ひつじ書房 太宰治ブームの系譜 滝口明祥著 太宰治ブームの系譜 滝口明祥 著
2016年6月刊行

未発選書 26

太宰治ブームの系譜

滝口明祥 著

カバーイラスト 久米田康治

四六判上製  定価3,400円+税

ISBN 978-4-89476-815-4

ひつじ書房

A Look at Osamu Dazaiʼs Posthumous Popularity

Akihiro Takiguchi


太宰治ブームの系譜 「はじめに」


【メディア掲載情報】
・「大波小波」(「東京新聞」2016年6月18日夕刊)
・「上半期の収穫」(「週刊読書人」2016年7月22日号、評者は石原千秋氏)
・書評(「週刊読書人」2016年8月26日号、評者は若松伸哉氏)
・書評(「図書新聞」2016年10月15日号、評者は大國眞希氏)

【内容】

太宰治が人気作家になったのは、その死後のことだった!? 生前は基本的にマイナーな作家であった太宰は、スキャンダラスな死によって一躍ブームが訪れる。だが、それで人気作家としての地位が確立したわけではなかった。太宰が人気作家となるには、もう幾度かのブームを経なければならなかったのである。-〈太宰治〉という作家イメージの変遷を辿る本書は、それを受容した戦後の日本社会の変貌をも映し出していることだろう。




【目次】

 はじめに

第一部 〈太宰治〉と戦後の十五年

第一章 第一次太宰ブーム―一九四八年―

倉庫に山積みになっていた『ヴィヨンの妻』/入水から発見までの数日間/
愛人の日記を掲載した「週刊朝日」/マイナー作家としての太宰治/
「からっぽ」であることの不安

第二章 戦後の編集者たち

戦後における執筆依頼増加の背景/『斜陽』と新潮文庫版『晩年』/
「女類」と野平健一の結婚/「アカハタ」の中の〈太宰治〉/
『人間失格』と筑摩書房

第三章 戦後の若者たち

三島由紀夫との邂逅/「春の枯葉」の上演/全学連の結成と宮本顕治/
出英利の死/奥野健男の青春と石原慎太郎の登場

第四章 第二次太宰ブーム―一九五五年―

「戦後」の終わりと『太宰治全集』の刊行/
奥野健男『太宰治論』と「戦中派」の戦後/「第三の新人」の登場/
怒れる若者たち/同い年の作家・松本清張


第二部 『太宰治全集』の成立

第一章 八雲書店版『太宰治全集』

生前に出た全集/『井伏鱒二選集』という企画/
死後の増補/近代文庫版『太宰治全集』と津島美知子

第二章 筑摩書房版『太宰治全集』

文学全集の時代/筑摩書房と個人全集/
ゾッキ本と文庫/普及版全集の刊行

第三章 検閲と本文

二つの本文/GHQ/SCAPによる検閲/
戦時下の検閲/作者の意図と本文


第三部 高度経済成長のなかで

第一章 〈太宰治〉と読者たち

桜桃忌の変貌/太宰治賞の設立/教科書のなかの〈太宰治〉/
卒業論文の題材としての〈太宰治〉/漱石と太宰/文体への注目

第二章 第三次太宰ブーム―一九六七年前後―

踏み荒らされる鷗外の墓/吉永小百合と「斜陽のおもかげ」/
娘たちの邂逅/山崎富栄イメージの変貌/「無頼派」の再評価

第三章 「からっぽ」な心をかかえて

高度経済成長とアイデンティティ・クライシス/
「第三の新人」たちの一九六〇年代/江藤淳の距離感/
青森県の共産党員たち/太宰研究の始まり/読書感想文のなかの「人間失格」

終章 その後の〈太宰治〉

『太宰治全集』の変遷/全集から文庫へ/
サブカルチャー? ポストモダン?/没後五十周年の太宰ブーム/
様変わりするパッケージング/生誕百周年から現在へ

 おわりに
 太宰治全集・文庫等の刊行年表
 あとがき
 参考文献一覧
 人名索引


【著者紹介】

滝口明祥(たきぐち あきひろ)

〈略歴〉1980年広島県呉市生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(日本語日本文学)。早稲田大学国文学会(窪田空穂)賞受賞。学習院大学助教を経て現在、大東文化大学専任講師。

〈主な著書・論文〉『井伏鱒二と「ちぐはぐ」な近代』(新曜社、2012)、「滑稽な〈男〉たちの物語―太宰治『パンドラの匣』」(「太宰治スタディーズ」5号、2014・6)、「「風俗」と「喜劇」が結びつくとき―井伏鱒二と戦後喜劇映画」(「文学」15巻6号、2014・11)、「ツーリズムのなかの「富嶽百景」―太宰治と山梨」(「文学・語学」211号、2014・12)



太宰治ブームの系譜 はじめに

 一九三六年六月、太宰治の初めての著書である『晩年』が砂子屋書房から刊行された。初版の発行部数はわずか五〇〇部だったと言われている。現在から見るとその少なさに驚かされるが、その後の売れ行きはどうだったのだろうか。五年後、太宰は「「晩年」と「女生徒」」(「文筆」一九四一・六)で、次のように述べている。
 「晩年」も品切になったようだし「女生徒」も同様、売り切れたようである。「晩年」は初版が五百部くらいで、それからまた千部くらい刷った筈である。「女生徒」は初版が二千で、それが二箇年経って、やっと売切れて、ことしの初夏には更に千部、増刷される事になった。「晩年」は、昭和十一年の六月に出たのであるから、それから五箇年間に、千五百冊売れたわけである。一年に、三百冊ずつ売れた事になるようだが、すると、まず一日に一冊ずつ売れたといってもいいわけになる。五箇年間に千五百部といえば、一箇月間に十万部も売れる評判小説にくらべて、いかにも見すぼらしく貧寒の感じがするけれど、一日に一冊ずつ売れたというと、まんざらでもない。「晩年」は、こんど砂子屋書房で四六判に改版して出すそうだが、早く出してもらいたいと思っている。売切れのままで、二年三年経過すると、一日に一冊ずつ売れたという私の自慢も崩壊する事になる。

 ちなみに『女生徒』は一九三九年にやはり砂子屋書房から刊行された短編集だ。「女生徒」の他に、「富嶽百景」や「満願」などが収録されている。
 この太宰の言を信じれば、『晩年』は一九四一年までに一五〇〇部、『女生徒』は二〇〇〇部が売れたということになる。『女生徒』は増刷されて計三〇〇〇部となり、『晩年』新装版の発行部数は不明だが、旧版と合わせても一万部を超すことはなかっただろう。同じ文章のなかで太宰は「文学書は、一万部以上売れると、あぶない気がする。作家にとって、危険である」などとも言っており、いまだに一万部以上売れた著作はなかったのだと思われる。現在、太宰治といえば、いまだに人気作家の一人と言っていいだろう。だが、太宰が初めから人気作家であったわけではないことがおわかりいただけただろうか。
 ここで一九二〇年代から三〇年代にかけての出版事情を見ておこう。そうすることで、当時の太宰がどの程度の作家だったのかということが具体的に見えてくるはずだ。
 まず、雑誌が一九一〇年代後半に販売システムが確立したことによって―具体的に言えば、買い切り制から返品可能な委託販売制に変わったり定価販売が定着したりしたことによって―売り上げが伸び、新しい雑誌も続々と創刊された。それに伴い、原稿料も上昇し、作家の経済的な生活も楽になった(以下の記述は基本的に山本2013を参照している)。
 書籍のほうも雑誌に比べると緩やかではあったが、定価販売がしだいに定着していった。そのように販売システムが確立することによって、出版界が活性化していき、新規参入する業者も多くなった。
 だが、一九二三年の関東大震災による不況からは出版界も無縁ではいられなかった。一九二七年に改造社から刊行が開始された『現代日本文学全集』は、倒産寸前だった刊行元の窮余の一策だったとされる。どの巻も定価一円で、毎月一冊刊行、完全予約販売という、いわゆる「円本」の嚆矢となったこの叢書は二五万人の予約者を獲得し、他の出版社も同じような叢書を続々と刊行していった。そのようにして円本ブームと呼ばれる状況が出現したのである。
 円本ブームは、それらに収録された作品の書き手や出版社には多くの利益をもたらしたが、円本以外の雑誌や書籍が売れなくなるという副作用もあった。その影響を最も受けたのは、いまだ円本に収録されるような作品を書いていなかった新進作家に他ならない。特に、いわゆる「純文学」の作家たちを取り巻く経済的な状況は、実に厳しいものがあった。ちなみに「純文学」という言葉が頻りに言われるようになるのは一九三〇年代になってからのことだ。一九二〇年代から三〇年代にかけて、大衆文学やプロレタリア文学が華々しく注目されるなかで、既成文壇の側はそれらとは違う「純文学」の特質を主張する必要に迫られていたのである。
 一九三三年には、政府の弾圧が厳しくなるなかでプロレタリア文学が急速に退潮するとともに、「文芸復興」という言葉がさかんに言われるようになった。「文學界」および「文藝」が創刊され(どちらも発行元を変えつつ現在も存続している)、すでにあった「新潮」とあわせて、文芸誌は計三誌となり、「純文学」作家たちの作品発表の舞台もそれなりの数となった。太宰治が作家としてデビューしたのは、そのような時代だったのである。太宰の「道化の華」(一九三五)には「市場の芸術家」という言葉が見えるが、「純文学」もまた市場のなかに組み込まれ、大衆文学に奪われた読者をいかに奪還するかということが問題となり、その商品性が厳しく問われた時代でもあった。
 だが、一九三七年に日中戦争が開戦して以降、雑誌や単行本の売り上げは急激に増加することとなる。文芸書もその例外ではなかったことは、たとえば『新潮社一〇〇年図書総目録』を見れば明らかだ。石川達三『結婚の生態』(一九三八)が二四万二〇〇〇部、阿部知二『街』(一九三九)が七万六〇〇〇部、尾崎士郎『新篇坊っちゃん』(同)が六万四〇〇〇部、林芙美子『決定版 放浪記』(同)が一〇万四〇〇〇部などとなっている。総発行部数が二五〇万部とも言われる火野葦平の「兵隊三部作」(『土と兵隊』改造社、一九三八など)は例外であるとしても、他の出版社においても概して文芸書の売れ行きは好調だった。
 そのような事態が起きた要因としては、まずは円本ブームによる読者層の拡大が挙げられる。先述したように、短期的には他の書籍や雑誌が売れなくなるという副作用があったものの、長期的には、何十巻とある文学全集が家庭にあるという環境は、日常的に読書をする習慣を持つ人々を多く生んだのである。円本ブームが終息した後も、各種の円本は廉価な古本として流通し、「純文学」の読者層の拡大に一役買っていた(永嶺2001)。また、「純文学」の作家たちも物語性を取り入れた作品を多く書くようになっていったことや、それらの作品を原作とする映画の増加などという要因も小さくないだろうし、一九三五年に制定された芥川賞・直木賞のようなメディア・イベントも多少の寄与はしているかもしれない(右で名前が挙がっている石川達三や火野葦平は芥川賞受賞者である)。
 つまり、一九三七年以降の出版界は空前の好況を享受していたのだが、そのような同時代の状況を眺めてみた時、著書の発行部数が一万部もいかない太宰治のような作家は、人気作家とはとうてい言いがたいだろう。もちろん作家としての収入だけで妻子を養っていくことは、容易ではなかったはずだ。太宰が作家となってからも毎月九〇円の仕送りを生家から受けていたのは有名な話である。
 ただし、一九四二、三年になってくると、ようやく太宰の著書の発行部数も一万部を超すようになっていたようだ。太宰の妻である津島美知子は、『右大臣実朝』(錦城出版社、一九四三)の初版の部数が一万五〇〇〇部だったことを明かし、太宰の著作の初版は「それ迄千部台にとどまっていたのに、この数字は著者にとっては嬉しい驚きであった」と述べている(津島1978)。錦城出版社は、立川文明堂、崇文館、増進堂という大阪の出版社三社が共同して起こした社で、一九四三年には経営不振に陥り、増進堂に吸収されたようなのだが、この発行部数の多さは他の出版社と比べた場合、やや目を引くものがある。
 太宰の著書には、奥付に発行部数が記されているものがあるので、それで初版の部数を確認しておこう。『正義と微笑』(錦城出版社、一九四二)が一万部、『女性』(博文館、一九四二)が五〇〇〇部、『信天翁』(昭南書房、一九四二)が五〇〇〇部、『富嶽百景』(新潮社、一九四三)が一万二〇〇〇部、『右大臣実朝』が一万五〇〇〇部、『佳日』(肇書房、一九四四)が五〇〇〇部、『津軽』(小山書店、一九四四)が三〇〇〇部、『新釈諸国噺』(生活社、一九四五)が一万部、『惜別』(朝日新聞社、一九四五)が一万部、『お伽草紙』(筑摩書房、一九四五)が七五〇〇部である。
 新潮社から刊行された『富嶽百景』は「昭和名作選集」という、各作家の代表作が集められた叢書の一冊なので発行部数が多くなっているのは当然として、他に初版の発行部数が一万部を超えているのは、金城出版社から刊行された『正義と微笑』および『右大臣実朝』の二冊、それから戦争末期の『新釈諸国噺』と終戦後の刊行となった『惜別』である。
 では、それらはどの程度売れていたのだろうか。やはり津島美知子によれば、「太宰の生前にあっては最も広く読まれた著作」は『新釈諸国噺』であると言う(津島1953b)。初版の発行部数が一万部で、四版まで出たということなので、かなり多く見積もっても計四万部というところだろう。ちなみにベストセラーと言われている『斜陽』(新潮社、一九四七)の太宰の生前における発行部数は計三万部とされているが、それと同じくらいの数字だったのではないかと推測される。
 つまり、太宰は生前にあっては最も売れた著書でさえ、発行部数は三、四万部にとどまっていたのである。人気作家のものというには、いささか侘しい数字ではないだろうか。では、太宰が人気作家となったのは、いつなのか。
 一つの画期は、太宰の死後に起きたブームに他ならない。戦争未亡人との情死というスキャンダラスな事件は、遺体がなかなか見つからなかったという事情ともあいまって、メディアに恰好の話題を振りまいた。太宰の名前は「文学」に疎い人たちの間にまで広く浸透し、それまでろくに売れていなかった太宰の著書も次々に売れていった。
 だが、それで太宰が人気作家として不動の地位を築いたのかといえば、そう簡単な話でもない。たとえば太宰の愛読者として知られる小林信彦は、太宰の死後に刊行された福田恒存『太宰と芥川』(新潮社、一九四八)と福田恆存編『太宰治研究』(津人書房、一九四八)の二冊を挙げたうえで、次のように言っている。
 大ざっぱに言ってしまえば、昭和二十年代前半には、太宰治についての評論のたぐいはほぼこれだけである。太宰治論や研究が輩出するのは昭和三十一年以降であるから、ぼくの記憶にある太宰は〈黙殺された天才〉―ということになる。この点で、教科書で太宰治の名を知った二十代、三十代の人とは、話が噛み合わないのが当然である。(小林1989)
 太宰の死後に起きたブームは一年も経たないうちに下火となり、太宰についての言及も急激に少なくなっていったのである。太宰を「黙殺された天才」と感じることは、一九五〇年頃においては、そう不思議なことではなかったと思われる。
 では、太宰はその後、どのようにして人気作家となったのだろうか。ヒントは右の文章の中にある。なぜ「太宰治論や研究が輩出するのは昭和三十一年以降」なのか? それを考えれば、「昭和三十一年」(一九五六年)の前年に筑摩書房から刊行開始された『太宰治全集』に注目しないわけにはいかなくなるだろう。それまで鳴りを潜めていた「黙殺された天才」に関する言説は、その全集が刊行されたことによって一挙に噴出することとなったのだ。
 もちろん、太宰ブームはそれで終わったわけではない。特に一九六〇年代後半には、それまでの二度のブームを上回る大きな盛り上がりを見せている。太宰が本当の意味で人気作家となるのは、この三度目のブームにおいてであると言うことさえできるだろう。
 だが、このような理解は現在ほとんどの人が持っていないはずだ。太宰治といえば、生前から人気作家だったのではないか。そのような漠然としたイメージを持っている人は少なくないだろう。しばしば人は現在における作家イメージでもって過去の作家をも眼差してしまう。しかしそれは倒錯に他ならない。たとえば、夏目漱石の代表作はある時期までは「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」であって「こころ」ではなかったし、川端康成も一九四〇年代までは親友の横光利一のほうがずっと有名だった。作家イメージというのは歴史的につくられるものなのであって、その起源(歴史的な形成過程)を見失ったとき、ずいぶんと歪んだ文学史理解が現れてしまうに違いない。
 本書は、〈太宰治〉という作家イメージの形成過程を追った書物である。〈太宰治〉はいかにして人気作家になったのか? 死後の受容を辿ることで、その様相を明らかにしたい。とともに、太宰を軸にして、この国の戦後のあり方を照射することをも目論んでいる。
 本書を読み進めれば、幾度かにわたる太宰ブームによって、〈太宰治〉が人気作家として着実に定着していったことがわかるだろう。太宰が人気作家であるということは、その作品が優れているという理由だけでは説明することができない。それは歴史的に形成されたものなのであり、作品の優劣以外のさまざまな要因が絡んでいるのである。優れた作品を書く作家が必ずしも読み継がれていくとは限らないし、有名な作家の作品が常に優れているわけでもない。太宰が急激に読者の数を増やしていったのは、日本経済が右肩上がりで成長を続けていた時代とちょうど重なっている。それは偶然なのか、それとも―? ともあれ、〈太宰治〉が日本社会においてどのように受容されていったのか、その具体的な様相をこれから検討してみることとしよう。
 なお、作品や資料の引用に際しては、基本的に新字・新仮名遣いに改めた。(ただし、個有名詞は旧字を使用している場合がある。)本書が少しでも多くの読者に届くことを心から願っている。


ご注文は、最寄りの書店さんでお願いします。
お店に在庫が無くても、お取り寄せができます。
書店が最寄りにない場合は、オンライン書店でご注文ください。

 

 



お急ぎの場合は、小社あてにご注文いただくこともできます。
郵便番号、ご住所、お名前、お電話番号をメールか、FAXでお知らせください。
送料432円でお送りします。
新刊案内へ
ひつじ書房ホームページトップへ