『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を見て

2019年12月27日(金)

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を見て

2019年7月24日のひつじメール通信の「房主より」が元になっています。

映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』が、岩波ホールで上演され、各地で上演されています。岩波ホールも、私がいった時は満員でした。もう、ご存じの方はいないと思いますが、私は20世紀末に「進化する図書館の会」というグループを作っていました。(2000年に行った会の記録→http://www.hituzi.co.jp/hituzi/kikaku2000aki.html)この進化する図書館というのは、菅谷明子さんの中央公論の論文のタイトルから取っています。この本が元になって『未来をつくる図書館』(岩波新書)になりました。そして、日本の公共図書館のイメージから抜け落ちていて、ずっと忘れられていたあり方として、仕事やビジネスを手助けするという図書館の機能に注目して、ビジネス支援図書館推進協議会というものを作りました。書籍というものが、狭い意味での文化的、教養的な意味に留まらず、いや、むしろ重要なのは仕事や生活を支援すること、さらに現実に存在している仕事を上手くやるということに留まらず、新しいビジネスを作ることに意味があるということを強調し、知ってもらいたいということでした。菅谷さんの「進化する図書館」の中にも、図書館で生まれた会社の例としてゼロックスの創業の話しがでています。ビジネス支援図書館推進協議会は、具体的な活動を20年近く行っていますが、世の中の人は、図書館がニューヨーク公共図書館のような機能も持つ可能性があることを知らないのでしょう。(http://www.business-library.jp)

映画『ニューヨーク公共図書館』が、公開されると市民のための図書館の素晴らしい機能があるということを知って驚いたというようなコメントがありました。20年も前から、議論していたことなのですが。図書館が、ビジネスを支援するという時、私は大規模なビジネスというより、街々の小さなビジネスを起こす人が、アイディアを得るために図書館に行ったり、高価な経営コンサルタントの支援を受けることのできない街の人が仕事をする時に智恵をもらったりするという可能性に期待していました。ある時期まで市民活動の組織であるNPOが成長し、かつ、期待もされていた時期でしたが、官というより民が、智恵をだして、地域的な問題を解決する際に、市民にとっての知恵袋のような機能を果たしうる場所。地域の住民が、地域社会の問題を解決する際に智恵をもらえるところ。自前で考え、自前で議論する際の情報基地としての図書館。

かなり建前的(理想的?)ですが、市民社会は、市民が自前で相談し合って、結論をだす必要があります(=対話)。その結論をだすには知識が必要ですから、その情報拠点が必要(=公共図書館)。さらにいうと、その情報拠点のためには知識を集めた図書が必要(=研究者、出版物)ということ。私の中では、それらが循環する生態系のように考えていました。つけくわえると現代社会の地域の問題は、世界で共通していることもあるので、市民のための図書館であるのなら、洋書をきちんと蔵書する方がいいとずっと前から思っています。

どうも、それは非現実的な考えで、自前で考えて、自前で結論をだすのが民主主義であるべきなら、そうであってほしいと夢見ていたということになります。しかし、残念ながら、誰かがだしたもっともらしい結論に従うということの方が現実であり、自分で考えるための情報を図書館に求めることは必ずしも多くないように思えてきました。結論的なものは知りたいが、結論をだすための面倒くさいプロセスに関わることに動機は生まれにくい、というのが現実のように思えてきました。ここに研究と知識への軽視の文化があって、なかなか拭い去れない日本の弱点があると思います。

ここで飛躍しますが、弊社では『読書教育の未来』(日本読書学会 編)という書籍を刊行しました。その中の藤森裕治先生の「成人の大学生・成人の読書と生涯発達」という論文の中で、「不読率」について紹介しています。2013年の段階で、1月に書籍を1冊も読まない人の比率は、47.5パーセントだということです。そもそも、リテラシーを持っていないから読まないということも考えられると思いますが、この論文で藤森先生が紹介しているOECDのリテラシー観は「リテラシーは、社会に参加し、個人がその目標を達成し、その知識と可能性を発展させるために、書かれたテキストを理解し、評価し、利用し、関わることである」としています。ぜひ、論文も(書籍も)お読みいただきたいですが、この考えからすると不読者は、そこでいうリテラシーを持っていないということになります。私の関心に引きつけますと社会で起きている問題を理解する際に、書籍を読むことは重要だと思いますが、そもそも、多くの人は読書をしていないのです。

誰かに決めてもらってよく、難しいことは考えないことにしておく、という社会で、充実した図書館が求められるでしょうか。研究が求められるでしょうか。書籍が求められるでしょうか。かなり、悲観的なところに来てしまいましたが、「不読率」が低くはないということを認識するところから、はじめることなのではないでしょうか。本を読んでいなければ、情報を得ていないといえるのかというのは正しい問いですが、本を読んでいなくて、ネットの情報だけでその情報の偏りに気づけるかというと難しいでしょう。

誰かに決めてもらってよく、難しいことは考えないことにしておく、というのは、労力を省くという意味ではたいへん現実的で、合理的な処世法です。それはだめだというのではなく、倫理的に批判するのではなく、どうせだめだというのでもなく、出版人としては書籍が必要なのかを考える出発点にしたいと思います。

追記1 

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』の中で、デジタルデバイドということが、議論されていました。パソコンを自宅に持っていないから、情報にアクセスできない人にパソコンを貸し出すということをやっていました。かなり力を入れてやっていたと思いました。日本でも、20世紀のうちは、パソコンを持っていなくて、ネットにつなげないことによるデジタルデバイドということが、議論されていましたが、ほとんど議論されなくなっていると思います。日本では、スマホでみんなネットにアクセスできるから、パソコンを持っていないことは、あまり問題にならないようですが、どうなのでしょう。アクセスはできたとして、実際に検索して調べたり、計算したり、文章を書いたりすることが重要ということを考えるとスマホさえあれば、問題がないという日本の感覚は、どうなのでしょうか。日本での情報とニューヨーク公共図書館の人々が考える情報が違っているのではないかと思いました。

追記2 

おかげさまで刊行しました『読書教育の未来』は、驚くべきことに半年立たずに品切れになりました。ありがたいことです。2020年の頭に重版することにいたしました。

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