化は自由に構成することができるという前提とは違った立場で批判しないといけないということを呼び起こすのかも知れません。単純明快ではない思考法が要請されることになるのではないでしょうか。恣意的であるにしろ、何でも自由に構築できるということは、言い過ぎということです。大げさにいうと本質主義と構築主義の議論の前提を修正することを呼び起こすのかもしれないと思っています。大げさにいわなければ、箕浦先生の用語でいうと解釈的アプローチの範囲内で解釈の仕方を変化させるということかもしれません。

人間は平等である、あるべきだという人権を尊重するリベラルな主張を否定しているということではないので、誤解のありませんようにお願いします。

また、本書の中の高梨先生の「維持されるものとしての発話の権利 クライアントの意向を尊重もしくは利用する」も面白いと思います。第1節のタイトルは、「「発言に成功すること」は「発言が成功すること」ではない」となっています。発言はしたとして、その発言が受け入れられないということがあった場合にどう考えるか。発話をする権利があったとして、発言の内容、意図を受け入れられないとしたら、権利ということはそもそも、意味があるのか...受け入れられるとしたら、どういうことが考えられるかということを研究しています。この内容も従来の言語研究では議論されてこなかったことではないでしょうか。職場も含めた日常的な言語のやり取りの中では、当然、起こることですが、そもそも議論されなかったことではないのか。社会的な言語活動を扱うのであれば、不可欠な観点だと思います。たとえば、教室で教師が発言をして、あるいは教育的な指導を行ったとして、それがどう受け止められるのかということを言語研究は扱っているでしょうか。現実にはまったく受け止められないということもあるように思いますが、研究はあまりないのではないでしょうか。

『発話の権利』は、言語研究がこれまで前提としていたことを疑い、扱ってこなかったことを提起する論集となっていると思います。定延先生と高梨先生の論考だけ、わずかに触れましたが、他の論文も研究自体の意味に加えて、そのような研究自体を問う意味を持っていると思います。ぜひ、お読み下さい。

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執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。



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